第5話 防犯映像の中の俺
——その男は、どう見ても俺だった。
肩の傾きも、歩幅も、コートの皺の寄り方も。
ただひとつ違うのは、顔だけが最後まで“そこにない”ことだった。
黒い画面の中、エレベーターホールの映像。
蛍光灯の白い光に照らされているはずなのに、男の顔の部分だけが、意図的に塗りつぶされたかのように暗い。
「な? 一樹さんにしか見えないだろ」
隣で宮田が、半分おもしろがるような声を出す。
俺は、返事ができなかった。
——数時間前のことを思い出す。
*
昼休みが終わったオフィスは、妙に音が少なかった。
キーボードを叩く音も、マウスを動かす擦れる音も、電話のベルも、ちゃんとそこにある。
なのに、どれも薄い膜を一枚通した先で鳴っているように聞こえる。
モニターの白い画面の光が、目の奥をじわじわと乾かしていく。
さっき見た転落事故の光景が、ときどき勝手に割り込んでくる。
幌が沈むあの鈍い音。
人の体が、物みたいに落ちていく軌跡。
救急隊員の無言の動き。
(……やっぱり、今日は休むべきだったか)
そう思ったところで、今さらどうにもならない。
資料の数字を追っていても、桁が何度もずれて見えた。
背中のあたりで、椅子の布地がじわりと冷えていく。
ふと、視界の端で何かが揺れた気がして顔を上げる。
モニターの黒い縁に、うっすらと自分の輪郭が映っていた。
さっきエレベーターの中で見た時と同じ、疲れた顔。
その輪郭が、一瞬だけ“半歩遅れて”動いたように錯覚する。
「……気のせいか」
小さく呟いて、視線を画面に戻す。
そのとき、肩を軽く叩かれた。
「一樹さん、ちょっといい?」
振り向くと、総務の宮田が立っていた。
紙コップを片手に、いつもの気の抜けた表情をしている。
「さっき棚橋から聞いたけどさ。昨日来てないんだって?」
「ああ。家にいたよ」
「だよな。でさ——」
宮田は声を少しだけ落とした。
「昨日の入退室ログさ、お前のIDで夜に一回、反応があるんだよ。
時間、見てみる?」
心臓が、静かにひとつ跳ねた。
「……見せてくれるか」
「おう。ちょうど今、空いてるからさ」
宮田に案内されて、総務室の奥へ向かう。
資料の棚の間を抜けると、壁際に小さなモニターが並んだ机があった。
「ここ。ちょっと座れよ」
モニターの前に座らされ、宮田がキーボードを叩く。
ログ閲覧用のシステムらしい画面が立ち上がる。
日付を選び、社員番号を入力。
スクロールしていくと、昨日の欄でカーソルが止まった。
「ほら」
そこには確かに、自分の名前とID、その横に数字が並んでいた。
——入室 22:42
数字を見た瞬間、喉の奥がひりついた。
最近、妙に目に入る数だ、という考えが一瞬よぎる。
だがそれをつかまえる前に、宮田の指が画面をトントンと叩いた。
「ここ。ほら、ほかの日は週イチで来てるのにさ。昨日だけ変なんだよな」
「……こんなの、どうにでも間違えようがあるだろ。機械だし」
宮田は首を振った。
「いや、不正侵入じゃねえよ。
ログが正しく通ってるし、カードキーの壊れた痕もゼロ。
扉の警報も鳴ってない。“システム上は正規入室扱い”だな」
(正規……?
じゃあ、これは本当に……俺なのか?)
宮田は続けた。
「まあ一応、防犯カメラの映像もあるから、気になるなら見るか?
すぐ出せるぞ」
気になるか、と問われれば、
気にならないはずがない。
ただ、見たくないという気持ちも、同じくらい強かった。
少し迷ってから、答える。
「……一応、見せてくれ」
「だよな。はいよ」
宮田は別のウィンドウを開き、
時間を合わせて再生ボタンを押した。
画面いっぱいに、エレベーターホールの映像が映し出される。
無人の廊下。
奥に、エレベーターの扉。
壁は白く、床は薄いグレーのタイル。
音はない。
モニターの下で、ハードディスクの小さな駆動音だけがかすかに鳴っている。
数秒の静止のあと、エレベーターの扉がゆっくりと開いた。
黒いコートを着た男が一人、そこから降りてくる。
俯き加減の姿勢。
少しだけ右肩が落ちている立ち方。
コートの裾の揺れ方。
歩き出したときの足の運び。
どれも、見慣れた動きだった。
「ほら、これ。昨日の二十二時四十二分」
宮田が画面の隅を指で示す。
そこには確かに、数字が小さく表示されている。
俺は、その数字ではなく、画面の中心から視線を離せなかった。
男が一歩、二歩と歩き出す。
その歩幅の感覚が、膝に“馴染む”。
自分が歩くときの重心移動と、ぴたりと重なった。
「……」
「な? これ見たら、普通は“あ、来てたんだな”って思うだろ?
