第一話 彩香
博物館
14:30
大きなガラスの前、握るとちょうど前かがみになる手すりを握りしめ、彩香は中の展示物を食い入るように見ていた。
演出効果のある薄暗い通路。
ブースを覗き込む横顔は間接照明の淡い白色に染まり、背中までの長い髪は僅かな光に透き通る。
博物館の魅力の前に夕べの心配事は吹き飛んでいた。
実際、どうした事かエミリたちのグループは彩香に近づいてこなかった。
菜月にはその静けさが少し気がかりではあったが。
一通り見終わって集合までの僅かな自由時間。
普段以上に仲良く感じる会話を楽しむ男女のグループが館内の至る所に出現していた。
勿論、ひたすら展示物に魅かれ食い入るように眺める生徒(彩香もその一人)もいれば、ロビーのベンチであくびをしながら退屈そうに時間をつぶす生徒もいる。
300人ほどの生徒たちは皆それぞれの時間を過ごしていた。
彩香がいるのは中世の人々の暮らしのブース。
ケースの中に陳列された人形を余すところ無く上下左右のいろいろな角度から眺めていた。
「へぇ、こんな暮らしだったんだ。すごいなぁ」
ガラスの手前にある解説の書かれたプレートを熟読しながら、戦国時代の武士の装飾、実際に使われた武器、農民の生活など一生懸命に眺めた。
詳細に作りこまれたジオラマは細部まで見ないと勿体無いような、損したような気がする。
「あんたいつまで此処にへばりついてるの?さっき恐竜のところに仲澤たちが居たよ」
身を乗り出してケースと解説を熱心に見比べている彩香の後ろで、菜月が露骨に苛立って言った。
「私、恐竜はいいや。菜月、見たければ行ってくれば」
「何言ってんの!あんたが居なきゃ意味ないじゃない」
「・・・」
「聞いてんのかよ!」
こいつはほんとに。
菜月は、彩香の背中を見ながら心の中で呆れていた。
決して自分が劣っているとは思わないが彩香の容姿は羨ましかった。
エミリが対抗意識を隠さないのも分かる気がする。
私がこの容姿を持っていれば・・。
などと、ふと考えてしまうこともしばしば在った。
が、当の本人は全く無関心な様子。
それがなによりも苛立ちの原因になっている事を、口に出せない所もイラつく。
「すごいよ菜月!この刀って本物かな?」
「そんなわけないでしょ!ったく」
戦に出る支度をした武士の人形の前で、溢れんばかりの好奇心はその大きな瞳をキラキラと輝かせた。
菜月は自然と大きく開いていく口と対照的に眼が小さくなるのを感じた。
「ねえ菜月、人間ってすごいよね。300年前はこんな暮らしだったんだよ。見てよ、ほら明かりがこんなだよ。今じゃ出来ないよね、こんな暮らし」
次は戦国時代の平民の生活を再現したブースの前で大興奮の彩香。
「この頃の人たちってどんなことを考えていたんだろね。受験なんてないしいいよね。ねえ菜月」
興奮しきって振り向くと、其処に菜月の姿は無かった。
「あれ?菜月?」
学校の視聴覚室くらいある大きなそのブースは回廊のように進む順路が作られていて、出入り口を残した3面の壁全てに展示ケースの大きなガラスがはめ込まれていた。
ブースの中央は、当時のこの町の5000分の1のジオラマが腰までの高さで展示されているだけなので、向こうまでぐるっと見渡せる。
いつの間にかそこは彩香1人だけになっていた。
「トイレかな?まぁいいや。また戻ってくるだろな」
ガラスに向き直り、手すりに沿って足を進め、また展示物に夢中になった。
どの位の見入っていたのか、ふと時間が気になった。
「菜月、遅いな、今何時だろ?」
時計がないので菜月の携帯電話の時計だけが頼りだったが、菜月はまだ戻ってくる気配が無い。
薄暗いその部屋に突然不安になった。
「まさか置いてかれる、なんて事は無いと思うけど」
小走りに出入り口へ向かう。
中世エリアを出ると、そこは館内で一番広い吹き抜けの展示エリアを2階から見下ろせる通路部分だった。
天井は明り採りのガラス窓がピラミッド状に作られ、そこに届くほどの高い樹の模型の枝葉には、機械仕掛けの動物の模型が仕込まれていて、小鳥や野鳥の声が繰り返し流されている。
「生命の源」と名付けられたその樹の模型の下には本物の水が流れ、柔らかな音を立てていた。
「あぁ、もお!ここももっと見たかったのに!」
多分このエリアは博物館の中で一番の見所。
最後に見ようと楽しみに取っておいた場所だ。
しかし今は早急に菜月を探し出さなくては。
