第4部第9話 勇者再臨。
――その朝、駐在所の空気はのんびりとしていた。異世界には不釣りあいなコーヒーのいい匂いがただよっている。
「あー、もう買い置きが無くなったかぁ」
インスタントコーヒーの空箱を見ながら、あれだけあったのにとため息をつく。それはそのはず、もう2年近く異世界生活をしているのだから。
いつものように備蓄を確認し、報告書をまとめていた守の所に勢いよく遠藤が入ってくる。
「……守。勇者が、動いたみたいだよ。」
「……勇者が?え?生きてた?」
「北部の網走監獄近くの村だね。三日前──“あの”勇者が、どういうわけか生きていて犯罪者の大軍を皆殺しにしたと。」
「前回と同じか、しかし皆殺し大好きだなー勇者先輩は。」
罪悪感が心に引っかかっていたが、それも少しはやわらぐのがわかる。
しかし、駐在所の雰囲気はピリついているのは変わらない。
勇者が皆殺し──それは、単なる街の報告ではない。
異世界に飛ばされてきた犯罪者対異世界の情勢が変わったという報せだった。
――時間は、三日前に遡る。
⸻
雪の町。
白銀の屋根が並び、凍てつく風が窓を叩く。
そんな中、勇者・凪は焚き火の前に腰を下ろし、串に刺した干し肉をかじっていた。
彼のまわりには、すでに慣れきった町人たちの姿がある。
鍛冶屋の親父が怒鳴り、子どもたちは勇者の剣の真似をして雪玉を振るう。
「おい勇者、今日も魔獣退治か?」
「いや、今日は鍋の番だ。俺がいないと具が焦げる。」
「ははは! お前さん、すっかりここの主だな!」
勇者は笑いながら鍋の蓋を持ち上げ、鼻をくすぐる香りに目を細めた。
雪の町は厳しい。
ほぼ年中雪で覆われているからこそだろうか、その寒さの中に灯る焔と人の笑顔が、彼の心を温めていた。
あの日、制服の警察官に殺されてからは穏やかだった。魔獣は定期的にでるが、敵ではなく村にとっては貴重な食糧源だった。
有し頃は警察官である凪は、自身の守るべきものが出来たからだろうか?はたまた贖罪すべき日常から離脱したからだろうか?顔には曇りなく、穏やかに鍋の番をしている。
この世界に自分は必要とされているまだ、救うべき街がここなのだと信じていた。
そんな穏やかな夜。
王国から派遣されていた。外の見張りが叫び声を上げた。
「――敵襲ぅぅっ!!!」
次の瞬間、外の白銀が赤く染まる。
血を焼く匂い、耳を裂くような爆発音。
町の外れ、森の向こうから無数の影が押し寄せてきていた。
「な、なんだ!? 人間……いや、違う、あれは……!」
「囚人服というやつか……? こいつら、異世界人だ!」
犯罪者たち。
異世界に落とされたはずの、日本の罪人たちが、今、火と共に迫っていた。
その顔には恐怖も、理性もない。
ただ、略奪と殺意に満ちた目だけが輝いている。
凪は瞬時に立ち上がった。
剣を抜く音が雪明かりの中で鋭く響く。
「全員、避難だ! 子どもと女は後ろへ!」
「お前は!?」
「……俺は、勇者だからな。」
そう言い残し、凪は雪原に飛び出した。
炎の中を駆け抜けるように、刃が唸りを上げる。
一閃ごとに赤い飛沫が雪を汚し、熱と冷気が入り混じる。
彼の足元に倒れた犯罪者はもう二桁を超えていた。
だが、敵は止まらない。
異常な魔力と狂気に満ちたその軍勢は、まるで獣の群れのようだった。
凪は息を荒げながら、血まみれの剣を構え直す。
「はぁ……はぁ……こんな……終わり方、あるかよ……」
背後で町が燃える。
目の前では、同じ鍋をつついた人間が牙を剥いて襲ってくる。
「勇者様っ!!助けてーっ!!」
後ろから少女が駆け寄る。
「下がれッ!!こっちにくるなっ!!」
次の瞬間、光が走った。
爆炎が雪を吹き飛ばし、勇者の身体が宙を舞う。
意識が途切れる。
世界が暗転する――。
⸻
「……またお前か。」
暗闇の中。
どこからともなく声がした。
その声は穏やかでありながら、底の見えない冷たさを孕んでいる。
目を開けると、そこには死神官が立っていた。
黒いローブに包まれ、無表情なその顔に、僅かな笑みが浮かんでいる。
「おお、勇者よ!死んでしまうとは何ごとだ!」
「……うるせぇよ。」
「後ろの幼子も守れないなんて、なんて体たらく。普通なら病んでしまうな。」
「ちっ、俺は普通じゃないらしい。」
死神官は細く息を吐いた。
「すこし、休んでいけばよい。」
「いや、もういく。……まだ、救えてねぇからな。」
「救い?生き残りはもう数少ないぞ?君の偽善では中々に救いきれる物量ではないだろう。」
「それでもだ。人間の狂気も、異世界の憎悪も、俺が止める。」
沈黙が流れる。
死神官はやがて、僅かに口角を上げた。
「それでこそ勇者だ。死ぬたびに生き返り、また戦う。ゲームをクリアするまで強くなれ、勇者よ!」
「……てめぇっ、人の命はゲームなんかじゃねぇんだぞっ!」
剣を抜こうにも剣は鞘から出てこない。ぴくりとも動かない。
魔法で神官を消し飛ばそうとするも、魔力は霧散して発動しない。
死神官は手を伸ばし、勇者の胸に触れる。
「なに、無駄だよ。ここは常世とは違うのだから。私に牙を剥いても時間の浪費だよ。」
黒い光が走り、再び鼓動が響いた。
「行け、勇者。お前の戦いは、まだ終わらない。」
そして、凪の視界が再び雪と炎に染まる。
血まみれの雪原で、彼はゆっくりと目を開いた。
「……ああ、地獄はまだ続くのか。」
⸻
その報せが、三日後。
遠藤の口から守の耳に届いたのである。
「勇者が、攻めてきた200名余りをしっかり殺したみたいだねぇ」
「そうなんだ...。」
「ええ。……そして、生き残ったのは勇者と少しの村人だけみたいだ。うちの方にもいつきてもおかしくはないね。間に王国があっても今回みたいに回り込まれちゃうとどうしようもない。」
守は言葉を失い、視線を窓の外に向けた。
炎は遠く、しかし確実に――
この世界全体を、覆い始めていた。




