第15話(最終話) 境界の向こう側
朝は、静かに始まった。
カーテンの隙間から差し込む光は柔らかく、
久しぶりに、世界が“過剰でない”と感じられた。
一樹はベッドから起き上がり、しばらく何もせずに座っていた。
胸の奥にあったはずのざわつきが、今はない。
怖くないわけじゃない。
ただ、もう——混乱していなかった。
洗面所で顔を洗い、鏡を見る。
そこに映るのは、いつもの自分。
だが、昨日までと決定的に違うことがひとつあった。
(……俺は、ここにいる)
それが“当番”の感覚だと、理解していた。
*
コーヒーを淹れる。
インスタントの粉に湯を注ぐと、
短い香りが立ち上り、すぐに消えた。
それでも構わない。
必要なものだけで、十分だった。
マグカップを手にソファへ座る。
室内は音が少ない。
沙織がいた頃の音楽は、もう流れない。
だがその静けさは、空虚ではなかった。
(……沙織)
名前を心の中で呼ぶ。
返事はない。
だが、代わりに“境界”の感覚だけが、確かにそこにあった。
選んでいい。
だが、踏み越えるな。
それで十分だった。
*
午後、外へ出る。
久しぶりに、目的のない散歩だった。
交差点に差しかかる。
以前、背中を押された場所。
信号は赤。
一樹は立ち止まり、ただ待った。
横断歩道の白線が、はっきりと見える。
車の音。
人の気配。
すべてが、正しい距離にあった。
ふと、視界の端に“揺れ”を感じる。
歩道の向こう。
街路樹の影の中。
自分と同じ背丈の“誰か”。
目を凝らすと、そこにはもういない。
だが、確信があった。
(……行ったな)
今日の“役割”は、終わった。
*
夕方、部屋に戻る。
靴を脱ぎ、鍵をかける。
その一連の動作が、妙にしっくりきた。
スマホを机に置く。
録画アプリを開く必要は、もうなかった。
通知もない。
42という数字も、今日は目に入らない。
それでも分かる。
切り替わるときは、必ず来る。
そのときまで、
今の自分が“こちら側”を生きる。
夜、照明を落とす。
暗闇の中で、
自分の呼吸だけが、確かな音を立てている。
一樹は目を閉じた。
恐怖は、もう“外”にはなかった。
それは自分の中にあり、
役割として、輪郭を持っていた。
だから——
もう、逃げる必要はなかった。
静かな部屋で、
世界はきちんと眠りについた。




