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深淵の章 第四話 朝靄ー工事中ー

朝靄の中で

06:22

 

風の上昇気流が少なくなった。


地上が随分と近くに見えてきた。


風の音が聞こえなくなると、彩香は急に体が重くなるのを感じた。


バランスを崩して、近くにあった樹の先端に手を伸ばす。


落ちる足を枝に絡みつけて必死にしがみ付く。


「ふぅ」


が、枝は簡単に折れて、声を出す間も無く、枯葉の積もった地面に背中から落下した。


「いったーい」


絞り出すように出した声が弱々しく響く。


暫くうずくまってから、震える腕で上半身を起こし空を見上げてみた。


さっきまでいた崖が、遥か遠くに見える。


風に乗ってかなりの距離を流されたようだ。


「ホントにあそこから・・」


足元の落ち葉は、立ち上がるとズブズブと沈み込む程軟らかい。


なんとも不思議な体験に感心した。


ズドン!ズシン!


背後で何かが落ちてきた音がした。


否、何かは分かっている。


彩香は飛び起きてまた走り出した。


足を落ち葉や小枝に捕られながらも必死に足を動かす。


右足が沈み込む前に左足を付いて体重を移動する。


のめり込むように走り続けた。


ガサガサと葉を踏む音を立て、背後に追っ手が迫ってくるのが分かる。


行く先に見える木々の背が徐々に低くなり、その枝も幹も、今までの木とは比べ物にならない程、細くなってきた。


気が付くと辺りはすっかり明るくなっていた。


茂みを抜けると、膝丈の野草が生い茂るなだらかな坂の原野が広がっていた。


さらにその先には、真っ直ぐに延びる幅の広いあぜ道があり、その向こうには水かさの多い川が見えてきた。


後ろに迫る重い足音は、段々近づいてきている。


振り向くな―


レイジとの約束を守り、ひたすら前だけ見つめて走る。


夢見心地のせいか、脚の動きが軽快で体も軽く感じる。


普段よりも早く走れているかも知れない。


草むらを抜け、土手のデコボコした轍の上を走り続ける。


「ジン、ジン、早く来て」


川のせせらぎに混ざって、低く響く機械的な音が聞こえてきた。


それは後ろからではなく、土手の下から昇ってくる。


大きな物体が、彩香の横を悠然と追い抜いていく。


見たことのあるトレーラーだった。


「ロープにつかまって飛び乗れ」


追い抜き様、助手席の開いた窓から聞いた事のある声が叫んだ。


彩香は言われた通りに、運転席とコンテナとの隙間に垂れ下がって揺れているロープに手を伸ばした。


風きり音がして、伸ばした手の先のコンテナに弓矢が突き刺さる。


彩香は反射的に手を引っ込めたが、すぐまた手を伸ばして、暴れるロープを両手で捕まえると、力任せに地面を蹴った。


体がフワリと中に舞う、と同時にトレーラーはスピードを上げた。


彩香は風に煽られながら荷台に足場を探り、コンテナのパイプに掴まった。


車速がさらに上がり、風と車体の揺れが髪の毛を乱した。


慎重にコンテナの凹凸につかまって助手席のドアへと移動する。


ドアノブに手を掛けると一先ず安堵の溜息が洩れた。


車内に乗り込む前に振り返ると、学校で見たのと同じ鎧兜を着て弓矢や槍を持った侍が数人、追うのを諦めて草むらの中に立ち尽くしているのが見えた。


首筋に冷たい電気が走った。


テレビでしか見たことの無い戦国時代の風景が、其処にあった。


今まで当たり前に思っていた法律も、常識も通じない世界が、其処に垣間見えた。


少しでも気を抜いて、彼らに捕まっていたならばどうなっていたことか。


彩香はつかまったロープに額を押し付けてため息をついた。


ドアを開け助手席に乗り込むと、運転していたのは屋敷で見た女の人だった。


「間に合ったな」


野球帽を目深に被っていたが、印象的な唇ですぐに分かった。


「ありがとう」


言いながら大きく息を吐き出して、シートに深々と体を預けた。


「ちょっと揺れるからな、しゃべると舌かむぞ」


トレーラーは車体をガタガタ揺らしながら、悪路を猛スピードで走り続けていく。


彩香も激しく揺られるのでシートから放り出されないようにベルトにしがみついた。


