夜宴の章 第四話
帰還
駅前の商店街は、何処を見ても気の早いクリスマスの彩で賑やかだった。
公彦は冷え切った手をポケットに突っ込んで、そんな風景を横目に歩いた。
あちこち探し回ったが、男の姿は結局見つけられなかった。
辺りはすっかり夜の風景に変わっている。
駅前のロータリーに止まるタクシーやバスは皆ライトを点けている。
公彦はロータリーの真ん中にある噴水脇のベンチに座って行き交う人波を眺めた。
会社帰りのサラリーマン、OL、学生、塾へ通うのか小学生まで、みんな何かに追い立てられるように脇目も振らず歩いていく。
彼らの行く先には一体どんな幸福があるのだろう。
何人の人が大切な人の所へ行くのだろうか、個人が幸せに感じる感覚なんて、全部嘘みたいなものなんじゃないのか。
そんな考えが巡り、投げやりともいえる感情に頭の中を支配されていた。
ベンチの背もたれに体を預けて大きく仰け反ると、見上げた真っ黒な空には小さな星がいくつか瞬いている。
肩の力が抜けて鼻で息を吐き出すと、それは微かに白い。
「おれは何をやってるんだろ・・」
ポケットから携帯電話を取り出して、何の変化もない画面をぼんやりと眺めた。
着信もメールもない。
ため息をつきながら耳にイヤホンを付けた。
元気が出るようにお気に入りの音楽を再生しようとした時、画面が突然変わった。
自分でも信じられないほど慌てて電話を落としそうになる。
電話の相手は、待ちに待ち心が焦がれた彩香だ。
「もしもし、おれ、俺だよ、中澤だよ、お前、今何処だ?」
抑えきれない気持ちに言葉がついていかない。
何とももどかしいし、恥ずかしい。
「メッセージ聞いたよ。心配かけてごめん」
緊張しきったぎこちない話し方の公彦とは反対に、電話からの彩香の声は妙に自然で、耳に心地よく響く。
なんでこんなにかわいい声に聞こえるんだろう?
訊いてるだけで満たされるようだ。
「もしもし?」
「あ!うん、一人なのか?今日学校におっさん達とは違う、嫌な感じの刑事がお前を探しにきたんだ。何か誤解があるようだから、俺と一緒におっさん刑事の所へ行こう、今からそっちに迎えに行く」
「いいの、大丈夫、それより菜月たちは?」
「奥原たちは面会謝絶としか聞いていない。てゆうかお前、一人じゃないのか?誰と一緒なんだ?」
公彦は上ずった声で言った。
「一人だよ。けど、今から行かなくちゃいけない所があるの」
「ドコへ行くんだ?」
「言えない・・」
「一人じゃ危ないって、警察はお前を疑ってるから、変に見つかったらどうなる分からねーぞ。俺が一緒に説明するから」
「ありがと、でも中澤を巻き込む訳には行かないよ」
「もう巻き込まれてる、ん?おまえ・・」
会いたくて躍起になってはいたが、いつもどこか冷静さが残っている公彦は彩香の背後で流れている聞き覚えのある音に耳を欹てた。
ついさっき訊いた曲が電話の向こうから聞こえている。
「ちょっと待て、お前、今近くに居るだろ」
「え?中澤は今何処?」
「おれは駅のロータリーにいる、お前駅ビルの本屋にいるんじゃないか?そうなんだろ!すぐ行くから少しだけ待っててくれ」
「駄目だよ!」
「待て、切るな!このまま繋いでて」
公彦は言いながらロータリーへ飛び出す。と、クラクションが鳴り響いた。
タクシーに轢かれそうになりながらも駅ビルへと走る。
エントランスのガラスドアを力任せに肩で押し開けて、再度エスカレーターを駆け上った。
「今行くからな」
病院の玄関の前で、浅野はウロウロしていた。
中に入ったものか、ここで待ったものか判断が付かなかった。
すると、急患入り口にサイレンを鳴らさない救急車が滑り込んできて止まった。
ハッチが開くと救命士たちは特に慌てた風もなく、中からすっぽりとシートを被せた一台のストレッチャーを降ろし、院内へ運んでいった。
「まさか」
浅野はそれに続いて中に入った。
等間隔に赤い雫を落としながら、ストレッチャーは医師の待つ緊急処置室へ運ばれていく。
シートが捲られると浅野は反射的に眼を逸らした。
原型をとどめていないそれは、とても直視できる状態ではなかった。
そしてそれがついさっきまで元気だった小田桐の妻だと聞くまでもなくわかった。
浅野は口を押さえて外へと走った。
静かだった。
どの位の時間が経過したのか、腕時計を見る気にもなれなかった。
周りには誰もいないような、何処か別の世界に置き去りにされたような感覚すら漂う。
壁にもたれかかりながら、小田桐はドアの上についている手術中のランプか消えたのを静かに見上げていた。
ドアが開き移動ベッドが静かに運び出される。
