夜宴の章 第二話
排除
16:34
「悪いがよく聞こえなかった、もう一度。。」
署長室の中、小田桐は大きな光沢のある机の前に立ち、飯塚を見下ろしながら腕組みをしている。
「君は本件から外れてくれ」
飯塚は机の上で手を組んで、大きなタメ息を吐出しながら言った。
飯塚と小田桐とは長い付き合いだ。
署長と管下の刑事という関係ではあるが、周りの眼が無ければ小田桐は敬語さえ使わないだろう。
十年以上の歳の差はあるものの、幾多の事件現場を共に乗り越えてきた戦友だ。
決して馴れ合うことは無かったが、互いを尊重し結構上手くやってきたつもりだった。
「いきなり呼び付けたと思ったら、何の冗談ですかね?」
「我々の管轄を超えた、と理解してくれればいい」
飯塚の歯切れの悪い物言いに小田桐も苛立ちを隠さなかった。
「上がどうとか、そんなこと言ってる場合じゃないでしょうよ」
「言いたいことはあるだろうが、今回は何も言わず、命令に従ってくれ」
互いに譲らない睨み合いにどの位時間が経ったであろうか。
「署長、何があったんですか?」
仕方なく、そんな顔だった。建前ばかりじゃ真意がまるで分らない。
「家族を大事にした方がよろしいですよ」
いつから居たのか、柳が会話に入ってきた。
その後ろには芹沢も居る。
小田桐が入ってくる前からドアの脇の壁際に立っていたのか。
全く気が付かなかった。
「お言葉の意味が良く判りませんが?もうすこし判りやすく言ってもらえますかね?」
「つい先程、署長宛に1本の電話が入った」
芹沢は銀色に輝く眼鏡の位置を調整しながら飯塚の代わりに答えた。
「我々は、何時如何なる時にも警官としての職務を全うすべし、だよな」
飯塚は眼を伏せてため息を落とす。
「だから解かり易く言えって」
「署長からは伝えづらいでしょうから、私が」
柳は飯塚の横に並んで背筋をピンと伸ばして続ける。
「ご丁寧にどうも」
皮肉にしか聞こえない。
「あなたの家族を狙う、との脅迫電話です」
小田桐は首だけゆっくり回して、睨みつけるように柳に視線を向けた。
「冗談ではありません、これを」
柳は署長の机の上の電話を操作して、録音された会話を再生した。
スピーカーから機械で変換された男の声が聞こえてきた。
会話ではなく、録音されていたものが勝手に流れているのがすぐに分かった。
「これは警告である。我々の計画を邪魔する者は、誰であろうと排除しなくてはならない。グリーンガーデンにおける事件の捜査を、直ちに打ち切らない場合は、捜査官小田桐雄一氏の家族、小田桐政子、小田桐慶介を対象とした実力を行使する。これは警告である・・・」
小田桐の目元が細かく痙攣した。
飯塚は黙ったまま眼を伏せている。
「この電話は30分程前にありました。逆探知で発信場所は割り出しましたが、目撃者の無い公衆電話でした。・・お二人は今どちらに?」
柳の小田桐を見る目には、同情さえあった。
小田桐は唇を真横に閉じたまま、窓の外を見ている。
「警官ではなく、その家族を狙うとは、非常に狡猾であり卑劣な脅迫です」
柳は言葉を切ると、眉間にしわを作って押し黙った。
「無論我々も、ただ引き下がるつもりは無いが、無理は出来ない」
飯塚はそう言いながら渋い顔を上げると、一転、眉を開いた。
「おれも随分有名になったな」
青褪めるどころか、ニヤニヤしている。
「冗談言ってる場合か!」
いきり立つ飯塚に、小田桐は鼻で笑って背を向けた。
「待て!どうするつもりだ?」
「どうもこうも?奴等のご指名なんだ。捜査から降りてる場合じゃないでしょ」
「お前じゃなくて、女房子供を狙ってるんだぞ!」
「分かってますって。折角だから、ちょっと旅行でもさせますよ。丁度何処かに行かせたいなと思ってたんで。最近どーも嫌な匂いがするんですよ、うちの周り」
小田桐は飯塚をチラリと見やると、悪戯っぽく笑って見せた。