「集合は何時だっけ?って言うか今何時?」
見渡したそのホールに人影は無く、水の流れる音と録音の鳥の声が静かに響いている。
まさか
嫌な予感がして取り敢えず一番近くのトイレに走った。
鍵の手に折れ曲がった入り口を抜け、手洗カウンターの前に立ち肩で息をしながら少し気を使った小さな声で呼びかける。
「菜月、いる?」
返事も人の気配も無い。
急いで元の通路に戻ってみるが、やはりそこにも菜月はいない。
日常の風景の無いこの場所が、どこか遠くにある本当の異空間のように感じられた。
「早く誰かを見つけなくちゃ・・・恐竜のところか!?」
恐竜ブースにつながる幅広の階段を駆け降りていくと、下のフロアに人影がチラッと見えた。
「あっ!誰かいる、よかったぁ」
ホッとしたのもつかの間、階段を降り切るとまた無人の展示空間が広がっている。
「あれ?さっき確かに。向こうかな」
大きな恐竜の模型の前を横切り、隣の化石展示室を覗き込む。が、人気の無い空間が広がるだけだった。
「何で誰もいないのよ」
急速に心細くなった。
周りに展示されている骨格標本や剥製の無機質さが、興味とは逆に怖さを引き立てる。
「どうしよう、出口はどっちだろ?」
と、その時、後ろの階段から水の音に混ざって何かが聞こえた。
振り返り耳を澄ましてみる。
チーン・・チリーン。
確かに何か、聞こえる。
「何だろ?」
少し間をあけて、今度は割と近くにからその音が聞こえた。
彩香は誘われるように歩き恐竜ブースを通り抜け、野生動物の剥製が並んでいるエリアに入った。
魚類、爬虫類、鳥類、哺乳類の順に並んでいるのを横目に見ながら音の聞こえる奥へと進む。
ほかのエリアに比べると、此処は細い通路の両脇に展示物が並んでいるので、やけに狭く感じる。
ガラスの向こうは、類猿人から人へと進化していく姿がリアルな模型で並んでいた。
教科書などでよく見る並びだ。
木の根のような進化の略図が目の前の壁に描かれていて、そこで通路は終点になっていた。
通路は左右に分かれて、右はトイレ、左はエントランスと表示された小さな道案内がちょこんと立っていた。
「こっちに行けばいいのかナ?」
ぎこちない足取りで進むと、少し広いホールに出た。
幻想的なBGMに載せ女性のアナウンスが繰り返し響き渡るそのホールの正面の壁には「左、正面玄関・ロビー。右、宇宙の成り立ち」と案内されている。
チリ―ン・・チリ―ン。
かなりはっきりと聞こえるようになったその音は、玄関方向ではなく順路の奥へと移動していく。
「鈴の音?」
どこかで聞いたことがある懐かしい音色だ。
なぜだろう、さっきまでの不安がどこかへ消えた。
みんなのところに戻らなきゃ。
そう思う気持ちとは逆に、足はその音を追って歩き始めた。
緩やかな左カーブを描く宇宙の通路を歩いていくと、昔の洋画に出てくるようなハンブルグ帽を被った人が通路の奥へと消えて行くのが見えた。
音は多分その人から聞こえてきているようだ。
鈴の音色を確認しながら、ゆっくりと一歩一歩踏みしめるように歩く。
足音は吸音性の良い床材に吸い込まれ、薄暗い通路の奥へとさらに神経が集中していく。
「一倉!」
突然背後から呼び止める声に、はじかれたように驚いた。
「仲澤・・」
彩香は眼を何度もぱちくりさせた。
ゆっくり息を吐きだすと、今まであった集中力が嘘のように霧散していった。
「捜してたんだぜ。迷子になりやがって」
ニヤニヤしながら公彦が言った。
「違うよ!菜月と待ち合わせしてたんだけどいないのよ」
迷子と聞いて顔が熱くなった。
「奥原ならとっくにバスに乗ってたぞ」
「うそでしょ?!」
彩香は目が飛び出んばかりに驚いた。・・・ショックだった。
「まぁお前はいいんだけどさ、小笠原たちを見なかったか?」
「エミリちゃん?見てないよ。どうしたの?」
辺りを見回す公彦の眉間が寄った。
「バスを降りてから誰も見てないんだよ。先生とおれで手分けして探してんだ」
「そういえばエミリちゃんたち、いなかったな」
「一緒に来て手伝ってくれ」公彦はそう言うと彩香の返事も待たずに歩き出した。
なんで?と思ったが公彦の背中はどんどん離れていく。
ふと、またあの鈴の音が聞こえた。
トンネルのような宇宙の説明コーナーの先、「生命の源」の吹き抜けエリアへと続く通路を、まるで誘うように音は動いていく。
「何だろ、あの風鈴の音?」
「え?そんな音、おれには聞こえないぞ」
