夜宴の章 第三話
暗闇の中へ
政子と慶介は別々の救急車で搬送された。
一般車両の間を縫うように疾走して、10分程で病院の急患用のエントランスに滑り込む。
慶介と同じ救急車に乗り込んでいた小田桐が停車と同時に飛び降りると、玄関で待ち構えていた看護士たちが駆け寄ってきた。
途中まで後ろに付いて走っていた政子のの救急車まだ見えない。
すばやく引き出されたストレッチャーは、院内の廊下を手術室に向かって速度を上げ続けた。
輸血パックから伸びる管が細い腕に差し込まれ、看護士の一人が片手でそれ持ち上げながら走り、医師や看護士たちがその脇で大声を出しながら連携を取り合っている。
小田桐は不規則に乱れる呼吸でなんとかストレッチャーに付き添い、横たわる息子の黒く焦げた手を握り締めながら声をかけ続けた。
「慶介!慶介!返事をしろ!パパ、此処にいるぞ!慶介!」
煤と火傷が顔中を黒く塗り替え、右目の上の傷から流れ出る赤黒い血が止まらない中、慶介の目が僅かに開いた。
小田桐は、取り付くように顔を寄せ話しかけた。
「慶介、判るか?パパだよ。慶介」
震えるのを押し殺しながら、ようやく絞り出した声だった。
小さな顔には不釣合いなサイズの酸素マスクが、血を吐き出す口元を覆っている。
その中で僅かに動く唇は、聞き取るのもやっとの声で何かを言った。
小田桐は顔を寄せて、こちらを見つめる小さな眼を精一杯の力で見つめ返して聞き耳を立てた。
「パパ・・僕・・いい子?・・お留守番・・・」
小田桐はその一言一言に頷きながら、歪む顔を無理やり笑顔に変えようとして顔中の皺が一斉に深くなった。
「ああ、いい子だよ。パパの自慢だよ慶介は」
「輸血をもっと!」看護士が叫んだ。
「腹部の出血が止まりません!」
看護士たちの大声がうるさいくらいに飛び交う。
「慶介、聞こえるか?大丈夫だ、すぐに元気になる、そしたらまた遊びに行こう。だから、がんばれ」
小田桐は慶介の小さな手を握る手に力を入れた。
「パ・・パ・・いた・・い・・」
「大丈夫だ慶介!パパ此処にいるからな、がんばれよ!がんばってくれよ」
堪えきれずに悲痛な叫びになってしまった。
「いた・・」
「・・・」
「・・・」
「慶介・・・?おい!慶介!」
僅かに開かれたままの慶介の目は、のぞき込む小田桐の顔を映したまま動かない。
「慶介・・慶介?・頼むよ・・返事を・・・」
小さな手を両手で握り締めて、喉の奥からようやく搾り出した声は、途中で音にならなくなった。
ストレッチャーは手術室のドアの中へ、看護師達と一緒になだれ込んでいく。
「お父さんは、ここで待ってください」
看護士が冷徹に、しかも力強く言い残したその言葉にそれ以上どうする事も出来なくなって見送ると、手術室のドアは大きな音を響かせて閉じた。
廊下に一人残された小田桐は、ドアの向こうに消えた息子の残像を思い出しながら全身の感覚が無くなっていくような気がした。
そして、ただ呆然と立ち尽くした。
17:55
芦土詩織が消えた。
病室前の警備の警官の姿が無く、嫌な予感にドアをあけると園茨は愕然とした。
ベッドの上の寝具が乱れて毛布が無造作に床に落ちている。
ベッドに手を当てると未だ微かに温もりが残っている。
園茨はナースステーションに走った。
「芦土詩織はどうした?」
ガラス越しに中の看護士に叫ぶ。
「は?部屋から出てませんけど」
看護士はキョトンとした顔で答えた。
園茨は舌打ちして玄関ロビーへ走った。
覚悟はしていたが組織がここまで素早く行動を起こすのは想定外だった。
情報は漏れないように万全を期していたのだが、もっと慎重に扱うべきだったとの後悔からこめかみが破裂しそうだった。
「走らないでください」
階段ですれ違った看護士の怒る声にも構わずに走り抜けた。
玄関の自動ドアを駆け出して余り広くない駐車場を見渡すが、暗くなった景色の中では詩織を特定できない。
バスやタクシーを待つ人の列を睨む様に確認しながら大通りへと走る。
ライトをつけた車が増えて、街灯には明りが灯っていた。
すると、ちょうど目の前を猛スピードで黒塗りの高級車が横切った。
3,4台が連なって走っていく。
「・・・あれじゃない」
直感でそう思った。
車の走ってきた方向へアスファルトを蹴った。
車道の向こう側の歩道を歩く人たちが、商店の明りにシルエットになって見える。
息を切らしながら大きく周辺を見回すと、黒っぽいロングコートの下に不自然な形のズボンを穿いている女性の後姿が見えた。
園茨は全力でそれを追いかけ、追い付き様、女性の肩に手を掛けた。
驚いて振り返った女性の顔は、全く別人だった。
「すみません」
言うが早いか園茨はまた走り出し、歩道橋を駆け上がると橋の上から詩織を探した。
叫びたい気持ちが込み上がり欄干を握る手に力が入る。
「GPSを手首にでもつけておけば・・・」
後悔の念で胸が締め付けられ息苦しい。