「そうだ、これお前のだろ」


ジンは胸ポケットから小さな何かを出して無造作に投げて寄越した。


揺れながら慌てて受け取ると、彩香の携帯電話だった。


「シートの間に落ちてたぞ」


画面を点けると、見たことの無い番号からの着信履歴が伝言と一緒に残っていた。


電話を耳に当てる。


「あ、あの・・おれ、中澤だけど。みんな心配してるぞ。何があったんだ?おれ・・・連絡待ってるから」


ぶっきらぼうな伝言だと思った。が胸の奥の方がじわりと熱くなった。


自分を心配してくれる人が居る、それがとても嬉しかった。


同時に屋敷であったことを思い出した。


青い闇の中に消えていったあの人影、今、ハッキリと分かった。


アイツが全ての元凶だ。


あの男は何処かで待っている。


そこへ行けば全ての謎が解ける。


そう強く思った。


皆を、日常のささやかな平穏を取り返さなくては。


窓の外に流れる山間の風景を見ながら、唇をかみしめる。


でもどうすれば・・。


トレーラーは、迷いなく何処かへ向かって走っているが、彩香は目的地を知らない。


「皆、死んだ」


運転しているジンが、前を見たままボソッと言った。


「え?皆って誰のこと?」


「分かってるだろ、お前が今考えた奴ら、全員だ」


「え?何言ってるの?そんな訳ない」


「・・・」


「そんな、お母さんは?菜月は?」


「・・・」


「止めてよ、変な冗談言うのは。博物館の時みたいにレイ兄ちゃんが助けてくれるよ、みんなまた・・」


「電話のやつに聞いてみなよ、今回は間に合わなかったんだ。寿命だと思って諦めナ」


「やめて!」


彩香は目の前が歪だ。


顔が痺れるように熱くなり、悲鳴のような大声になる。


「何、勝手なことばっかり言うの!大体あなたは何なのよ、レイ兄ちゃんは何処行ったの?」


「オレたちは役目を果たしてるだけだ、お前らの味方として」


「役目って何?」


叫ぶような彩香を、帽子のツバの下から冷たい視線がのぞき見た。


「お前が、一番良く知っているだろ」


「は?何言って・・」


ジンの声と視線に、只ならない空気を感じて息を呑んだ。


突然、けたたましいエンジン音が響き、一台のバイクが追い抜いていった。


乗っているのはきらびやかな装飾の付いた兜を被った侍だ。


目の前で後輪を滑らせ、トレーラーの進路を塞いで止まる。


ジンは舌打ちしてブレーキを踏みつけた。


排気管に溜まっていたガスを一気に吐き出し、巨大なタイヤが軋みながら急停止する。


兜の下の鋭い目がこちらを見据えている。


「・・どうするの?」


「・・・」


ジンは顔をしかめて固めた拳でハンドルを殴り付けた。


長いクラクションが山間に響き渡る。


侍は微動だにしない。


「なんか、さっきのと雰囲気が違う」


彩香はそう言うと、目深に被られた兜の口元に眼を凝らした。


すると侍はあごを上げて兜の紐を解き、それを脱ぎ捨てると出てきた顔はレイジだった。


助手席のドアを開けるが速いか、彩香は飛び降りてレイジに駆け寄った。


「レイ兄ちゃん、良かった!やっぱり無事だったんだね」


彩香はレイジの手を取ってゆする。


「お願い、私を家に連れてって。早くしないとお母さんが」


「・・・」


レイジは穏やかな目に彩香を映していたが返事をしない。


「あの時みたいにみんなを助けて!ジンが・・・早くしないと」


 -あの人が待っている。


「そうだな、早く奴を始末しなければ」


「え?」


意味が解らなかった。


確かに目の前にいるのはレイジなのだが、声や顔の表情、目付きや雰囲気が先程までとは違っている。


別人のようだ。


「始末って?」


レイジの表情は今までに見たことのない冷たいものだった。


「奴の存在を消すんだ、居場所は分かっている」


「何を、言ってるの?レイ兄ちゃんらしくない、私が言ってるのは・・」


喉が震えて、声が詰まる。


「奴もそれを待っている。もう時間がない」


「レイ兄ちゃんおかしいよ、あっちの人も変な事言うし、あの時みたいに、みんなを助けてよ、お願いだから変なこと言わないで、お母さんを助けて!レイ兄ちゃんならできるでしょ」