公彦が答えたその時、ゴォッという地響きのような音が館内を振るわせた。
「何これ?」彩香は思わず公彦の服をつかんだ。
「雷だ。天気予報が当たったな」
「こんな所で聞くと、結構怖い」
「早い所見つけて、おれも帰りたいよ」
2人は自然と足早にトンネルを抜けて、吹き抜けの広いエリアに出た。
すると、フラッシュのような稲光が天井のガラス張りのピラミッドを突き抜けて周りを白く点滅させた。
「きゃぁ!!」
雷鳴はないので叫び声だけがホールに響く。
見上げると模型の枝葉が真っ黒なシルエットとなり浮かび上がっている。
「先に帰ってもいい?」
か細い声で彩香が言い終わる前に、ドーン!ガガガゴロゴロ!と天井のガラスをビリビリと震わせながら大音量の雷鳴が響き渡った。
瞬時に2人の首が縮まる。
「す、すごいな」
公彦は天井を見上げて呟いた。
彩香はすでに声も出ない。
公彦の袖を握り締めた右手に力が入る。
「だれかぁ!」
追い討ちを掛ける様に、エリア出口にある順路の奥から甲高い悲鳴が聞こえた。
若い女の声だ。
公彦が走り出した。
彩香は腰の力が抜けていたが、掴んでいた公彦の袖から手が離れない。
ヨタヨタしながらようやく走って続いた。
通路の入り口まで来たとき、2人は息を呑んだ。
壁にすがり付きながらようやく足を動かして、エミリの取り巻きの一人、田村静香がこっちへ向かって来る。
「助け・・て・・エ・・ミリ・・が」
息も絶え絶え泣きじゃくり、聞き取るのがやっとの声で言った。
しかしそれは二人に対してではなく、朦朧とした意識の中で繰り返されているようだ。
視線も定まらず宙を彷徨っている。
「どうした!?大丈夫か!」
駆け寄った公彦に縋り付き、田村静香は震える手で順路の奥を指差した。
「エミリが、エミリ・・・」
うわ言のようなその声は掠れてしまってそれ以上は聞き取れない。
次の展示エリアまでのトンネルのような薄暗い通路の奥、壁の下のほうに何かが動いたのが見えた。
「エミリちゃん!」
彩香は嫌な予感に悲鳴のような叫び声で名前を呼んで駆け寄った。
直感は当たった。
エミリが通路の隅に仰向けに横たわっている。
その少し奥にもう一人、誰かが床にうつぶせに倒れているのが見えた。
取巻きの戸塚美和だ。
彩香は取り敢えずエミリを抱き起そうとしゃがみ込んだ。
「エミちゃん!」
声をかけたその時だった、エミリは上半身だけ弾かれたように起き上がった。
「うわっ!」
腕も使わず、ばねのように跳ね上がるその動きは普通では見たこともない。
エミリは体を震わせながらゆっくり立ち上がった。
その顔を見て、彩香は言いかけていた言葉が止まった。
いつもきれいに整えられた髪の毛を振り乱し、血の気を失い真っ白になったその顔の中で、眼は真っ赤に充血し虚ろで視線が定まっていない。
普段のエミリからは想像もつかない恐ろしい形相だった。
「大丈夫?しっかりして」
ようやくの思い出で吐き出した彩香の声は、エミリの耳には届いていないようだ。
辛うじて立っているが膝は小刻みに震え、上半身は徐々に大きく左右に揺れてだした。
グラッと大きく体制を崩し、前のめりに倒れこむエミリの体を咄嗟に抱きかかえた。
が、覆いかぶさるようにかかってくるその体重は1人では支えきれない。
「エミちゃん、結構重い・・」
ゆっくりと膝が曲がりエミリを抱えたまま床に座り込む。
耳元でエミリは呼吸が不規則に荒くなってきた。
「エミちゃん!しっかりして!聞こえてる?!」
精一杯の力で脇に手を入れてエミリの体を引き離し床に寝かせる。
ぐったりしていたエミリが痙攣したように突然仰け反った。
制服のブラウスの襟首がはだけて、露になった真っ白な首筋に亀裂が入った。
に見えたが、肌の下の血管が胸元から顎にかけて瞬間的に黒く変色したのだった。
胸元の透き通るような白い肌に這う他の血管も、見る間に黒く変色していき、ついには体中の血管が黒く浮き出した。
「エミリちゃん!」
彩香は半ベソを描きながら大声で呼びかけてエミリを揺らした。
エミリの魂が何処かへ行ってしまうような気がして全身に鳥肌が立った。
「だめ!行っちゃだめ!エミちゃん」
何度も呼びかける彩香の声はだんだん悲鳴になっていく。
エミリのまぶたが痙攣しはじめた。
「今、誰か呼んで来る」
後ろにいた公彦は、そう叫ぶと走り出した。
大きな雷鳴が響きピラミッド型の天井がまた眩く光った。