唇をかみしめ拳を握りしめる。
-あなたは悪くない-
ふと病院の出入り口に目を向けると、園茨は全身の鳥肌が立った。
詩織が見知らぬ男に肩を抱えられながら歩いていくのが見える。
院内で追い抜いてしまったのか。
園茨は階段を駆け下りて来た道を全速で戻る。
「そこの男、止まれ!」
走りながら叫ぶ声は、詩織たちの周りの通行人にも聞こえて道行く人々が皆一斉に振り返った。
手を引いている男も振り返り園茨を確認すると、詩織を抱えたまま走り出した。
園茨は人波を掻き分けて2人を追う。
よろけながら走る詩織を連れているのに、どういう訳か男の走る速度は上がっていく。
人の間を巧みにすり抜けて流れるように走る詩織たちの姿は何度と無く視界から消えたが、園茨は足を止める気は無かった。
過去いろいろ体験した中で、これ以上無い位全速力で走り続けた。
大通りを脇道へと曲がり、歩道の無い狭い道路へ駆け込んでいく。
男の背中は一向に近づかない。
一定の距離を保ったまま街灯も疎らな狭い道へ、そして住宅街の路地へと、詩織を抱えて逃げていく。
高架線の下、オレンジ色のライトが変に眩しい四角いトンネルの中を抜けるとき、背後から急速に近づく人の気配を感じて一瞬振り向いた。
が、そこに人影は無く、その一瞬目を離した僅かな時間で詩織たちは園茨の視界から完全に消えた。
息を切らせながら、園茨はトンネルの出口に立ち尽くす。
「此処で逃がしたら、詩織には2度と会えない」
そんな予感で胸が締め付けられる。
眼を閉じて耳を澄ます。
雑踏の中、足音だけに集中する。
気のせいかも知れないが、僅かにそれが聞こえた。
顔を上げてトンネル脇のコンクリートの階段を駆け上る。
踊り場で体を捩ると、ビュンと風切音と共に頬を何かが掠めた。
その瞬間、尋常でない熱さが広がり、背後のコンクリートの壁にそれが突き刺さった。
「なんだ?!」
驚きの余り瞬間的に体が固まる。
頬に生暖かい液体が流れ落ちるのが分かる。
直後、熱さから鋭い痛みに変わった。
頬が裂けている。
「!」
階段の上にはこちらを見据えて動かない人影。
暗くてよく見えないが、体の中心に棒を構えて微動だにしない。
それが弓を構えているのだと解かるのに時間はかからなかった。
「何者だ!」
園茨の腹の底からの突き上げるような叫びは、恐怖をかき消すためでもあった。
黒い塊にしか見えないそれは、姿勢をそのまま後ろへ下がって消えた。
園茨は脇のホルダーからスミスアンドウェッソンを出し、構えながら慎重に階段を昇った。
登り切ったそこは小さな駐車場で、すぐ脇を通る線路を地面を揺らしながら電車が横を通り過ぎて行く。
ビルに囲まれたその空間を電車の明かりがストロボライトのように照らす。
園茨は構えた銃はそのまま光の届かない暗がりに目を凝らした。
車の間の暗闇に、詩織の肩を抱きかかえている男が僅かに見えた。
真っ黒なロングコートにハンブルグ帽子を被って、ツバの下から鈍く光る眼で園茨を見据えている。
詩織はぐったりした様子で抱えられたまま俯いていた。
「死にたくなければ引き返せ」
電車が通過していく騒音の中、その言葉ははっきりと園茨の耳に届いた。
「倉賀野蓉恒!」
よもや疑いようはなかった。
ギャラリーアーベントのオーナーにして、政財界に強いパイプを持ち、特殊な能力と強大な資金力で秘密結社を纏め上げる、素性の全く判らない男。
点滅する光に照らし出されるその姿に、スミスアンドウェッソンの銃口を向けたまま、園茨は体中が硬くなっていくのを感じた。
瞬きさえ出来ない瞳は急速に乾くが視線を外す事が出来ない。
倉賀野の鋭い眼光に膝が震え、嫌な汗が背中を落ちる。
騒がしい電車が通り過ぎると、辺りは暗闇と静寂に包まれた。
暗がりに倉賀野の姿が確認できないでいると、セルモーターの甲高い音が重複して響き、数台のヘッドライトが一斉に点灯した。
足元が発火したように地面が眩く照らし出されたかと思うと、それに反射した光で車の間に数人、倉賀野以外の黒い影がこちらに向け何かを構えているのが分かった。
園茨は構えていた腕をだらりと下げると、銃をその場に落とした。
「逃げ切れると思ってるのか!?」
精一杯の強がりだった。
声が僅かに震える。
「・・・」
倉賀野は何も答えず詩織を車に押し込む。
「必ず取り返す、必ずお前達を捕まえる」
拳を突き出して、歯を食いしばりながら叫んだ。
まるで何も聞こえないかのような倉賀野が乗り込むと、すぐに車は動き出した。
それに続いて3台のセダンが順に走り去っていく。
園茨はその場に立ち尽くし、車の尾灯を見送ることしかできない。
最後の車のテールランプが角を曲がって見えなくなると、無意識に開いていた口から雄叫びが吐き出された。
無力を実感した。
いつの間にか大量の涙が零れ落ちている。
腹の底から一頻り吐き出すと、園茨は折れるように地面に膝を突いた。