Abend 開幕
道標
「あっ、いけない。ちょっと場所を変えるね」
「え?おい、ちょっと待てって」
彩香はあたかも壁のポスターを見るように顔を背けて、巡回している制服の警官をやり過ごした。
通り過ぎたのを確認すると反対方向へ走った。
公彦は携帯を耳に当てたまま本屋へと走り続けている。
「人が多くて見えないな、どこにいるんだ?」
「・・・」
「おい!返事を」と言って口を噤んだ。
制服を着た警官とすれ違った。
なるほど。もし近くに誰かがいたら話ができないな。
公彦は音の聞こえない携帯電話を耳に当てたまま、目だけで彩香を探した。
「・・・」
公彦も電話越しの彩香も無言のまま。お互いを捜した。
不自然な程の早足は余計に目立つが、本屋の前を素通りして奥へと向かうと屋上への階段が見えた。
なるほど、そう言うことか。
公彦は走って階段へ走る。
踊り場を駆け上がるとき、一瞬足を止めた。
誰かが後を付けてきているような気配を感じて、階段を見下ろしてみる。
誰も居ないのを確認すると、短くため息をついた。
自意識過剰かな?自嘲してから、一段飛ばしで駆け上がり、安っぽい作りのドアを開ける。
「うわ!」
冷たい風が吹き抜ける。
小さい子ども向けの遊具が並ぶそこに、今の時間子供はいない。
代わりに、タバコを吸っているサラリーマンが数人、風に肩を竦めながら灰皿の周りに固まっている。
遊具からの軽いリズムの音楽が虚しく流れる中、電灯の明りも余り届かない隅の方に、彩香はいた。
「一倉!」
思わず怒鳴り声になった。
どれだけ心配したことか、思い知らせてやりたかった。
が、顔の筋肉はどうしても緩んでしまって、変な笑顔になりながら駆け寄った。
「お前なんだその格好は?2日間も何処にいたんだ?」
「2日?1日でしょ?」
「2日だよ、ナンだ?丸一日何処かで寝てたのか?」
キョトンとしている彩香の大きな眼は、事件前と変わらず、もしかしたらそれ以上に透き通っているように見える。
公彦は力の入っていた肩を落として短く溜息をつくと、首を振りながら微笑んだ。
「まぁ良いか、心配する程じゃ無いみたいだな」
彩香は少し笑顔を作ったが、すぐに眉を寄せた。
「お母さんと、菜月たちの様子を知りたいんだけど、あの時の刑事さんに連絡取れないかな?」
「え?お前、お母さんの事も知らないのか?」
彩香は唇を噛んで俯いた。
「おれも色々聞きたくて、警察署にも言ってみたんだけど、あのおっさん刑事には会えなかったんだ。学校ではあの事件のことは口止めされてて、誰にも聞けないんだよ」
「そうなんだ・・。ある人がね、菜月たちやお母さんはみんな・・・」
言葉が詰まり息が少し乱れる。
「だけど、そんなの信じられないし、本当のことを」
彩香は首を振って口を噤んだ。
「じゃあ俺と一緒に、警察へ行こう」
「うん、そうしたいけど、時間が無いの。私、もう行かなくちゃ」
「何で?何処へ行くんだ?俺も一緒に」
「駄目!中澤に迷惑はかけられない」
「もう十分掛かってるよ、俺は学級委員だぜ。お前のことを先生達にも知らせる義務がある」
言ってることに無理があるのは判ったが、勢いで押し切った。
「そっか、ごめんね、迷惑かけて。でも本当にこれ以上は、誰も巻き込みたくないの」
彩香はそう言いながらフェンスの外に眼を向けた。
遠くを見詰める横顔が町の明りに照らされて、ほんのりと軟らかく見える。
「一倉・・」
「私、今、ここに来てハッキリ解かった。多分・・いえ、間違いなく、あそこに居る」
そう言って、彩香は夕闇の一点を指差した。
公彦が視線を合わせると、その先には建設中の高層ビル『グリーンガーデン』が見えた。
