第4話 職場の影
会社へ向かう道を歩きながら、一樹は何度も深呼吸した。
さっき見た転落事故の光景が、まだ胸の奥で鈍くざわついている。
作業着の男が幌に落ちたときの、あの重い音。
布がゆっくり沈む様子。
救急隊が男を引き上げるときの、生々しい沈黙。
見たくなかった映像ほど、脳裏にこびりつく。
(……今日は、仕事にならないな)
そんな弱い考えが一瞬よぎったが、
立ち止まればそこに留まる重さが増してしまいそうで、
黙って歩き続けた。
電車の中では、つり革を握る手にだけ意識を置くようにした。
視界に映る人々の顔が妙に遠く、ぼやけているように思えた。
駅に着き、改札を抜ける。
階段を上る足がやけに重い。
ビルの入口でカードキーをかざすと、
自動ドアの開く音がいつもより低く聞こえた。
エレベーターに乗り、鏡に映る自分を見る。
その顔は疲れすぎて、どこか他人のもののようだ。
(疲れてるだけだ)
そう思い直す。
会社のフロアの扉を押すと、
朝特有の空気が広がっている。
だが、どこか“薄い膜”のような違和感が漂っていた。
週に一度しか来ないデスク。
「自分の場所」という実感が薄いのはいつものことだ。
椅子に腰を下ろすと、背中にふれた布地が微かに湿っている気がした。
(……気のせいか)
胸のざわつきは事故のせいだけではない気がする。
「一樹さん、おはようございます」
背後から声がした。
棚橋が、湯気の立つ紙コップを片手に歩み寄ってくる。
「昨日も来てましたよね?」
一樹は目を瞬いた。
「……昨日?」
「夜の十時過ぎくらいです。
エレベーターの前にいましたよ。
コート着てて……あれ一樹さんだと思ったんですけど」
「昨日は来てない。一日中、家にいた」
「えっ……?
だって一樹さん、週に一度しか来ないじゃないですか。
だから“二日連続”って珍しいなって思ったんですよ」
棚橋は困ったように笑った。
「暗かったし、見間違いかもしれませんね。
すみません、変なこと言って」
紙コップを軽く持ち上げ、棚橋は席へ戻っていった。
一樹は、静かに息を吸った。
昨日、会社には来ていない。
それは確かで、記憶に曖昧さは一切ない。
けれど、胸のざわつきは消えない。
事故の余韻。
湿った空気。
棚橋の「二日連続」という言葉。
それらが水面の下で静かに結びつき、
得体の知れない影がじわりと形を作り始めているようだった。
気を紛らわせるようにPCの電源を入れる。
空調の唸りだけが、静かなフロアにやけに大きく響いていた。




