第13話 輪郭が重なる
目を覚ましたとき、体が妙に軽かった。
寝不足のはずなのに、頭は冴えている。
だが同時に、昨夜の記憶がどこか欠けている感覚があった。
ベッドから起き上がり、枕元のスマホを手に取る。
無意識のうちに、歩数アプリを開いていた。
表示された数字に、指が止まる。
(……多くないか)
自分の記憶では、昨夜はほとんど動いていない。
ソファに座り、スマホを伏せ、眠ったはずだ。
それなのに、歩数は確実に増えている。
深夜帯に、まとまった移動の記録。
スクリーンタイムも同じだ。
動画アプリ、ファイル閲覧、録画アプリ。
使った覚えは、ない。
(……俺、寝てる間に……?)
その先の思考を、頭が拒んだ。
考えた瞬間、胸の奥が軋む。
キッチンでインスタントコーヒーを淹れる。
湯を注ぐ音が、やけに大きく響いた。
マグカップを持つ手が、わずかに震える。
時計を見る。
4:42
以前なら、条件反射のように嫌な感覚が走ったはずだ。
だが、今は違った。
胸の奥に広がるのは、奇妙な静けさ。
理由のない安心感。
(……今は、大丈夫)
根拠はない。
だが、そう“わかってしまった”。
仕事を始める。
在宅勤務の画面は、いつもと変わらない。
だが判断の場面で、これまでと違う感覚があった。
危うい選択肢。
効率は悪いが、安全な方。
危険だが、早く終わる方。
一樹は、あえて後者を選んだ。
(……来るなら、来い)
だが——何も起きない。
エラーも、警告も、事故も。
画面は淡々と処理を進めていく。
そのとき、胸の奥で、はっきりと理解した。
(……俺が選ばないと、あれは動かない)
助けるでもなく、止めるでもない。
ただ“先に動いていただけ”。
昼過ぎ、ふと沙織の声を思い出す。
はっきりとした言葉ではない。
音でもない。
ただ、感覚として。
――そっちじゃない。
マウスを動かす手が止まった。
今選ぼうとしていた操作を、やめる。
理由は説明できない。
だが、それでよかったとわかる。
(……沙織)
姿は見えない。
だが、そこに“判断”だけが残っている。
夜。
部屋の照明を落とし、ソファに座る。
静けさが、以前よりも自然に感じられた。
ふと、口から言葉がこぼれた。
「……俺は、二人いる」
声に出した瞬間、胸が締めつけられる。
同時に、奇妙な納得が広がった。
言ってはいけない言葉だった。
だが、もう戻れない。
スマホを手に取り、録画アプリを開く。
新しい動画はない。
だが、古い動画のひとつに「更新」の表示があった。
嫌な予感を抱えながら、再生する。
映っているのは、自分の部屋。
カメラの位置は、いつもと同じ。
そして——
画面の中央に、“自分”が立っていた。
今までと違う。
はっきりと、カメラを見ている。
表情は、落ち着いていた。
恐怖も、焦りもない。
初めて、音声が入る。
「次は、お前の番だ」
画面が暗転する。
スマホの黒い画面に、自分の顔が映る。
その横で、もう一つの輪郭が、同じ速度で瞬いた。
一樹は、目を閉じなかった。
逃げることを、やめていた。