公彦は背中に電気が走るのを感じた。恐怖にも似た感覚だった。
街並みは綺麗な夜景を作り出し、西の地平線を縁取るように、オレンジの細いラインが光っている。
その景色の真ん中に黒い巨大な影が、空を突き刺すように聳え立っているのが見える。
「誰がいるんだ?お前は一体・・」
自分には理解できないものを彩香は見ている。
そんな気がした。ビルを見詰める彩香の顔を見ながら、喉を一つ鳴らした。
突然、背後が騒がしくなった。
出入り口の辺りにどよめきを感じて振り返ると、十数人はいるだろうか。
制服の警官達が、ドカドカと雪崩れ込んできているのが視界に飛び込んできた。
辺りにいた人々は、何事かと道を開ける。
警官たちは左右に展開し、何かを探す鋭い視線を振り回す。
その一番最後から黒いロングコートの裾を風に靡かせて、眼に鋭い光を携えた柳がゆっくりと入って来て辺りを素早く一瞥した。
公彦にはその眼光がなんとも鋭く、恐ろしいものに見えて息を呑んだ。
屋上へ踏み出す足の動きがスローモーションに映り、彩香を連れ去りに来た、忌むべき者達の使者の様に見えた。
「逃げよう!」
そう言って振り返った時、既に彩香の姿は無かった。
頭上に気配を感じて見上げると、フェンスの上を舞うように、フワリと飛び越えている彩香がいた。
「嘘・・・だろ」公彦は唖然として呟いた。
音も無く、風船が着地するかの如くフワリと両足をそろえると、そのまま屋上の縁を絶妙なバランスで走り出した。
「一倉!」
公彦は一瞬遅れて追おうとした。
「来ちゃ駄目!」
振り向いた彩香の訴える眼に制されて、公彦は足を踏み出せなかった。
走っていく彩香の姿はすぐに暗闇の中に消えて行く。
彩香に気付いた警官隊が、公彦の横を駆け抜けて行く。
立ち尽くして見送るしか出来ない公彦の脇に、柳が近付いてきて並んで立った。
「下へ行った」
抑揚の無い声で、耳にはめ込んだ無線機を二本の指で軽く押さえながら指示を出す。
公彦は彩香の消えて行った方を見詰めたまま、視線を動かすことが出来なかった。
一つ下の階にも屋上スペースがあるが、照明も無い其処は空調機器の室外機が何台も並び、轟音を立てているだけだった。
室外機の間から、その轟音に混ざって複数の足音と、彩香の抵抗する叫び声が聞こえてきた。
恐らく、下にも何人かの警官が、逃げ道を塞ぐ為に配置されていたのだろう。
「協力有り難う、これで事件は解決に向かうはずだ。君の御蔭だ」
公彦はその声に、眼を見開いた凄まじい形相を向けた。
「俺は何もしてないぞ、まさか、つけていたのか」
「そう怒るな、事件を一つ解決させる為の立派な行いだ」
「あ・・」
柳の斜め後ろに、エミリが立っていた。
踵を返した柳は、エミリの肩を軽く叩いてから歩き去った。
エミリは返事もしないで、唇を噛み締めながら俯いている。
公彦は、エミリの手に携帯電話が握り締められているのを見て、頬が急速に冷たくなるのを感じた。
「お前、何したんだ?何したんだよ!!」
エミリの両肩を、力いっぱい掴んで揺すった。
「痛い!」
エミリの悲鳴にも似た声に、公彦は我に返った。
「これしかなかったの!あの子だって警察に保護してもらうのが一番なのよ」
エミリは手を払うと、潤んだ眼で公彦を睨み上げた。
「そんな・・・違うだろ、あいつじゃないんだよ!」
掃き捨てながら、公彦は殴るようにフェンスにしがみ付き、真下にあるロータリーを見下ろした。
回転灯をつけたままのパトカーが数台止まっている。
暫くするとサイレンを鳴らしながらパトカーは縦列になって駅を離れて行った。
野次馬がその周りに壁を作っているのが妙に疎ましく見えた。
「一倉・・」
公彦の力の無い声が、冷たい夜空に溶けて行った。