模型の樹の頂点から根元まで、激しい光が瞬時に駆け抜け「生命の源」に流れる水が青白く光ると、花火のような音を立てて弾けた。
大きな水飛沫が上がる。
彩香が音に驚いて振り返ると誰かが近づいてくるのが見える。
逆光で影しか見えないが、公彦ではないのはすぐに分かった。
「下がっていろ。大丈夫だ」
男の声だった。
男は彩香を脇へ下がらせて、悠然とその目の前を横切ってエミリの脇で片膝をついた。
そして彼女の首元にそっと右手を当てる。
彩香にはその立ち振る舞う姿が荘厳な救世主の様に見えた。
呆然と、瞬きもせずその動作を見つめた。
その後の事は良く覚えていないが、男はエミリの胸の真ん中に当てた左手をゆっくりとその体の中に沈めた。ように思う。
続いて戸塚美和にも同じように手を当てていた。
2人はそのまま床に寝かされていたがさっきまでの痙攣や、血管が黒く浮き出るような異常な感じはじ無くなっていた。
ようやく腰を上げて四つん這いでエミリを覗き込んだ彩香の頭上から、男の声がした。
「大丈夫だって。心配するな」
彩香はゆっくりと視線を上げて、黒い大きな瞳の真ん中で男の姿を捕らえた。
「あなたは、この前の・・」
先日通りでぶつかった男の人だった。
男は微笑んで言った。
「俺を忘れたか?」
「え?なん・・」
彩香が言葉に詰まっていると、男はそのまま背を向けて通路の奥へと行ってしまった。
入れ替わりに公彦が、先生と博物館の職員を連れて走ってきた。
「救急車は5分で来ます」
「とりあえず何処かで応急処置を」
大慌てで先生や博物館の職員と思われる数人が、横たわるエミリたちに駆け寄った。
その脇に座り込む彩香に公彦が何か話しかけていたが、呆然とした彩香はただ男の去っていった方を見つめるだけだった。
レイ兄ちゃん?
刑事たち
16:30
朝からの雨は昼を過ぎても止む様子が無かった。
せわしなく動くワイパーの向こうには灰色の町並みが続いている。
「君が後ろでよかったのに」
無言が続いていた車内で、小田桐はタバコの煙を鼻から出しながら言った。
「前の方が辺りが良く見えますので。それに・・」
助手席の園茨は含みのある言い方で言葉を切った。
「夕べは悪かったね。気づかなかったんだよ、ホント」
「・・・」
「夕べ?何があったんです?」
運転している新米刑事の浅野が口を挟んだ。
園茨は無表情に前を向いたまま答えようとしない。
「内側から開けられないようにロックが掛かってたんだよ」
「ははぁ、なるほど」
浅野は大きく頷いた。
園茨は黙ったまま外を見ている。
「今回の件の本部長はかなり若いね」
返事のない園茨に、小田桐は話題を変えた。
「・・・」
「そうですね。僕の歳と余り変わらないように見えましたね」
浅野の、明るく余りにも軽い声が言い終わらないうちに、車内に携帯電話の呼び出し音が響いた。
「園茨です。はい、今向かってます」
園茨は抑揚の無い声で応対している。
「はい、・・・そうです。・・・はい」
相槌しかしないので、会話の内容は小田桐たちにはまるで分からない。
「大丈夫だ。分かってる」
会話の最後に突然、声を荒げて切った。
一層不機嫌になったようだ。
浅野は運転しながら、気の利いた一言を言いたかったが、何も言葉が出てこなくて視線が宙を彷徨った。
「あのさ、さっきの会議で管理官席に座ってたのは君の知り合いかな?」
小田桐の低い声がたずねた。
「・・・」
園茨は答えの代わりに溜め息をついた。
「眼鏡の彼、おしゃれだね。あの形の眼鏡。最近の本店の人は変わったね」
後ろの席で小田桐は笑いを堪えている様だ。
「浅野君、そこを左だ」
「あっ、はい」
園茨の無感情の指示に、浅野は慌ててハンドルを切った。
窓の外を見ている園茨に答えを求めようとはせず、小田桐の口からはタバコの煙だけが吐き出された。
黒いセダンは、黄色くなった葉を僅かに残した街路樹の並ぶ通りへと入って行く。
水滴が視界を歪める窓ガラスの向こうで街路樹は右へ流れて行き、その枝葉のさらに向こうに、黒い塔のようなビルがその巨大さを見せ付けながら、ゆっくり向きを変えていくように見えた。
小田桐は目を細めてそれを見上げた。
辺りに人影は無く、車も数台とすれ違っただけだった。
背の高い延々と続く防護壁に沿ってセダンはしばらく走った。
車内の重い空気に浅野の忍耐が限界になった時、脇を流れていたクリーム色が途切れ、黄色いテープが張られた工事用車両の出入り口が現れた。
