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42  作者: カムロ
12/14

第12話 確信の手前

朝は、何事もなかったかのように始まった。


 カーテン越しの光は柔らかく、部屋は静かだ。

 昨夜の映像のことは、思い出さないようにしていた。

 考えれば、どこかが壊れる気がした。


 在宅勤務用のノートPCを立ち上げ、メールを確認する。

 特別な連絡はない。

 いつも通りの業務。いつも通りの画面。


 それなのに、指先だけが落ち着かなかった。


 午前中の作業で、ひとつ大きな資料を扱っていた。

 提出期限が近く、ミスは許されない。


 数値を入力し、最後に確認しようとした瞬間——

 画面の一部が、すでに修正されていることに気づいた。


「……?」


 自分の入力と違う。

 致命的になりかねない桁が、正しい数値に直されている。


 履歴を確認する。


 ——数分前。

 ——操作ID:自分。


(……直した記憶、ないぞ)


 背中に、ひやりとしたものが走る。

 だが、資料は正しい。

 ミスは回避されている。


 誰かが助けた?

 いや、この部屋に他人はいない。


 正午過ぎ、ふと時計を見る。


 14:42


 胸の奥が、条件反射のように冷える。

 だが、何も起きない。


 電話も鳴らない。

 警告音もない。

 不幸も、事故も。


 むしろ——仕事は順調だった。


(……42、なのに)


 初めてだった。

 この数字を見て、何も起きなかったのは。


 午後、コーヒーを淹れながら、ふと《別れの曲》の旋律が頭に浮かんだ。

 音は鳴っていない。

 スマホも、スピーカーも、沈黙している。


 それなのに、確かに“思い出した”。


 ちょうど、ミスを免れた直後だった。


(……沙織?)


 名前を口に出す前に、考えるのをやめた。


 夕方、ゴミ出しのために外へ出る。

 ほんの数分の外出。


 角を曲がったところで、近所の老人がつまずいた。


「危ない!」


 声が出たのかどうか、わからない。

 体が勝手に動いた感覚だけがあった。


 老人は転ばずに済み、こちらを見て礼を言った。


「ありがとう。……さっき、後ろにもう一人いたよね?」


 言葉が、耳に引っかかる。


「……え?」


「いや、気のせいかもしれないけど。

 同じような背格好の人が」


 一樹は笑って誤魔化し、その場を離れた。

 心臓の音が、やけに大きい。


 帰宅すると、玄関の鍵が開いていた。


 閉め忘れた?

 いや、確かに施錠したはずだ。


 部屋に荒らされた形跡はない。

 むしろ、整っている。


 ソファの位置が、わずかに違う。

 テーブルの上に、マグカップが二つ。


 ひとつは自分の。

 もうひとつは——使われた形跡があった。


(……考えるな)


 頭の中で、誰かが強くブレーキをかけた。


 夜。

 照明を落とし、ソファに座る。


 スマホの画面が、何の理由もなく一瞬だけ点いた。

 通知はない。

 時刻も表示されない。


 黒い画面に、自分の顔が映る。


 その隣に、

 半拍遅れて動く影。


 一樹は、目を閉じた。


 答えは、もう手の届く場所にある。

 だが、掴めば戻れない。


「……今は、いい」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 静かな部屋で、

 自分と同じ呼吸が、

 わずかに遅れて重なった気がした。

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