「宮城の実家でのんびりするのもいいでしょ、早速準備させますよ」
飯塚は、小田桐の妻の実家は静岡だと知っていた。
結婚式にも出席した仲だ。
小田桐の嘘は、この場に居る誰かを疑っているのだと、すぐに分かった。
「分かった、すぐに警護をつける」
「大丈夫ですよ、多分奴等はあまり頭が良くない。脅し方も中途半端な奴らに、そうムキニなることもないでしょ」
小田桐は浅野を手招きして、部屋から出て行った。
「おい、小田桐!」
飯塚の呼び止める声も閉まるドアに遮られた。
「何処へ?」
芹沢が飯塚を見る。
「やつの息子が通っているのは青陵幼稚園だ、桜川区バイパスと5号線の交差点そばにある」
「パトカーで出ます」
芹沢と柳が、小田桐を追って出て行った。
浅野の運転するセダンの助手席で、小田桐は妻の政子に電話をかけた。
呼び出しはするが電話に出ない。
苛立ちを溜息で紛らせて、荒々しく電話を閉じる。
「・・・」
「迎えの時間で気が付かないだけですよ」
浅野の声は小さくて、聞こえたかどうかは分からない。
サイレンを鳴らして赤信号を猛進していくセダンに、少し遅れてパトカーが2台続いた。
幼稚園では、降園の迎えの保護者が集まりだしていた。
母親同士が挨拶し合ういつもの風景、政子も普段通り慶介の迎えに来ていた。
幼稚園は五号線から少し離れた、車も殆ど通らない裏道に位置している。
大通りからの曲がり角には、幼稚園の目印になる程、派手な看板を掲げたパン屋がある。
政子はいつも通りに、慶介と手をつないで歩き出した。
大小の組み合わせの、疎らな列が大通りへ向かう。
セダンはバイパスに出る一つ前の交差点を、後輪を滑らせながら曲がった。
正面にバイパスとの交差点が見えて、数組の親子が歩いているのが確認できた。
小田桐はその中に家族を探したが、未だそこには居ない。
交差点の横断歩道で手を振る親子達の後ろを、大型ダンプが、明らかな速度超過で走り抜けて行くのが見えた。
「まずい!」
小田桐の直感が全身の毛穴を開かせた。
浅野も同じことを感じ取ったようだ。
セダンはサイレンを鳴らして、近くにいる親子たちに注意を促しながら、ダンプの過ぎた交差点を右折する体制に入ると、タイヤを激しく擦りつけながら、あっという間に交差点を通過してバイパスに乗った。
と同時に、正面に見える五号線との交差点で甲高いブレーキ音が響いた。
ダンプの赤いランプが揺らいで車体がふらついている。
僅かに手の届かない時間が、目の前でゆっくりと流れていくように感じた。
次の瞬間、小田桐の視界に飛び込んできたのは、トラックの荷台が通り過ぎた後ろの、パン屋の看板だった。
「・・・あれ?」
浅野が肩透かしを食らったような、気の抜けた声を出す。
トラックは交差点を走り抜けていった。
「・・・なんだよ」
小田桐は止めていた息を吐き出しながら、助手席のシートに深く身を沈めた。
「何でおばあちゃんちに行くの?」
「ばあちゃんが、慶介に会いたいんだってさ」
小田桐は急ごしらえの大きな荷物を、トランクに詰めながら答えた。
「夏休みに行けなかったから丁度いいわね、慶ちゃん」
助手席に乗り込む政子がそれらしい説明を付け足す。
「明日の幼稚園は?」
「暫らくお休みだな」
「じゃあ、りっちゃんとか、キヨとかと遊べないじゃん」
「また帰って来てから、遊べばいい」
ごく普通の親子の会話は、数名の刑事と警官達に囲まれた物々しい警護の中で交わされていた。
郊外にある住宅地の中、小田桐の家の駐車場で、赤い小型のワゴン車に小田桐と妻と息子が乗り込んでいく。
慶介は先月五歳になった幼稚園児だ。
「パパも一緒にお泊りするの?」
「パパはお仕事だから、2人を送ってまたすぐ戻らなきゃ。毎日電話はするよ、ママとバアちゃの言うことをちゃんと聞いて、良い子にしてろよ」
「パパもね」
お惚けとはいえ署内では歯向かう者のない猛者も、家に帰ればただの人だ。