セダンは守衛室の前に一旦停車して、立哨中の警官に挨拶してから現場敷地に入った。
周りの風景は日常とかけ離れていた。
広い敷地の中、建造物は見上げるほどの黒っぽいビルだけで周りは何もない広い敷地が広がっている。
仮設の事務所が数棟と、藁を巻いた葉をつけない木が所々に植えられているが、小田桐にはそれがとても殺伐とした風景に見えた。
「なんだか公園を作っているみたいですね」
浅野が辺りを見まわして言った。
その視線の先には芝生が敷き詰められた小さな丘のような場所があった。
少女の遺体の発見現場周辺だった。
「緑化ってやつですかね。イメージ良いですよね。ねぇ園茨さん」
「・・・」
無表情の園茨に、浅野の唇は異常な力が加わっておかしな形になった。
程なくして、セダンはビルから少し離れた場所に建てられた現場事務所の脇にある屋根付きの仮設駐車場へと進んだ。
車が止まると、浅野は小走りに事務所へ向かった。
「へぇ屋根があるんだ。気が利くね」
小田桐が一人つぶやく後ろで園茨が車から降りてきた。
小田桐は屋根の端まで行きビルを見上げてみた。
小雨の降り続く灰色の空に、黒いビルの存在感が増すようだ。しかも最上階付近は霞んでいて良く見えない。
「随分変わった形なんだな」
「建築デザインは外国人でかなり有名な方のようです」
「あらら、浅野君速いね」
小田桐は独り言のつもりだったが、浅野は普段に無い速さで現場監督を連れて戻ってきていた。
「アーバンビルドの斉藤です」
「監督さんね。私は小田桐であっちは園茨。じゃあ早速頼むよ」
「こちらへどうぞ」
現場監督は挨拶もそこそこに刑事達を建物の中へと案内した。
学校の渡り廊下のような壁の無い仮設通路の脇には所々に資材が残っていて、その殆どはブルーシートで厳重に覆われていた。
「近所から騒音の苦情があるといけないので、夜8時以降の工事や業者の出入りはありません」
40歳代半ばの色黒の監督は3人の刑事の先に立ちビルへと歩いた。
「なんでこんなにゴツゴツしてるの?このビルは」
「デザインの事は良く分かりませんけど、話題性を出したかったんじゃないですかね。17階までは床面積がだんだん小さくなりその上は43階まで同じです」
「位牌みたいだね。黒いし」
「今は見えないけど、44階からは違うんです。羊羹を斜めに切ったように先が尖ってます。展望スペースとかいろいろあるんですよ」
監督は自慢そうに一笑して歩き続ける。
大きなガラスの回転ドアを通り抜けてエントランスに入ると、外観のイメージとは真逆のデザインだった。
天井には大きな明かり取りの天窓があり、構造材が整然と並んでいる。
動物の肋骨をイメージしたと監督が説明した。
どのくらいの高さがあるのだろうか、エスカレーターが何本も交差するように各フロアにつながっているのを見て小田桐は失笑した。
「なんかすごいね。未来の世界だな」
商店街が並ぶ予定だというホールを抜け、SF映画に出てくる宇宙船の内部のような廊下を幾つか折れ曲がり、工事が終わっているらしき部屋へ入った。
ガランとした室内には新築特有の糊のような香りが漂い、中央に雑然と置かれた長机の周りにパイプ椅子が数脚並んでいる。
「敷地の出入り口は何箇所?」小田桐は椅子には腰掛けず窓際まで進むと立ったまま訊いた。
「3箇所ですが8時には全部閉まります。その後は守衛が居る西ゲート以外はカメラだけの警備になりますが、誰かが出入りした記録は無いですね。壁のセンサーも反応してないし、もちろん守衛からの報告もありません」
「・・・」監督の言葉に園茨は眉を寄せた。
「監督さん、あなた夕べは何処にいたの?」
「夕べは本社の定例会議に出てましたんで11時ごろまで会社です」
「ふーん、じゃあ連絡は会社で聞いたんだ」
「そうです。慌てて部長と一緒に此処に来ました」
小田桐は小さく何度か頷いて窓の外に眼をやった。
「出入り口には全てカメラがあるのですか?」園茨が口を開いた。
「ハイ!業者の出入りは全て守衛室でモニター管理してます。自分も含めて。このシステムは自分らも驚いてます。すごいんですよ」
「管理システムは御社のものじゃないのですか。壁のセンサーって?」
「あぁ、壁に何かがぶつかるとアラームが鳴るんです。まぁそれなりのモノじゃないと反応しませんけど。車がぶつかったり、人が乗り越えようとしたりすると感知するらしいです。施主の手配で入れてるんでこちらでは仕組みとかは分かりませんけど」