数人の看護士がそれを押しているが、先程までの慌ただしさは完全に消えていた。
看護士の一人と目が会うと、看護士は深く頭を下げた。
「あ・・・」
小田桐は夢を見ているようだった。
脳裏に残った息子の血だらけの顔さえ、なんだか幻覚だった様な気がする。
全てが夢のように思えた、妻との出会いから息子の誕生、全ての記憶が曖昧の中に消えていくような気がした。
「俺は、何もできないのか・・・」
小田桐は胸元から拳銃を取り出して、こめかみに銃口を押し付けた。
目頭が熱くなって、瞼を閉じると冷たい雫が一滴、頬を伝い落ちた。
ゆっくり引き金を絞る。
ガチッと、鉄が擦れる音だけが響いた。
止めていた息を思いっきり吐き出すと、溜まっていた涙と、鼻水と、涎が一気に溢れて落ちた。
「政子・・慶介・・俺は、どうすればいいんだ?」
小田桐は呟き、鼻をすすり上げて天井を仰ぎ見た。
大きく息を吐き出し立ち上がると、踵を返してよろよろと歩き出した。
目の前が揺らめいて真っ直ぐに歩けない。
壁の手すりにすがる様にもつれる足を進める。
妻と一緒に子供の成長、成人する姿を見ていくはずだった。
まさか自分達がこんな事態になるなど露ほどにも考えたことは無かった。
一瞬のうちに全ての記憶が頭の中を巡って、咽喉の奥が熱くなった。
廊下には小田桐の靴音だけが響く。
静かな世界だ。
薄暗い闇の中、柱や観葉直物がわずかな光に照らし出されている。
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誰もいないこの空間で人間以外の何かになりたい。
心の底からそう思った。
-それもいいかもな
ふと誰かがそう言った。
振り返るとベンチシートの向こう、薄暗くてよく見えないが何かが横切ったような気がした。
目を凝らしてみる。
影に紛れる様な黒い服を着た男が、小田桐を見詰めて立っていた。
「・・・」
何を話しかけるでもなく、暗くて表情もよく見えないはずなのに、なぜだろう。
昔からの友人に会ったような懐かしさを感じた。
男はふと顔を逸らすと足早に玄関を出て行った。
呆然としたまま眼はその姿を追っていたが、男の姿が見えなくなると我に返った。
「おい!ちょっと待て!おい!」
弾かれたように走り出し、叫びながら男の姿を追いかけて玄関を飛び出す。
病院の門を走り抜ける男の姿が見えた。
「待て!」
小田桐は鬼のような形相でそれを追って走った。
車の中で浅野は涙を拭いていた。
仕事柄人の死には嫌というほど立ち会ってきたが、知人の死に直面するのは初めてだった。
気付かれないように隠れて覗き見た小田桐から、深い悲しみと絶望だけが伝わってきた。
「こんな時、僕はどうすればいいんだろう」
車の前を誰かが慌ただしく横切った。
驚いて顔を上げると自分の目を疑った。
血相を変えて走っていくのはさっきまで屍のようになっていた小田桐だ。
「課長!どうしたんですか?課長!」
浅野は慌てて声をかけるが小田桐は振り向きもしない。
「目つきがおかしい!」
浅野は後を追って駆け出した。
コートの影は角を曲がる都度、その距離を引き離す。
小田桐は僅かな残像を追って走り、浅野は小田桐を追って走った。
「課長、待ってください、どこ行くんですかぁ」
精一杯の声も小田桐には全く聞こえていないようだ。
路地を曲がり、ネオンきらめく大通りを横切り、走り続けて30分が経とうとする頃、浅野の足が限界に近づいたころ辿り着いたのは、見慣れた建物の裏口だった。
「なんで?戻るなら車で来れば・・・」
県警本部の北玄関だった。
小田桐は勢いそのまま本部に駆け込んでいく。
「え?なんで?」
不思議な光景だった。
走る小田桐の速度に合わせ、自動ドアはまるで迎え入れるかの様に開いた。
近くに他の人影は、無い。
奇怪な光景だった。
小田桐はそのまま廊下を走って階段を上がり、刑事課のフロアでようやく立ち止まった。
肩で息をしながら周りを見渡す。
数人の警官達が何事かと小田桐を遠巻きに見詰めた。
数分遅れで追いついてきた浅野は、小田桐の背中を見ながら息を整える。
「どこへ行った?」
「誰がですか?」
浅野は返事するのも辛い。
「今まで追ってきたやつだよ!ホストみたいなナリの男がいただろ」
「そんなの見てませんよ、僕は課長だけを追いかけてきたんですから」
「黒っぽいコートを着たやつだぞ、俺はそいつを追いかけてきたんだ」
見たことも無い小田桐の取り乱し様に、浅野の顔は強張った。
「何言ってんですか?誰も見てないですよ。課長が一人で走ってたから」
「何だと・・ん?」
小田桐は浅野の背後にある壁に目をやって眉を寄せた。