レイジの腕を掴んで必死に頼んだ。


しかしレイジは視線を逸らし遠くを見つめた。


「お前がやらなくちゃならないんだよ」


その言葉と視線には感情がない。


「な、にを・・?」


レイジを掴んでいた手から力が抜けていく。


「レイ兄ちゃん・・?」


「この世界は、お前が思っている程平和じゃない。やらなければ次はお前がやられる」


彩香は首を振った。


信じられない、信じたくない。


「嘘でしょ・・レイ兄ちゃん」


トレーラーの運転席では、ジンがそのやり取りをを無表情に見ている。


「さっき分かっただろ?お前の代わりに奴らが襲われたんだ」


 ―あなたしかいないの。あの人を止めて。


「嫌だ、そんなこと言うレイ兄ちゃんなんて、嫌だよ」


彩香は首を振りながら後退りした。


無意識の裡だった。


全身が震えるほど鼓動が激しくなる。


「あなた、誰?」


姿格好は同じでも中身がまるで別人のような、レイジがレイジに見えなくなってきた。


―分かってるでしょ。


無表情のままのレイジの眼は、薄っすらと青く光を携えているように見える。


「いいよ!一緒に行ってくれないなら一人で行く!」


彩香は反射的に体を反転させて走り出した。


逃げ出したと言う方が正確かも知れない。


信頼していたレイジの突然の変貌振りに、ショックと恐怖で胸がはちきれそうになり、頭の中は混乱しきっていた。


 ―そう、あなたが一人で行かないと意味が無い。


所々ひび割れたアスファルトの下り道を、加速に任せてひたすら走った。


脚の動きはどんどん早くなり、胸の奥がジリジリと焦がされるように熱くなった。


後ろから追いかけてくる気配は無い。


しかし、止まってはいけないと思った。


振り向いてもいけない。


今は、前を向いて走り続けなくてはいけない、言いようの無い恐怖に駆られて走り続けた。


焦燥は疲れを麻痺させ、体は限界を感じること無く走り続けた。


 ―行かなくてはいけないの。


頭の隅から聞こえる声から逃げるように足を速める。


「・・・」


どの位走り続けたのか、いつの間にか周りの景色が変わっていた。


でこぼこの坂道は平たんな舗装道路になり、鬱蒼と茂っていた両側の森は向こう側が見える林になっている。


徐々に森の香りが薄くなり、建物が緑の中に見えた。


彩香はようやく走るのをやめた。


道幅が広くなり、路面には白線も見えてきた。


「・・・町だ」


キョロキョロしながら歩いた。


シャッターが閉まっているが店舗が見えた。


交差点には信号機があり、案内看板もある。


ようやく文明社会に戻って来たような、電気がとても懐かしいような気がした。


しかし。


「国道144号?ここドコ?」


歩道の脇の杭に数字が書かれていた。


『東京まで268km』


トボトボ歩いていると道路わきに屋根の付いた小さなバス停があった。


手書きの時刻表は行き先を見てもさっぱりわからない。


朝靄も晴れきっていない早朝ではタクシーも走っていないし、この辺りに電車の駅があるかさえ分からない。


でも駅があっても、お金を持っていないので、電車に乗れない。


改めてポケットを探ると、ジジから渡された小さな鈴が入っていた。


その他は、何もない。


当然なのだが。


「東京まで歩いていけるかな?」


数字を見てもそれがどの位の距離なのか見当が付かないし、取り敢えず歩くしかなかった。


青白く染まる道路脇には古めかしい看板が増えてきた。


温泉ホテルや飲食店、ゴルフ場の案内が多かったが、その中一つにふと目が止まる。


それは少し小さめの看板だった。


「あなたが望むのもは全て叶う、叶わないのは、あなたに未だ、それを受け入れる準備ができていないだけ」


声に出して読んでいた。


何かの教えらしいが、誰の言葉なのか書かれていない。


彩香は、もし本当に願いが全て叶うのなら、今のこの状況を変えてほしいと思った。


菜月や康代の安否を気にするのではなく、受験を悩むだけでよかった数日前に戻してほい、そう願った。


あれ?


そういえば誰かが言ってた。


受験は好きでやってる、って。あの声はレイ兄ちゃん?


