第12話 確信の手前
朝は、何事もなかったかのように始まった。
カーテン越しの光は柔らかく、部屋は静かだ。
昨夜の映像のことは、思い出さないようにしていた。
考えれば、どこかが壊れる気がした。
在宅勤務用のノートPCを立ち上げ、メールを確認する。
特別な連絡はない。
いつも通りの業務。いつも通りの画面。
それなのに、指先だけが落ち着かなかった。
午前中の作業で、ひとつ大きな資料を扱っていた。
提出期限が近く、ミスは許されない。
数値を入力し、最後に確認しようとした瞬間——
画面の一部が、すでに修正されていることに気づいた。
「……?」
自分の入力と違う。
致命的になりかねない桁が、正しい数値に直されている。
履歴を確認する。
——数分前。
——操作ID:自分。
(……直した記憶、ないぞ)
背中に、ひやりとしたものが走る。
だが、資料は正しい。
ミスは回避されている。
誰かが助けた?
いや、この部屋に他人はいない。
正午過ぎ、ふと時計を見る。
14:42
胸の奥が、条件反射のように冷える。
だが、何も起きない。
電話も鳴らない。
警告音もない。
不幸も、事故も。
むしろ——仕事は順調だった。
(……42、なのに)
初めてだった。
この数字を見て、何も起きなかったのは。
午後、コーヒーを淹れながら、ふと《別れの曲》の旋律が頭に浮かんだ。
音は鳴っていない。
スマホも、スピーカーも、沈黙している。
それなのに、確かに“思い出した”。
ちょうど、ミスを免れた直後だった。
(……沙織?)
名前を口に出す前に、考えるのをやめた。
夕方、ゴミ出しのために外へ出る。
ほんの数分の外出。
角を曲がったところで、近所の老人がつまずいた。
「危ない!」
声が出たのかどうか、わからない。
体が勝手に動いた感覚だけがあった。
老人は転ばずに済み、こちらを見て礼を言った。
「ありがとう。……さっき、後ろにもう一人いたよね?」
言葉が、耳に引っかかる。
「……え?」
「いや、気のせいかもしれないけど。
同じような背格好の人が」
一樹は笑って誤魔化し、その場を離れた。
心臓の音が、やけに大きい。
帰宅すると、玄関の鍵が開いていた。
閉め忘れた?
いや、確かに施錠したはずだ。
部屋に荒らされた形跡はない。
むしろ、整っている。
ソファの位置が、わずかに違う。
テーブルの上に、マグカップが二つ。
ひとつは自分の。
もうひとつは——使われた形跡があった。
(……考えるな)
頭の中で、誰かが強くブレーキをかけた。
夜。
照明を落とし、ソファに座る。
スマホの画面が、何の理由もなく一瞬だけ点いた。
通知はない。
時刻も表示されない。
黒い画面に、自分の顔が映る。
その隣に、
半拍遅れて動く影。
一樹は、目を閉じた。
答えは、もう手の届く場所にある。
だが、掴めば戻れない。
「……今は、いい」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
静かな部屋で、
自分と同じ呼吸が、
わずかに遅れて重なった気がした。