「そうですか・・」
園茨はそう言ったが顔は納得していない。
「・・・」
小田桐は窓辺に立ったまま外を眺めていた。
「後で録画のコピーをください」
園茨は手帳に何かを書き込みながら監督に言った。
監督はすぐに電話で守衛室に連絡を取った。が、何か問題が有ったのか電話したまま刑事たちをちらりと見て部屋の外に出て行ってしまった。
「・・・」
「課長、どうしました?」
浅野は外をずっと眺めている小田桐に訊いた。
「うん、アレなんだろ?ほら、あそこ腰の高さぐらいの壁があるだろ」
浅野は窓の外に視線を合わせて見た。
「なんだか、こう、曲がってますかね」
浅野は手振りを付けた。
「アレはスロープの入り口です。地下駐車場があるのでしょう」
園茨は相変わらず突き放すような話し方だ。
「ふーん。地下駐車場ね」
小田桐は暫く腕組みしてから呟いた「行こうか」
園茨は小田桐を一瞥する。
「すみません。ちょっと上で問題が有って・・」
丁度其処へ頭を掻きながら入ってきた監督に、小田桐は地下を案内するよう笑顔で脅した。
手すりの付いていない踏み板だけの階段を下り、重みのある厚鋼のドアを開けると以外にも明るい空間だった。
トラックやワゴンタイプの工事業者の車が数台並んでいる。
「広いな」浅野が呟いたのを監督は聞き逃さなかった。
「地下3階までが駐車場になります。このフロアだけで600台止められますんで広さは十分ですね。地上は緑を重視してますから余り車を置く場所を取らないんです」
「上は何にするの?」
小田桐が聞くと監督はさらに得意になって説明した。
「地上はこれから造園工事をします。芝や植木をもっと増やして公園のようにする予定で」
「ここの出入り口は何箇所?」
「エーと、駐車場の四隅と東西2箇所には地上への階段がありますが、どれも出口は敷地内にあります・・」
其処まで言って監督は急に申し訳なさそうになった。
「それで、ちょっと申し訳ないんですが最上階の内装がトラぶってるんで・・」
監督は背中を丸めて小さな声で言った。
「あぁ、そうなの。じゃ勝手に見るよ」
小田桐は眉毛を掻きながら気の無い返事をした。
「一応足元には気をつけてください。それじゃ、すんません」
小走りに階段へ向かっていくのを園茨は黙って見送った。
「そうだ。此処の図面は無いかな」
呼び止める小田桐の声に現場監督は一瞬硬くなったように見えた。
「今此処には無いんですけど、すぐ戻りますんで、あっ、守衛には話しときましたから、帰りに画像のコピーを持ってって下さい」
少し上擦った声で言って逃げるように背を向けると、今度は少し早めに走っていってしまった。
3人の刑事はその姿を無言で見送った。
「アレは無いよね」現場監督が階段へと消えて行くと小田桐はそう言って踵を返し歩き出した。
「・・・」
「アレってどれです?」
しばらく奥へと歩いたところで小田桐は足を止め辺りを見回した。
丁度真ん中辺りにいるらしい。
ビルの地下フロアを囲む形で配置された地下駐車場はアルファベットでエリア分けされていた。
「特に変わったところはなさそうですね」
浅野は真剣な顔で言い切ったが、小田桐はその顔をジッと見つめた。
「何か有る筈だよ」
「え?何がです?」
「良く見て」小田桐はさらに奥へと足を進めた。
所々資材や工具が置かれている地下3階へ入ると、小田桐は空気が少し変わったことに気が付いた。
匂いがある訳ではないが、何かがおかしい。
口にはしないが園茨も感じ取ったらしく、チラリと眼が合う。浅野は、・・分からないようだ。
鑑識が数人、挨拶をしながらすれ違ったが、目新しい情報は特にないようだった。
三人はそれでも駐車場を歩き回った。
北西に位置する出入り口への階段の横に、壁との間に人一人がようやく通れる幅を残して、工事用資材が置かれていた。
「なんか、これおかしくない?」
小田桐はそう言うと一人で奥に入って行く。
「課長、背広が汚れますよ!」
浅野の声には返事も無い。
園茨と浅野は仕方ないといった顔でそれに続いた。
「ほらね、おかしいでしょこれ」
小田桐の前の僅かな隙間の壁に、資材でわざと隠したような扉があった。
「何で此処だけ鎖で閉めてるのかね」
小田桐は錠前の付いた鎖で閉じられている扉を不思議そうに見つめた。
「鑑識も見てないよな、床に足跡が無いもの」