でもお前、来てないんだよな?」
宮田の言葉は遠くに聞こえた。
映像の中の男は、カメラの真正面を通り過ぎていく。
なのに、顔は最後まで見えない。
蛍光灯の位置を考えれば、もう少し表情が見えてもいいはずだ。
ただの逆光や解像度の問題と言われれば、それまでの暗さ。
だが、そこだけが不自然に黒い塊になっていた。
「再生、ちょっと戻すぞ」
宮田が巻き戻し、同じ場面をもう一度流す。
エレベーターが開く。
男が降りる。
カメラの前を通り過ぎる。
肩の揺れ方。
歩くリズム。
コートの袖の長さ。
間違いようがない。
どう見ても、自分自身の動きだった。
「似てるだろ?」
「……ああ」
かろうじて、それだけを絞り出す。
胸の奥が、じわりと冷えていくのがわかった。
映像は続く。
男はそのまま廊下の奥へ進み、
画面の右端に設置されたガラス扉の前を通りかかる。
そのとき、ふと違和感が走った。
「ちょい待て」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「ん?」
「今のとこ、もう一回」
宮田が少し巻き戻し、再生する。
男がガラスの前を通る。
ガラスには室内の光と、廊下の風景と、男の“影”が映り込んでいる。
——本来なら、そう見えるはずだった。
だが、モニターの中で起きているのは、少し違った。
男の体がガラスの前を通り過ぎる。
その半拍ほど遅れて、ガラスの中の“黒い影”がついてくる。
一瞬だけ、輪郭がずれた。
「……今の、わかったか?」
「え? どこ?」
「ここ。もう一回」
三度目の再生。
今度は、ガラス部分だけを凝視する。
男が歩く。
ほんの短い区間だけ、ガラスの中の影の肩が、
外を歩いている男の肩より、わずかに遅れて上下する。
気のせいと言われれば、その程度の差だ。
映像のコマ落ちかもしれない。
単なるノイズかもしれない。
けれど、その“半拍のズレ”が、妙に生々しく感じられた。
「……ここ。影、少し遅れてないか?」
自分でも、何を言っているのかわからなくなりながら指さす。
宮田は目を細めてモニターに顔を近づけた。
「んー……ああ、これか?
うーん、たぶんフレーム抜けだな。画質悪いし。
古いカメラなんだよ、ここ。たまにこういう変な残像出るんだって」
あっけらかんとした口調で言う。
その言葉に、少しだけ救われるような気もした。
同時に、どこか無理やり納得させられているような気もした。
「とりあえず、不正侵入ってわけでもなさそうだし。
もしこの時間帯に社内で何かあったとかなら話は別だけど、特に報告もないしな。
気味悪いなら、ログだけは残しとくけど?」
「……いや、いい。ありがとう」
本心からの言葉かどうか、自分でもよくわからなかった。
椅子から立ち上がると、足元が少しふらついた。
自分の足で立っている感覚が、どこか薄い。
「大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
「大丈夫。ただ、事故見たばっかりだから……」
「ああ……さっきのな。
災難だったな。本当、お前じゃなくてよかったよ」
それだけ言って、宮田はまたいつもの歩調で総務室を出ていった。
一人残された室内で、モニターの黒い画面だけがこちらを向いている。
さっきまで映っていたエレベーターホールの光景は消え、
ただの暗い四角形になっていた。
その“暗さ”が、女の顔のようにも、
自分の顔の抜け殻のようにも見えた。
*
デスクへ戻る途中、廊下の窓ガラスに自分が映った。
ネクタイの結び目。
少し猫背気味の姿勢。
右肩がわずかに落ちている立ち方。
その全てが、
さっきモニターで見た男の輪郭と重なる。
(……俺、あんな歩き方だったか)
今さらのように疑問が浮かぶ。
昨日、家にいたことは覚えている。
なのに、昨日の夜の自分の歩き方は、思い出そうとしても形にならなかった。
席に戻ると、机の上の書類の端が少しだけ曲がっていた。
誰かがそこに肘を置いたような、かすかな跡。
ただの偶然や、誰かの癖。
そう説明してしまえば、それで終わる話だ。
だが今日という一日の中では、その小さな違和感さえ、
何かの続きのように思えてしまう。
モニターをつける。
画面が光る瞬間、一瞬だけ、
そこに“もうひとりの自分”が映る気がして、呼吸が浅くなった。
タスク管理アプリを開く。
通知欄に、小さなアイコンが点滅していた。
ポケットの中で、スマホが震える。
取り出して画面を見る。
——14:42
何の変哲もない、ただの通知時刻。
そう思い込もうとするのに、数字がしばらく視界から離れなかった。
画面を伏せて机に置く。
液晶の黒い光沢の中に、ぼんやりと自分の顔が映る。
その隣で、
もうひとつ別の輪郭が、
“映りかけて、消えた”ような気がした。




