深淵の章 第二話
出火
「おい!起きろ!」
レイジの声が聞こえた。
つなぎの襟元がすごい力で引っ張り上げられる。
ハッとして目を瞬くと、布団の上でレイジに体を引き起こされていた。
「あれ?なんでここに」
いつの間にか階下の和室にいた。
「寝ぼけるなよ。これを履け」
レイジは登山用なのか厚手の革で作られた厳ついブーツを投げた。
地響きのような轟音が聞こえて天井や壁がビリビリと揺れる。
「何この音?どうしたの?」
言った途端、備考を刺すような異臭がした。
何かが燃えている。
「この家が燃えてるんだ。走れ」
レイジは囲炉裏の部屋に続く襖を蹴り飛ばして退路を確保すると、珍しく慌てた様子で急かした。
「待って靴が」
「とりあえず外に出てからにしろ」
囲炉裏の脇を走り抜け土間に降りると、その空間全体に煙が薄っすらと漂っていた。
玄関の戸の隙間からちらちら動くオレンジの光が見える。
外で何かが燃えているようだ。
2人は玄関とは逆方向の裏口へ続く通路を走った。
頭上でバキバキッと柱の折れる音に続いて天井を揺らす振動が伝わってきた。
火の粉を含んだ灰色の煙が、壁の所々から噴き出してくる。
レイジはコートの下に彩香を隠すようにして走った。
「煙を吸うなよ!クソ!あいつら調子に乗りすぎだ」
「あいつらって?」
「お前を狙ってきた奴らだ。此処まで来やがった」
「私、狙われてるの?なんで?」
「後で直接聞いてみな」
レイジは裏口の戸板をけり破り裏庭に駆け出した。
燃え盛る炎が辺りを照らして、そこは昼間のように明るかった。
「ちょ、ちょっと待って!靴を・・・」
彩香は少し離れた木蓮の木の下で慌てて靴に足を突っ込んだ。
「しゃがめ!」
レイジの叫び声に反射的に身を屈めると、火の付いた枝が槍の様に飛んできて、すぐ後ろの木の幹に突き刺さった。
「こっちへ走れ」
言われるままにレイジだけを見て走る。
直後、背後で炸裂音が響き、太い樹の幹が軋む音が聞こえた。
バランスを崩してレイジの足元に転がり込むと、大きな木蓮の樹がゆっくりと大きな音を立てて倒れた。
風圧で舞い上がった無数の火の粉が波のように彩香を襲う。
倒れた幹の下に、炎を反射する装飾をつけた何かが動くのが見えた。
「あれは!」
思わず叫んだ。
鎧兜だ。
学校で見たのと同じ鎧兜が、倒れた樹の枝を払いのけながら立ち上がる。
「今日はご一行様か」
レイジは彩香の奥襟首を掴み上げると、身を翻して森へと走った。
彩香は物凄い勢いで引っ張られて、まるで紙細工のように手足が宙に舞った。
鎧兜があっという間に小さくなり、視界が枝葉に遮られると重力を取り戻した足はふわりと地に着いた。
「今の・・何?」
「まだだ、止まるな!」
「おじいさんとおばあさんは!?」
「山と川に出かけてるから大丈夫だ!」
2人は最初に上がってきた獣道のような階段を駆け下りた。
落ち葉に足を取られそうになりながらも、レイジのハーフコートの裾にしがみ付いて走った。
レイジはボクサーのように、樹の太い幹や突き出した枝を器用に交わしながら走るので、手を離さないようにしがみ付いているだけでも必死だ。
後ろから矢のような火の玉が幾つもビュン、ヒュンと風切り音を立てて、2人を追い抜いていく。
彩香は後ろから迫る熱と辺りを照らす光が強くなったのを感じて振り返ると、壁の如く広がった炎が、辺りの木々を赤く燃盛るその体内に取り込みながら猛烈な勢いで背後に迫ってきていた。
「レイ兄ちゃん!」
信じがたい光景に本能が死を予感した。
「しかたねぇな」
レイジは彩香の脇を両手で掴むと、ボールでも投げるように軽々と前方へ投げ飛ばした。
「!?」
叫ぶ間もなく彩香の体は斜面に生える木々の天辺と同じくらいの高さまで飛ばされていた。
余りに突然の視界の変化に、自分がどうなったのかすぐには理解できなかったが、遥か眼下を川のように流れていく地面を見てようやく声が出た。
「いやあああああああああああああ」
放物線の頂点を過ぎ、体は急降下していく。
その横の地面をレイジが風のような速さで木々をすり抜けながら走っている。
「手を出せ」
レイジが手を差し出す。
彩香は抱きつくようにその手を掴んだ。
レイジはコマの回転で、1回大きく振り回してから彩香をふわりと着地させた。
呆然とする彩香はレイジにしがみついたまま、眼と口が開きっぱなしだったが、火の手は随分と引き離していた。
手を引いてレイジはまた駆け出す、休む間は無いようだ。
「まだ来るぞ」
レイジは前方の茂みの一点を見つめて言った。