園茨と浅野が言われて床を見ると自分達の足跡は埃の中にくっきりと付いている。
「浅野君、監督から此処の鍵借りてきて。それと鑑識に静電気持って来いって言って」
「分かりました」
返事だけは元気に階段を上がっていく。
小田桐が鎖を見つめて、その意味をいろいろ考えている横で、園茨が何かを拾い上げるのが見えた。
何を思ったのか足元に転がっていた鉄パイプを手に取り鎖に絡ませている。
「おいおい、気持ちは分かるがそれは器物損壊だよ、ここはちょっと・・」
「この鎖は、我々の捜査を邪魔するので公務執行妨害ですよ」
言い終わるが早いか甲高い音を場内に響かせて、テコの原理で鎖をねじ切った。
ジャララ、と重たい音を立てて鎖が床に落ちると、立て付けが悪いのか扉は勝手に、少し開いた。
小田桐はその時初めて、園茨が笑顔になるのを見た。
園茨は鎖についていた立ち入り禁止の看板を足で滑らせ除けると、扉を開いた。
「何だこれは・・」
小田桐がつぶやいた。
中には何も無い小さな空間がありその向こうの壁にはさらに扉があった。
引き戸タイプの鉄の扉で新築とは思えない程錆び付いている。
音も無く小田桐の髪の毛が揺れる、奥の扉の少しだけ開いた隙間から、風が吹いているのだ。
「ちょっと待て」止めるのも聞かず園茨は奥の扉に手を掛けた。
重く砂をこすり付けるような音を響かせて扉をゆっくりと開くと、奥に現れた真っ暗な空間が光を飲み込んだ。
薄暗い光に闇が四角くくり抜かれるが、その床には何も無いようだ。
2人はその暗闇に躊躇していた。が、意を決した園茨は一歩踏み込んで右手で壁を探った。
指先はすぐにスイッチらしきものに触れた。
少しためらってからそれを弾くと、軽い音を立てて天井の照明に電気が走り部屋全体を照らし出した。
露になった其処を見て小田桐は息を呑んだ。
恐らく園茨も同じであろう。
通路ほどの隙間を残したその両脇には、黒光りする鎧兜がずらりと並んでいた。
そのどれもが大小2本の刀を携えている。木箱の上に整然と並んで、見るものを威圧するような迫力があった。
小田桐と園茨はそれらを見上げながら、ゆっくりと奥へと進んだ。
実に見事な出来栄えの鎧たちはいつ動き出しても不思議では無い気がした。
小田桐はそのひとつに近づき、生唾を飲んで柄の部分に手をかけた。
スラッと、軽く鉄が擦れる音がして白刃が輝いた。
「本物か・・」
「恐らく」
園茨も別の鎧兜の脇差を手に取っていた。
「厳重な監視システムと良い、真剣といい、何か違うね」
小田桐は素早く眼だけを動かして辺りを観察すると息を殺した。
園茨はそれを察したのか、ずんずん歩いて通路の奥まで行くと、突然しゃがみ込んだ。
床に落ちていた木片を拾い上げる。
「・・?」
随分と汚れていて、文字が書いてあると分かるまでに少し時間が掛かった。
アーベント・・
「梱包材の破片かな?」
小田桐が覗き込んでいた。
「・・・」
園茨は拾った木片をジッと見つめた。
小田桐は反転して整然と並んだ鎧兜をまた見て回った。
ふとそのひとつの前で立ち止まり、兜の紐が緩んでいるのに気がつくと、ゆっくりと手を伸ばした。
指先がその紐に触れる丁度その時、胸ポケットの携帯が鳴り響いた。
余りの音の大きさに首が縮む。
「脅かすなよ、誰さんだ?はい、小田桐・・もしもし!もしもし」
眉間に皺が寄る。
「もしもし!電波が悪いかな。もしもし!」
独り言のようにしゃべりながら部屋を出て行った。
園茨はため息をついて木片に向き直ると、それを見つめたまま暫く立ち尽くした。
そして唇を締め上げるといきなり木片を投げつけた。
部屋の中にカラン、カン、と軽い音が響く。
「物に当たっちゃいけないな」
後ろからの声にハッとして振り向くとスーツ姿の男が2人、扉の前に立っていた。
「速いですね、柳さん。芹澤お前も来たのか」
園茨は呟くように言った。
本部会議で管理官席に居た男たちだ。
「連中は邪魔になってないか?」
眼鏡を掛けた芹沢が近づく。
「大丈夫だ。まだいろいろと動いてもらうつもりだ」
「こんな件はさっさと片付けて早く上がって来い。その後のプランも詰まってるんだ」
芹沢はそう言いながら園茨の真横に立ち交互の向きに並んだ。
「芹沢、同期とはいえ言葉は選んで使えよ。お前に言われなくても十分理解している、そのために残ったんだ」
園茨はそう言うと芹沢を睨みつけた。
「我々への敵対心はみっともないよ」
柳が口を挟む。
「そんなものは無い」
