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42  作者: カムロ
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第8話 煙の中のふたり

翌朝、目覚めた瞬間から胸の奥がざわついていた。


 台所で湯を沸かしながら、昨夜の出来事が断片的に蘇る。  横断歩道。  押された感触。  迫ってきた車のヘッドライト。  地面に叩きつけられた瞬間の、骨がきしむような痛み。


(……あれ、結局誰が押したんだ?)


 自分の答えは出なかった。


 沸いた湯をマグカップに注ぎ、コーヒーを作る。  苦い香りが薄いキッチンに満ちる。  そのままベランダへ出て、一服つけた。


 昨日より風が冷たかった。


 煙が細く揺れ、その向こうに朝の街がぼやけて見える。  吸った本数よりも灰皿に残る吸殻が一本多い気がしたが、


(……昨日の、自分の分だろ)


 と無理に納得させた。


 深く吸った煙が肺の奥をひりつかせる。  それでも、頭のざわつきはなかなか収まらなかった。


(昨日……俺は死んでてもおかしくなかったんだよな)


 煙を吐き出しながら、そう呟いたとき——

 テーブルに置いたスマホが震えた。


「……誰だよ、朝から」


 画面を見ると、「会社(代表)」の文字。


「はい、西村です」


 声を出した瞬間、受話口の向こうの空気が重く沈んだ。


「……西村さん。落ち着いて聞いてください」


 聞こえてきたのは、棚橋ではなく——

 同じ部署の女性、加藤の声だった。


「宮田さん……亡くなりました」


 耳鳴りがし、言葉が遠くへ押し流されるようだった。


「……は?」


「昨夜、交通事故で……。詳しくはまだ……。

 今日の通夜、部署のみんなで行くことになっていて……」


 声の意味は理解できた。

 だが、実感がまったく追いつかなかった。


 昨日、確かに宮田と会話した。

 コーヒーをこぼした時も笑っていた。

 入退室ログを一緒に確認した。

 昨日の出来事だ。


 それなのに——。


(……何だよ、それ……)


 胸の奥が、ゆっくりと沈んでいった。


 電話を切ったあと、煙草をもう一本吸った。

 だが、味は何も感じなかった。


   *


 その日の夕方、葬儀場。


 香の匂いがただよい、参列者たちの黒い影が揺れていた。

 祭壇には宮田の遺影。

 仕事中と同じように、どこか気の抜けた笑顔。


 胸が痛んだ。


 受付を済ませ、焼香の列に並ぶ。

 視線を落とし、静かに順番を待とうとしたとき——


 線香の煙の向こうに“ふたり”の姿が見えた。


 喪服の女と、喪服の男。


 女の横顔を見た瞬間、一樹は息を飲んだ。


(……沙織……)


 胸がきゅ、と縮まり、手のひらがじっとり湿った。


 黒い喪服。

 首筋の線。

 結い上げた髪。

 姿勢。

 指先。


 どこを切り取っても、沙織そのものだった。


 ただの“似ている誰か”では説明がつかない。

 一樹には、それが確かに沙織に見えた。


 だが——

 隣に立つ喪服姿の男だけは、どうしても顔が見えなかった。


 角度でも、照明の問題でもない。

 男の顔の部分だけが、不自然なほど暗く沈んでいる。


(……誰だ、あいつ)


 沙織がゆっくりとこちらを向いた。

 視線が合った、と一樹は確信した。


 胸が締めつけられ、足がわずかに震える。


 その瞬間——

 線香の煙がひらりと横切り、

 ふたりの姿は白い靄の奥に沈んだ。


 煙が薄れた時には、

 ふたりとも跡形もなく消えていた。


「……っ」


 呼吸の仕方を忘れたような感覚。

 喉の奥がきゅっと狭まり、空気が入らない。


 沙織は、確かにそこにいた。

 一樹にはそう見えた。


 だが、隣にいた“男”は誰なのか。


 胸の奥で鈍い痛みが広がる。


(沙織……何を……)


 問いは最後まで形にならなかった。


 会場の外から吹き込む夜風が、

 線香の煙をゆらりと揺らした。

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