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42  作者: カムロ
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第5話 防犯映像の中の俺

——その男は、どう見ても俺だった。


肩の傾きも、歩幅も、コートの皺の寄り方も。

ただひとつ違うのは、顔だけが最後まで“そこにない”ことだった。


黒い画面の中、エレベーターホールの映像。

蛍光灯の白い光に照らされているはずなのに、男の顔の部分だけが、意図的に塗りつぶされたかのように暗い。


「な? 一樹さんにしか見えないだろ」


隣で宮田が、半分おもしろがるような声を出す。


俺は、返事ができなかった。


——数時間前のことを思い出す。


   *


昼休みが終わったオフィスは、妙に音が少なかった。


キーボードを叩く音も、マウスを動かす擦れる音も、電話のベルも、ちゃんとそこにある。

なのに、どれも薄い膜を一枚通した先で鳴っているように聞こえる。


モニターの白い画面の光が、目の奥をじわじわと乾かしていく。


さっき見た転落事故の光景が、ときどき勝手に割り込んでくる。

幌が沈むあの鈍い音。

人の体が、物みたいに落ちていく軌跡。

救急隊員の無言の動き。


(……やっぱり、今日は休むべきだったか)


そう思ったところで、今さらどうにもならない。


資料の数字を追っていても、桁が何度もずれて見えた。

背中のあたりで、椅子の布地がじわりと冷えていく。


ふと、視界の端で何かが揺れた気がして顔を上げる。

モニターの黒い縁に、うっすらと自分の輪郭が映っていた。


さっきエレベーターの中で見た時と同じ、疲れた顔。

その輪郭が、一瞬だけ“半歩遅れて”動いたように錯覚する。


「……気のせいか」


小さく呟いて、視線を画面に戻す。


そのとき、肩を軽く叩かれた。


「一樹さん、ちょっといい?」


振り向くと、総務の宮田が立っていた。

紙コップを片手に、いつもの気の抜けた表情をしている。


「さっき棚橋から聞いたけどさ。昨日来てないんだって?」


「ああ。家にいたよ」


「だよな。でさ——」


宮田は声を少しだけ落とした。


「昨日の入退室ログさ、お前のIDで夜に一回、反応があるんだよ。

時間、見てみる?」


心臓が、静かにひとつ跳ねた。


「……見せてくれるか」


「おう。ちょうど今、空いてるからさ」


宮田に案内されて、総務室の奥へ向かう。

資料の棚の間を抜けると、壁際に小さなモニターが並んだ机があった。


「ここ。ちょっと座れよ」


モニターの前に座らされ、宮田がキーボードを叩く。

ログ閲覧用のシステムらしい画面が立ち上がる。


日付を選び、社員番号を入力。

スクロールしていくと、昨日の欄でカーソルが止まった。


「ほら」


そこには確かに、自分の名前とID、その横に数字が並んでいた。


——入室 22:42


数字を見た瞬間、喉の奥がひりついた。


最近、妙に目に入る数だ、という考えが一瞬よぎる。

だがそれをつかまえる前に、宮田の指が画面をトントンと叩いた。


「ここ。ほら、ほかの日は週イチで来てるのにさ。昨日だけ変なんだよな」


「……こんなの、どうにでも間違えようがあるだろ。機械だし」


宮田は首を振った。


「いや、不正侵入じゃねえよ。

ログが正しく通ってるし、カードキーの壊れた痕もゼロ。

扉の警報も鳴ってない。“システム上は正規入室扱い”だな」


(正規……?

 じゃあ、これは本当に……俺なのか?)


宮田は続けた。


「まあ一応、防犯カメラの映像もあるから、気になるなら見るか?

すぐ出せるぞ」


気になるか、と問われれば、

気にならないはずがない。


ただ、見たくないという気持ちも、同じくらい強かった。


少し迷ってから、答える。


「……一応、見せてくれ」


「だよな。はいよ」


宮田は別のウィンドウを開き、

時間を合わせて再生ボタンを押した。


画面いっぱいに、エレベーターホールの映像が映し出される。

無人の廊下。

奥に、エレベーターの扉。

壁は白く、床は薄いグレーのタイル。


音はない。

モニターの下で、ハードディスクの小さな駆動音だけがかすかに鳴っている。


数秒の静止のあと、エレベーターの扉がゆっくりと開いた。


黒いコートを着た男が一人、そこから降りてくる。


俯き加減の姿勢。

少しだけ右肩が落ちている立ち方。

コートの裾の揺れ方。

歩き出したときの足の運び。


どれも、見慣れた動きだった。


「ほら、これ。昨日の二十二時四十二分」


宮田が画面の隅を指で示す。

そこには確かに、数字が小さく表示されている。


俺は、その数字ではなく、画面の中心から視線を離せなかった。


男が一歩、二歩と歩き出す。

その歩幅の感覚が、膝に“馴染む”。

自分が歩くときの重心移動と、ぴたりと重なった。


「……」


「な? これ見たら、普通は“あ、来てたんだな”って思うだろ?

