深淵の章 第一話 青の空間
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彩香はなかなか寝付けなかった。
実際には断続的に眠っているのかも知れないが、それはとても浅くて眠れない感覚しかない。
ゴワゴワのつなぎを着ているせいもある。
でもパジャマは無いし、かといってぶかぶかの男用下着だけで寝るのは心許無い。
「はぁ全然眠れない、いま何時かナ・・・」
布団の中で何度も寝返りを打っていると、誰かの笑い声が遠くで聞こえた。
「誰だろ?レイ兄ちゃんの声じゃない。さっきの女の人かな」
起き出して、静かに襖を開けると縁側を真っ暗な土間へと歩いた。
声が近くなってくる。
土間へ降りると、声は上から聞こえた。
彩香は誘われるように階段を昇り昼間来た仕切りのない広間に顔をのぞかせた。
大きな障子から射す青白い月明かりが、広間を斜めに照らし出している。
研かれた床に反射した月明かりは、広間全体をほんのり明るしていて、規則的に並ぶ柱がくっきりと、その影を落していた。
「わあキレイだなぁ!」
彩香はふらふらっと部屋の真ん中へ進み出た。
すると。
笑い声が右手の奥で聞こえた。
「だれ?」
声の方に振り向く。
が、誰もいない。
また笑い声がした。
かと思うと、すぐ消えて、今度は左後ろで聞こえて、また消える。
そんな姿の見えない笑い声を追っていると、徐々に明るさに慣れたのか、柱の陰に隠れていく誰かの背中が見えた。
髪の毛は長いので女の子だろう。
彩香は小走りにその背中を追って柱を回り込んでみた。
が、そこには誰も居ない。
「こっちだよ」
さっきまで彩香が居た方で呼ぶ声がする。
また誰かが柱の陰に隠れた。
「何よ。意地悪しないで」
あっちこっちで誰かがふと現れては、柱の陰に消えていく。
「よーし、絶対見つけるぞ」
眼を凝らして薄明かりの中を見渡した。
「あなた、元気がいいのね」
真横で囁く声にびっくりして肩が弾む。
同い年位だろうか女の子が微笑んで立っていた。
長い髪を後ろで一つに束ねて、今時珍しく着物を着ている。
「昼間、庭に居たでしょ。あの後何処にいたの?」
彩香は聞いた。
「ずっとここにいたよ。気付かなかった?」
女の子は笑った。
「探してたんだけど、全然分からなかったよ」
彩香も笑った。
名前も知らないのに、2人はずっと前からの友達のように話し、笑った。
また奥から笑い声がした。
「あれ?菜月」
薄暗闇のなかに制服姿の菜月が歩いていた。
彩香に気が付くとニッコリ笑って手を振ったが、立ち止まらずに柱の陰へ消えていった。
すぐに追いかけたが、そこに菜月の姿は無い。
今度は別の柱に向かってクラスメイトが数人、並んで歩いていく。
「深井さん、美幸ちゃん、七ちゃん。皆、なんで此処に?何処行くの?」
必死に呼びかけたが、3人とも微笑むだけで何も言わず歩き続け行ってしまう。
柱の周りを駆け回る彩香を、笑顔で見守っていた女の子が静かに近づいてきた。
横に並んで立つと、無言で広間の奥を指した。
彩香が視線を合わせると、そこには康代が立っていた。
彩香を見て悲しそうに微笑むと、柱の向こうへ歩き出した。
何か言ったように唇が動いたが、その声は聞こえない。
「お母さん、待って、行かないで!」
慌てて追いかけたが、康代はゆっくりと歩き続けて、立ち止まる気配が無い。
「何処行くの、置いて行かないでよ」
涙混じりになって叫びながら必死に駆け寄ったが、追い付く前に康代は柱の陰に見えなくなってしまった。
彩香は崩れるようにその場に座り込んでしまった。
「皆、何で行ってしまうの?」
声が震える。
着物の女の子が、音も無く彩香の前にしゃがみ込んだ。
「あなた、誰なの?」
顔を上げて、濡れた瞳にその女の子を映す。
「私は、あなた」
女の子はそう言って彩香の瞳を見つめた。
彩香も女の子の瞳を見つめ返す。
お互いに青白い月明かりに染まった顔を見ていると、なぜか同じ顔をしているような、鏡を見ているような気になってきた。
女の子の唇が何かを言おうとゆっくり開くと、月明かりの届かない影の中から、重く引きずるような足音が聞こえてきた。
広間の奥、ゆっくりこちらへ近づいてくる。
彩香は息を呑んで足音のする方を見つめた。
「お願い、連れてって」
女の子が内緒話のような小さな声で呟いた。
近づいてきた足音は、障子の正面で立ち止まった。
彩香たちには障子からの明りが逆光になり顔が見えないが、こちらを見ているのは分かった。
背の高い男の人のようだがレイジでない。
携えている空気が全く違う。
その影は丸くつばの付いた帽子を被り長いコートを着ていた。
男の影は座り込む彩香に向かってゆっくり近づいてくる。
数メートルの距離を一歩一歩踏みしめながら近づいて来る。
彩香は歯を食いしばって、見えないその顔を睨み付けた。
「みんなを返して!」
彩香を掴もうと手を伸ばしかけていた男の影は、2歩手前の所でピタリと止まった。
息遣いが聞こえるような距離だが、影からは何の音もなく、伸ばした手もそのまま微動だにしない。
睨み続ける瞳から涙がぽろぽろと流れ落ちた。
「あなたでしょ!みんなを連れて行ったのは!お母さんを返して!菜月を返して!」
影はピクリとも動かない。
その姿は見ているだけで鳥肌が立ったが、それ以上の感情に突き動かされ声を荒げる。
「誰だか知らないけど、みんなを返さないと許さないから」
彩香は立ち上がり一歩踏み寄ると、真っ黒だった輪郭が月明かりに侵食されるように不規則に歪み、形を変えながら縮みだした。
「逃げるな」
掴みかかろうと腕を振り上げた。
「やめて!」
女の子が彩香の体にしがみ付く。
「触っちゃだめ。これは違うの、見えるだけ」
「何ナノこれは!」
自分を抑えられなかった。
こんなに激情したのは初めてだ。
女の子に止められなければ間違いなく飛び掛っていた。
目の前の影は煙のようになって青白い光の中に霧散していく。
彩香は大きく吸い込んだ息を吐き出して自分を落ち着かせると、胸にしがみ付いたままの女の子に目を向けた。
女の子の艶のある真っ黒な長い髪が、彩香の体に吸収されるように溶け込んでいく。
「ちょっと、何して・・」
見る間に女の子の体は彩香の中に染み込んだ。
慌てふためいて、胸やおなかの辺りをまさぐる。
「うわ、なに?」
ふと気が付くと、辺りは静まり返っていて彩香一人が広間の中にぽつんと取り残されていた。
「今のは、なに?」
両手を光に当てて見つめた。