「余り嫌うなよ、我々も時間が無いんだ。君の迅速な理解を求めるよ」
「どういう意味だ?」語尾に力が入る。
「所轄と馴れ合うなってことだ、メリットは何も無い」
端的にそれだけ言い残すと芹沢は部屋を出て行った。
「使えるものは何でも使え。君にはそれが難しくないはずだ」
柳も芹澤に続いて出て行く。
駐車場へと消えていく姿を園茨は暫く睨み続け、握り締めた拳の行く先も見つけられないまま大きくため息をついた。
しばらく時間が止まった様だった。
何の音も聞こえない、鎧兜だけが並ぶ異様な部屋の中に立ち尽くしている自分に気付き自嘲した。
「俺は何を・・・」
「あれ?浅野君は何処?」気配も無く小田桐が戻ってきていた。
「まだ戻っていませんが」
ため息をつきながら答える。
「おかしいね。何処へ行ったのかな?」
園茨は訝しい顔をした。
小田桐は本部の二人のことを気にしている様子がない。
すぐそこですれ違ったはずなのだが。
「・・・」
確認しようとして口を開いたが、やめた。
「地上まで上がったんじゃないですかね」
「しょうがないね、あの坊やは」
小田桐は大げさに方眉を上げてつぶやく。
無表情な園茨を笑わせようとしたのかは不明だが、実際、園茨はニコリともしなかった。
間の悪い空気が漂っていたのを携帯の呼び出し音がかき消した。
「課長、上に上がれますか?」
電話越しの浅野の声は緊迫して叫ぶような大声だったので、小田桐は思わず電話を遠ざけた。
「何だい、薮から棒に」
「今、最上階に上がって来たんですが誰も居ません。監督も職人も誰一人」
「あぁん?誰かいるだろ?うちの人とか、よく見てみなさいよ」
「居ないんです!機材は動いてるんですが誰もいないんです!異様な感じがします!すぐに来て下さい」
スピーカーから無遠慮に聞こえるその声は隣の園茨にもはっきり聞こえていた。
二人は顔を合わせると1階まで階段を駆け上った。
エントランスロビーの奥に工事用の仮設エレベーターの扉が見える。
自分で閉めるその扉に多少の不安を感じながらも、園茨は手元に付いた取り急ぎの操作パネルで最上階のボタンを押した。
フレーム状の籠のようなエレベーターは壁はなく、シャフトの構造がすぐ目の前に見える。
エレベーターは意外に早い速度で上昇し、フロア階数を表示する数字がすごい速さでカウントされていく。
47階を過ぎた辺りからエレベーターシャフトの壁もなくなり建物の構造体の間から工事中の各フロアが剥き出しに見えるようになった。
「あまり乗り心地の良い物ではないね」小田桐がボソッと呟いた。
52階を過ぎると外壁にガラスが入っていないのか風の音が低く響いて聞こえるようになった。
「長いね」小田桐は溜め息混じりに言った。
「高い所は苦手ですか?」
「好きじゃあないよ。煙じゃないしね」
苦笑いする小田桐の顔には緊張感が滲んでいた。
程なくしてモーター音がゆっくりになり、籠は小さく一振りして止まった。
最上階だ。
風は唸るような音を立てながら、2人の刑事の頬に痛烈に突き刺さってくる。
金網の扉を手で抉じ開けて、ゆっくりと一歩踏み出す。
所々に小さな明りが灯っていたがとてもフロア全体を照らす光量ではなく、薄暗い中資材を包むブルーシートが風にあおられてバタバタと音を立てている。
骨材の隙間から僅かにオレンジ色の空はとても冷たく見えた。
「浅野君、居るかい?」
小田桐が暗闇に声を掛けると遠くから足音が近づいてきた。
「課長、足跡!探したんですが、変なんです」
「ん?ちょっと落ち着いてしゃべって」
「はい、監督を探しにきたんですが誰もいないんです。というか人の居た気配がありません」
「気配がわかるの?忍者みたいだね。電話かけてみたかい?」
「いや課長に電話した直後から圏外になってしまって・・」
小田桐は自分の携帯を取り出して画面を見ると、圏外のマークが出ている。
「ほんとだ。こりゃ参ったな」
小田桐は眉間を摘んでため息をつきながら、資材の間を抜けて恐る恐る壁際まで進んでみた。
遠くの空を見つめると、来た時に降っていた雨はいつの間にか上がっていて、夕日の一部が流れの早い雲の切れ間に時折見えた。
冷たい風は刑事達の髪を激しく乱して通り抜けていく。
眼下には点き始めた町の明りが揺らいで、その向こうに黒い海が広がっているのが見えた。
「何なんだ?何が始まったんだ?」
小田桐は大きく吸い込んだ息を吐き出しながらつぶやいた。