でもお前、来てないんだよな?」


宮田の言葉は遠くに聞こえた。


映像の中の男は、カメラの真正面を通り過ぎていく。

なのに、顔は最後まで見えない。


蛍光灯の位置を考えれば、もう少し表情が見えてもいいはずだ。

ただの逆光や解像度の問題と言われれば、それまでの暗さ。

だが、そこだけが不自然に黒い塊になっていた。


「再生、ちょっと戻すぞ」


宮田が巻き戻し、同じ場面をもう一度流す。


エレベーターが開く。

男が降りる。

カメラの前を通り過ぎる。

肩の揺れ方。

歩くリズム。

コートの袖の長さ。


間違いようがない。

どう見ても、自分自身の動きだった。


「似てるだろ?」


「……ああ」


かろうじて、それだけを絞り出す。


胸の奥が、じわりと冷えていくのがわかった。


映像は続く。

男はそのまま廊下の奥へ進み、

画面の右端に設置されたガラス扉の前を通りかかる。


そのとき、ふと違和感が走った。


「ちょい待て」


自分でも驚くほど低い声が出た。


「ん?」


「今のとこ、もう一回」


宮田が少し巻き戻し、再生する。


男がガラスの前を通る。

ガラスには室内の光と、廊下の風景と、男の“影”が映り込んでいる。


——本来なら、そう見えるはずだった。


だが、モニターの中で起きているのは、少し違った。


男の体がガラスの前を通り過ぎる。

その半拍ほど遅れて、ガラスの中の“黒い影”がついてくる。


一瞬だけ、輪郭がずれた。


「……今の、わかったか?」


「え? どこ?」


「ここ。もう一回」


三度目の再生。

今度は、ガラス部分だけを凝視する。


男が歩く。

ほんの短い区間だけ、ガラスの中の影の肩が、

外を歩いている男の肩より、わずかに遅れて上下する。


気のせいと言われれば、その程度の差だ。

映像のコマ落ちかもしれない。

単なるノイズかもしれない。


けれど、その“半拍のズレ”が、妙に生々しく感じられた。


「……ここ。影、少し遅れてないか?」


自分でも、何を言っているのかわからなくなりながら指さす。


宮田は目を細めてモニターに顔を近づけた。


「んー……ああ、これか?

うーん、たぶんフレーム抜けだな。画質悪いし。

古いカメラなんだよ、ここ。たまにこういう変な残像出るんだって」


あっけらかんとした口調で言う。


その言葉に、少しだけ救われるような気もした。

同時に、どこか無理やり納得させられているような気もした。


「とりあえず、不正侵入ってわけでもなさそうだし。

もしこの時間帯に社内で何かあったとかなら話は別だけど、特に報告もないしな。

気味悪いなら、ログだけは残しとくけど?」


「……いや、いい。ありがとう」


本心からの言葉かどうか、自分でもよくわからなかった。


椅子から立ち上がると、足元が少しふらついた。

自分の足で立っている感覚が、どこか薄い。


「大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」


「大丈夫。ただ、事故見たばっかりだから……」


「ああ……さっきのな。

災難だったな。本当、お前じゃなくてよかったよ」


それだけ言って、宮田はまたいつもの歩調で総務室を出ていった。


一人残された室内で、モニターの黒い画面だけがこちらを向いている。

さっきまで映っていたエレベーターホールの光景は消え、

ただの暗い四角形になっていた。


その“暗さ”が、女の顔のようにも、

自分の顔の抜け殻のようにも見えた。


   *


デスクへ戻る途中、廊下の窓ガラスに自分が映った。


ネクタイの結び目。

少し猫背気味の姿勢。

右肩がわずかに落ちている立ち方。


その全てが、

さっきモニターで見た男の輪郭と重なる。


(……俺、あんな歩き方だったか)


今さらのように疑問が浮かぶ。


昨日、家にいたことは覚えている。

なのに、昨日の夜の自分の歩き方は、思い出そうとしても形にならなかった。


席に戻ると、机の上の書類の端が少しだけ曲がっていた。

誰かがそこに肘を置いたような、かすかな跡。


ただの偶然や、誰かの癖。

そう説明してしまえば、それで終わる話だ。


だが今日という一日の中では、その小さな違和感さえ、

何かの続きのように思えてしまう。


モニターをつける。

画面が光る瞬間、一瞬だけ、

そこに“もうひとりの自分”が映る気がして、呼吸が浅くなった。


タスク管理アプリを開く。

通知欄に、小さなアイコンが点滅していた。


ポケットの中で、スマホが震える。


取り出して画面を見る。


——14:42


何の変哲もない、ただの通知時刻。

そう思い込もうとするのに、数字がしばらく視界から離れなかった。


画面を伏せて机に置く。

液晶の黒い光沢の中に、ぼんやりと自分の顔が映る。


その隣で、

もうひとつ別の輪郭が、

“映りかけて、消えた”ような気がした。

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