表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42  作者: カムロ
7/14

第6話 映像に立つ影

夜十時を過ぎたオフィスは、昼間の喧騒が嘘のように沈黙していた。

 プリンターのランプは落ち、機械の稼働音もすべて消えている。

 人の気配のない職場は、まるで空気そのものが冷たくなったようだった。


 一樹は喫煙室の換気扇の下で、タバコを指に挟み、静かに煙を吐き出した。

 白い煙がゆっくりと天井へ散り、薄く曇ったガラス越しに見る廊下は、どこか歪んで見えた。


(……今日は、嫌な一日だった)


 朝の転落事故の光景が、脳裏に焼きついたままだった。

 幌が沈んだ音。

 あの“揺れ方”。

 目の前で人の体が落ちていく現実感のない瞬間。


 その重さのせいか、同僚たちの小さな不調も、妙に不気味に思えた。


 コピー機の紙詰まり。

 ネット回線の瞬断。

 プリントの不具合。


 些細なトラブルだ。だが、今日はそれらが連続し、原因不明の“嫌な空気”が職場全体に漂っていた。


 そして午後八時前には、同僚が次々に帰っていった。


「今日はダメだわ。もう帰る」


「悪い、家でやるわ。先に失礼」


「頭痛してきた……」


 気づけば、フロアには一樹だけが残っていた。


(……俺が一番、ツイてなかったんだよな)


 タバコを灰皿に落とす。

 火種が小さく音を立てて沈んだ。


 ふと灰皿を見ると、吸い殻が二本あった。


 一つは確かに自分の銘柄。

 もう一つは――少し早く清掃担当が回収したのだろう。

 そう思おうとするが、どこか胸の奥で小さなひっかかりが残る。


(……今日は掃除が早かったか?)


 記憶をたどろうとすると、思考が霧に包まれたように曖昧になった。


「……疲れてるだけだ」


 独り言が、喫煙室の静けさに吸い込まれた。


 


 喫煙室を出て歩くと、廊下の靴音がやけに響いた。

 夜の職場は広すぎる。

 いつも見慣れたオフィスなのに、どこか“別の建物”のように感じられる。


 デスクに戻り、鞄を肩にかける。

 ストラップがいつもより重く感じた。


 帰る前に、いつもの癖で総務前のモニターに目を向ける。

 廊下の角に取り付けられた防犯カメラ映像が、四分割で映し出されていた。


 ——そのとき、一樹の足が止まった。


 1階エントランス。


 誰もいないはずの深夜のフロアに、ひとつの“影”が立っていた。


 肩まで伸びた髪の影。

 細い肩の線。

 白い服のような影が、暗がりの中にぼんやりと浮かんでいる。


(……誰だ? まだ残ってたのか?)


 胸がひとつ跳ねる。


 その影が、ゆっくりと横に顔を向けた——

 ように、見えた。


 その“向き方”が、あまりに見覚えがあった。


(…………沙織……?)


 息が止まり、背中に冷たい汗が伝う。


 そんなはずはない。

 絶対にありえない。

 でも——似ていた。


 遠目で顔は見えない。

 だが、だからこそ“輪郭だけの沙織”に見えてしまう。


 画面が一瞬、ノイズで揺れた。


 次の瞬間、影は消えていた。


「……疲れてるだけだ」


 声に出しても、胸の奥底のざわめきは消えなかった。


 


 一樹は鞄のストラップを握り直し、エレベーターへ向かった。

 廊下の冷気が皮膚に刺さるように冷たかった。


 ボタンを押す。


 左側のエレベーターがゆっくりと上がってくる。

 電子音。

 開いた扉の向こうには、誰もいない空間。


 当たり前なのに、その“無人の空気”が妙に落ち着かない。


 乗り込もうとした瞬間——


 右側のエレベーターが動き出した。


 ——呼んでいない。


 階数表示が一段ずつ灯り、まっすぐこのフロアに向かってくる。


 腹の奥がじわりと冷える。


 扉が、息を殺すようにゆっくりと開いた。


 金属のこすれる音が、沈んだ夜の空気に長く残る。


 中は——やはり誰もいない。


 灯りだけが、空の箱にぼんやり広がっていた。


 呼びもせず、誰も乗っていないのに上がってきた。


 途中で“誰か”が乗っている気配も、無かった。


 足が自然に後ずさる。


(……さっきの影……だったのか?)


 考えたくなかった。


 一樹は右側のエレベーターを避け、左側のエレベーターに素早く乗り込んだ。


 扉が閉まりかけたその隙間から、右側のエレベーターが静かに佇んでいるのが見えた。

 まるで、乗り遅れた“誰か”を静かに待っているように。


 扉が閉じる。


 箱がゆっくりと下り始めると同時に、一樹は自分の手が震えていることに気づいた。


(……何かが……近づいてきてる)


 その感覚だけが、言葉よりはっきりと胸の奥に沈み込み、

 エレベーターの静かな下降音と一緒に、深く深く沈んでいった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