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42  作者: カムロ
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第3話 朝のずれ

週に一度だけある出社日だった。


 在宅勤務に慣れすぎたせいか、朝の支度はいつもより少しだけぎこちない。

 シャツのボタンをかけ違え、ネクタイの結び目がなかなか決まらない。

 鏡を前にため息をつき、一樹はようやく形になった結び目を軽く引き締めた。


 リビングに戻り、テーブルに視線を走らせる。

 昨夜のうちに用意したノートPC、名札、定期入れ。

 そこにあるはずのものは確かに揃っている。


 ただ、ひとつだけ違和感があった。


 テーブルの端に置いたはずのマグカップが、

 気づけば中央に寄っていた。


(……俺が動かしたか?)


 記憶をたぐろうとした瞬間、思い出の輪郭がふっと曖昧になる。

 寝ぼけて片づけたのかもしれない。

 その程度のはずなのに、胸の奥にざらりとした感触が残った。


 マグカップを流しへ運び、軽くゆすぐ。

 底から落ちる水滴の音が、静かな部屋に大きく響く。


 時計を見れば、家を出るにはまだ少し早い。


 玄関で靴を履き、コートの襟を整えたところで、

 スマホがふと気になり、ポケットから取り出す。


 画面に表示された時刻は、


 7:42。


「……もう、いやになるな」


 小さく漏れた声が、玄関の空気に沈む。


(よりによって、四十二かよ)


 ただの数字だ。

 本来ならそこに意味などない。

 それでも、胸の奥がわずかに冷たくなる。


 時計、アラーム、給湯器の表示、タスク管理アプリ——

 最近、理由もなく“42”を目にすることが続いていた。


「……気にしすぎだ」


 無理にでもそう言って、スマホをしまう。


 外に一歩踏み出すと、冷たい朝の空気が頬を撫でた。


 鍵を閉めようとして、ふと手が止まる。


(閉めた……よな? さっき)


 ドアに触れた記憶はある。

 しかし鍵を回した“感触”が曖昧だった。


 念のためもう一度家の中へ戻り、

 チェーンと鍵を確かめる。


「……よし」


 改めて鍵を回し、外へ出る。


 ただの確認作業に五分ほどかかった。

 だがその“五分”が、このあとの現実を大きくずらしていた。


 通勤路はいつも通り静かだった。

 植え込みを揺らす風の音だけが耳に入る。


 ふと、鼻に微かな匂いが引っかかった。


(……鉄?)


 金属がこすれたような、鉄錆の匂い。

 胸がざわつき、一樹は歩幅を少し速めた。


 曲がり角を抜けた瞬間、視界が止まった。


 マンションのエントランス脇。

 アスファルトの上に、黒い“塊”が横たわっていた。


 近づくほど、それが人間の形だとわかる。


 仰向けに倒れ、腕が不自然な角度に折れている。

 頭の横のアスファルトには、乾きかけた暗い円が広がっていた。


(落ちた……?)


 胸が縮み、呼吸が止まる。


 倒れた男性の胸の上で、誰かが膝をついていた。


 作業着の男だった。


 くたびれたグレーの作業服に、深くかぶった帽子。

 顔は完全に影に隠れている。


 胸を押す腕だけが、淡々と動いている。

 押し、戻し、押し、戻す——

 そのリズムは、妙に無機質で、妙に正確だった。


 息は乱れておらず、声も出ない。

 まるで“仕事”のように、感情の欠片も感じられない動きだった。


(……何者だ、この人)


 喉がひりつき、胸がざわざわと騒ぎ出す。


 震える指でスマホを出し、119を押す。


「ひ、人が……倒れて……!

 マンションから……落ちたみたいで……!」


 自分の声とは思えないほど震えていた。


 通話を終えた途端、マンションの階段を駆け下りる住人が現れ、

 続いてサラリーマン、学生が足を止めた。


「落ちたの?」

「誰か知ってる?」

「やだ……血……」


 瞬く間に小さな人だかりができる。


 救急車のサイレンが近づき、救急隊が担架を抱えて走ってくる。


 一樹が一瞬そちらへ視線を向け、

 再び元の場所へ戻す。


(……いない)


 作業着の男が、消えていた。


 すぐ近くにいたはずなのに。

 触れられる距離にいたはずなのに。

 その姿は影ひとつ残さず消えていた。


 人混みに紛れたのだ——

 そう考えるべきなのに、胸のざわつきは止まらなかった。


 救急隊は倒れた男性を担架に移し、救急車へ運び込む。

 片方の靴がアスファルトに残されて転がり、かすかに揺れていた。


 救急車が走り去り、

 野次馬たちも散り始め、

 静けさがゆっくり戻る。


 エントランス前のアスファルトには、

 乾いた血痕が薄く筋になって残っている。


 そのすぐ横に、

 泥のついたひとつの靴跡があった。


 倒れた男性の靴とは違う。

 救急隊の靴とも違う。


 そこに“誰かが立っていた”という印だけが、

 朝の光の中に取り残されていた。


(……もし五分早ければ……

 この男は俺の“真上”から落ちてきて、俺はここにいなかった……?)


 その想像が、

 冷たい刃のように胸を刺した。


 住宅街の朝に、

 一樹の震える呼吸だけが静かに広がっていった。


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