黒の章 第三話 森の中へ
彩香は冷たい風に眼を覚ました。
体を丸めていた所為で腰が重い。
誰も居ない運転席のドアが大きく開いて、外から風の音と野鳥の声が流れ込んでくる。
背の高い木々に囲まれ、舗装もなく、所々草が伸びているその場所を、朝靄と静寂が包み込んでいた。
彩香は静かにドアを開けて車を降りた。
冷たく凸凹した小石だらけの地面が靴下を通って刺すような痛みが走る。
「ここどこ?」
夜が開けたばかりの真っ白な靄の中、辺りには人の気配が無く、白い闇に取り残されたように心細くなった。
「おい、こっちだ」
姿は見えないが、レイジの声が呼んだ。
よろめく足で声のする方に走ると、薄っすらと姿が見えた。
「早く来いよ」
レイジは先に立って歩き始めた。
「ちょっと待って」
小走りについていく。
が、なかなか追い付けない。
どんなに頑張っても、レイジの姿がはっきりと見える距離まで近づけない。
靄を纏ったレイジの後姿が、森の中の細い道に入っていく。
足元には落ち葉が幾重にも重なり合っていて、しっかり踏みしめて歩かないと滑りそうな坂道を登っていった。
木々が折り重なり、ジグザグに進まなくてはならない獣道のような狭い空間を、腰を屈めて、突き出た小枝を払いながら必死に歩いた。
靄の中に見え隠れするレイジの背中は変わらない足取りで坂を歩き続けていく。
中学3年間バスケットで鍛えたのだが段々息が上がってきた。
レイジが徐々に遠くなる。
どの位歩いたのか、足の先は冷たさと痛みで感覚が麻痺して、手を膝に当ててようやく足を動かす程になってきた。
「待ってよぅ」
泣きそうな声でレイジを見上げる。
「もう着いたぞ」
そう言って振り向いたレイジの向こうに、突然、平らな地面が広がった。
覆いかぶさるような木の影がなくなり、レイジの姿もはっきり見える。
まるでトンネルから抜けたように明るく感じた。
其処には今まで潜ってきた樹と違って、剪定された黒松やツゲの木が砂利の敷かれた小道に沿って綺麗に並んでいた。
見上げる程の山もみじの葉は、風にそよぎ爽やかな音を奏でている。
誰かの家の庭のようだった。
レイジに続いて砂利を踏みしめながら小道を行くと、時代を感じさせる古びた大きな屋根の家が木々の間に見えてきた。
近づくにつれ首が上を向く。
ちょっとした学校位の大きさがあるだろうか。
「大きい・・」
彩香は口を開けたまま、その家を見上げた。
「古いだろ?俺の家」
レイジは悪戯っぽく笑った。
二人は家の横を回り込んで歩いていく。
彩香はよろける足で、窓が縦に3つ並んでいる家を見上げながら付いていった。
建物を回り込むとさらに大きな庭が広がっていた。
敷地を囲むのは背の高い森だけで、隣の家はまるで見えない。
砂利道の続く庭の向こうに、背の高いロケットのような形をしたイチョウの木が2本並んでいる。
門柱のようでもある。
ちゃんとした出入り口は向こうなのかもしれないと思った。
家の正面に回ると、大きな引き戸の玄関があった。
「入れよ、着替えを貸してやる。そのままじゃ風邪引いちまうぞ」
彩香は自分の格好を改めて見回した。
確かに寒い。
泥だらけの制服は所々ほつれているし、木々の朝露で結構濡れている。
間口の広い土間へ入ると、一段上がる板の間の前には大きな踏み石が置いてあった。
そこに腰かけて泥だらけの靴下を脱いでから板の間に上がった。
その奥の障子を開けると広い畳の部屋があり、中央の囲炉裏には湯気を吐くヤカンが掛かっていた。
彩香は囲炉裏の脇に崩れるように座り込み、ヤカンの下でチロチロと揺れる小さな炎を見つめながら大きく息を吐き出した。
「風呂に入れ。髪の毛までグチャグチャだ。その間に飯を用意しておく」
隣の部屋から出てきたレイジは、綺麗に折畳まれた服を彩香に投げ渡すと土間へ降りて、壁際にある釜戸に薪を入れながら「風呂はあっちだ」と親指で指した。
「俺はちょっと出かけてくる。昼までには戻るからよ」
「え?」
彩香は思わず立ち上がり、土間へ降りようとした。
「もうすぐ、ジジババが帰ってくるし、お前のことは話してあるから心配すんな」
レイジは、忙しそうにあちこち動いて火を大きくした。
「でも・・」
「大丈夫だ。お前を取って食うわけじゃない」
「・・・」
彩香は四角に畳まれた服を見つめた。
「自分の家だと思ってゆっくりしてろよ」
レイジは火が安定したのを確認するとニコリと笑って、玄関を出て行った。