警官達数名が肩を震わせる。小田桐は横目でそれを見て咳払いした。
「浅野君、すぐ戻るから頼むよ」
かわいらしい小さな車は、妻の政子用に買ったものだった。
運転席から顔だけ出す小田桐には、全く似合わない。
浅野にはその組み合わせが滑稽にすら見えて、笑いを堪えるのが大変だった。
「了解です、お気をつけて」
赤いワゴンはゆっくりと道路へ出て行く。
「ありがとねー」
窓の中から、慶介が大きな声で手を振っている。
浅野達はニコヤカに手を振った。
走り出すと間も無く、街灯に明りが灯った。
「日が短くなったわね」
政子が風景を眺めながら呟く。
「この時期は一日毎に、暗くなるのが早くなる」
「そしたらお日様何処に行くの?」
慶介が口を挟む。
「何処にも行かないけどね、冬は夜が長い時期なのよ」
「ふーん、大変だね」
「別に大変じゃないよ」
小田桐は思わず吹き出した
。大人と会話を合わせたいのだろう、知っている言葉を何となく並べているのが分かる。
慶介はチャイルドシートに座りながら窓の外の流れる風景を喜んでみている。
「アッ、あのおにいちゃん僕に手を振ってる!」
「え?そんなわけ無いでしょ?誰か他の人に振ったのよ」
「だってこっちをみてたよ」
「じゃあ慶介も返事しなきゃ」
慶介は走る車の窓枠につかまりながら、手を振った。
窓の外の環状線は交通量が増えてくる時間帯で、歩道を歩く人の数も少なくない。
そんな中で、なぜ慶介が特定の人物とのやり取りが出来たのか。
小田桐達夫婦はその時は気にもしなかった。
慶介の視線の先にいた人物、長い髪の毛を風に靡かせた若い男
車は順調に走り続けていたが、ふと小田桐は胸のポケットに手を当てた。
「あれ?あれれ?」
「何か忘れたの?」
「うん、ライターが無いんだ」
「じゃあ高速に乗る前に、何処かコンビニで」
「うーん、まあ時間も掛からんし、タバコも吸いたいし」
小田桐は頭を掻きながら、近くのコンビニの駐車場へ車を入れた。
割と広いスペースだが時間帯の所為か満車だった。
丁度一台の車がバックし始めたので、入れ替わりに小田桐が車の頭を突っ込んだ。
目の前の柱には、今時珍しく公衆電話が設置されている。
「何かいるものはある?」
「じゃあ慶介に何か飲み物を買ってきて、炭酸は駄目よ」
「分かったよ」
小田桐は苦笑いして店内に入っていった。
野菜ジュースとライターを持ってレジに並び、会計のときにタバコを一箱注文した。
店員が銘柄を見つけるのに戸惑ったが、それは僅かに数十秒のことだった。
財布から小銭を出していると道路の方からタイヤの軋む音が聞こえてきた。
小銭を数えながら初めは気にもしなかったが、その音は急速に近付いてくる。
訝しく顔をかげた小田桐の目に飛び込んできたのは、大型の観光バスが店内を目掛けて突っ込んでくる、正に直前だった。
赤いワゴンがバスのすぐ前にある。
口を開く間も無く、ガラスは白く濁り、窓際に並んでいる本棚が飛び散る。
「きゃああああ」
店内に悲鳴が響きわたり、赤いワゴンとその隣のセダンがバス諸共怒涛の如く突っ込んできた。
割れたガラスが飛散し、電線がショートして火花を散らせる。
小田桐は腕でガードしながら、妻子の車から目を離さなかった。
隣の車はほぼそのまま突っ込んできたが、赤いワゴンは原型が確認できない。
飛び散るガラスが降りかかるのも物ともせず車に駆け寄る。
バスはまだその勢いを止めない。
「慶介!」
耳に響く声が、自分のもには聞こえなかった。
ワゴンはボンネットから火を噴出し、車内を真っ黒な煙に包まれながら、陳列棚を押し倒し店内のほぼ中央まで押し込まれた。
天井の照明が剥がれ落ちて、火花を散らしながら配線が垂れ下がる先端は、フラッシュする火花が眩く光っている。
夢中で車に駆け寄る小田桐の目に一瞬の閃光が走ると、小田桐の体は爆風で後ろへ吹き飛ばされた。