ぼんやり考えながら歩いていると、ライトをつけて走る小型バイクに追い越された。


バイクは少し離れてから、音を立てて止まると振り向いた。


「まさか、また?」


彩香は足を止め、身構えた。


ヘルメットのシールドが上がり、中からシワに囲まれた目が、彩香を覗いて言った。


「こんなトコで何やってんだい?」


中年らしいが普通の人の声だった。


「ここはドコですか?千葉に帰りたいんですけど」


彩香はほっとして駆け寄った。


「チバ?チバって、千葉県?」


素っ頓狂なおじさんの声に彩香は大きく頷いた。


ヘルメットの中の訝しい目は、上から下までなぞる様に彩香の全身を見た。


「こんな時間じゃ電車はまだないけど、この先の信号を右に曲がれば大前っていう駅がある。千葉までタクシーじゃ幾ら掛かるかわかんねーし、お譲ちゃん、そんなに金もってそうに見えないしな」


「駅があるんですか?」


肩の力が抜けた。


居や全身かも知れない。


座り込みたいぐらいホッとした。


電車があるのを知っただけなのにこんなにも安心できる自分に驚いた。


そんな彩香の顔を、ヘルメットの中の目は窺うようにジッと見ている。


「そうだ今何時ですか?」


「なんだ時計もないのかい?今は・・もうすぐ6時だ」


おじさんは手袋をめくって腕の時計を見る。


「始発はまだ無いぞ、あと一時間位待たなきゃな。この田舎じゃ一時間に一本だ」


「そうですか、ありがとうございます」


彩香はふと自分の身なりに気が付いて、ぎこちない挨拶になった。


黒いつなぎはあちこち汚れていてとても普通には見えないし、変に気を回されて、通報されるのは避けなければいけないと思った。


直ぐに歩き出そうと方向を変えると、背中からおじさんが呼び止める。


「ちょっと待ちな」


走って逃げようかとも思ったが、かけっこでバイクに勝てるわけがない。


おどおどしながら振り向くと、おじさんはヘルメットを外して、黒ずんだ顔でニヤニヤと笑っていた。


「おめぇさん、ワケアリだろ?相談に乗ってやるよ」


そう言いながら見せる前歯は、所々隙間が開いている。


彩香は多分、物凄く嫌な顔をしたのだと思う。


「結構です」


「なんだぁ生意気だな小娘のくせによぉ!」


普通の人間だが、常識の有る大人には見えない。


「・・・」


無言の彩香に、男はバイクを跨いだまま押して近付いてきた。


「そんな格好で一人旅なんてよ、どう見てもまともじゃないよな。通報されたくなきゃ、こっちに来いよ!」


歪む浅黒い顔に、彩香は吐き気を催した。


「何の用ですか?」


怖くはない。でも、鬱陶しいほど気持ち悪い。


「へへへ・・」


男の手が彩香の肩を掴もうと伸びる。


「そこまでにしな!」大きな声だった。


驚いて振り向くと、大柄の初老の女性が立っていた。


女性は体に対して小さくて踵の高い靴をカツカツと鳴らしながら近付いてきた。


「孝雄、アンタいい加減にせぇよ!嫁が欲しけりゃキッチリ働かんか!いい年こいていつまでもプラプラしよって、何しとんの?ばあちゃんが天国で泣いてんぞ!」


捲し立てるような言葉の連打だった。


男は肩を竦めて小さくなっていく。


「そんなに言わなくたって良いじゃんか、別に俺は」


「言い訳すんじゃねぇよ!グチグチとみっともねぇ、さっさと帰れ!ウスラデブ!」


「分かったよ、分かったよ、帰るきぃ!」


中年男は口と尖らせて、バイクのアクセルを捻った。


排気ガスを残してその姿が小さくなっていく。


彩香は眼を丸くして、その威勢の良いおばさんに恐る恐る視線を移した。


「悪かったね、うちの甥っ子だよ。悪い子じゃないんだけど、一寸遅れててね」


そう言いながら、頭を突いて苦笑いした。


「いえ、ありがとうございました」


「でもアンタ、こんな時間に、こんなトコで・・」


視線を外し俯く彩香に、おばさんは言葉を切った。


「寒いだろ?アタシん家はすぐそこだから、一寸寄ってきなね。あたしゃ一人でね、他は猫しかいないから遠慮はいらんよ」


そう言って笑うおばさんの丸い顔を見ると、さっきとはまた違った安心感に自然と顔が緩んでいた。


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