第3部第3章 血と汗と吐き気
――それは夕暮れ時だった。
駐在所の扉を叩く音が、いつになく重く響いた。
モモが鋭く鳴く。
「……誰だ?」
守が扉を開けると、そこには村人達の他に数人の男女が立っていた。
顔は煤に汚れ、衣は裂け、腕や足からは血が滲んでいる。
中には幼子を抱いた女までいた。
「…………」
何を言ってるかわからない
その声は弱々しく、今にも途切れそうだった。
「アデル!」
すぐ後ろにいたアデルが前に出る。
「北の村が……襲われた、と言っています!」
北に村があったのか!なんて言ってる場合ではなかった。守は息を呑み、駐在所の棚をひっくり返す勢いで消毒液や救急箱をかき集めた。
「落ち着け……落ち着け守……訓練でやっただろ……」
頭の中で、警察学校で受けた救急法の断片を必死に呼び起こす。
三角巾の結び方、止血の要領、気道確保。
だが、現実に目の前で血を流す人を前にすると、教科書の図が頭から飛んでいく。
「くっ……! もっと真面目にやっとけば……」
震える手でガーゼを掴み、血に触れた瞬間、胃がせり上がるような吐き気が襲った。
「うっ……!」
思わず口元を押さえるが、倒れている人の必死の目に射抜かれ、喉の奥でなんとか飲み込む。
「……大丈夫だ。大丈夫だからな!」
自分に言い聞かせるように叫び、血で濡れた傷口に消毒液を流し込む。
「…!」と患者が呻き声を上げる。
言葉はわからないが、言いたいことは表情から読み取れる。悲痛な顔からは目を逸らしたい。
それでも守は歯を食いしばりながら、三角巾を結ぶ手をなんとか動かす。
モモが心配そうに守の肩を小突き、落ち着けと言わんばかりに鳴いた。
「ありがとな……モモ……」
次々と処置をしていく中で、一人、腹に深い傷を負った若者の前に来たとき、守の顔から血の気が引いた。
「……これ、俺じゃ……」
腹部からは絶え間なく血が滲み、呼吸は荒い。
守は震える指で圧迫止血を試みるが、ガーゼがすぐに真っ赤に染まっていく。
「だめだ……どうすりゃ……」
額から汗が滝のように流れ、目の端に涙がにじむ。
「もっと、もっと役に立つスキルをくれよ!!神様頼むよ!!」
アデルが膝をつき、守の肩を支えた。
「守さん、落ち着け!飛竜なら医者のいる町まですぐだ、乗せるぞ!!僕が行ってくる!!」
守は歯を食いしばり、吐き気を押し殺しながらガーゼを押し当て続ける。
しかし、腹の傷の青年は、今にも意識を失いそうだった。
「アデル頼む……医者でもない俺じゃ無理だ。」
守の声は震えていた。だがその目は必死に患者を離さない。
最後に包帯を巻き上げ、呼吸を確かめてから、アデルに託した。
アデルは青年を慎重に抱き上げ、飛竜に乗せる。
守は血に濡れた自分の手を見下ろした。
爪の間まで染み込んだ赤が、彼の無力さを突きつけるようだった。
「ゴム手はめなきゃだったよな、落ち着こう……俺にできる事をやるしかないよな」
呟いた声は、風にかき消された。
たまの様な汗は鼻につく血の匂いと混じって、警察人生にない経験になった。
飛竜の翼が広がり、砂埃が巻き上がる。
「守さん! 残りの人たちを頼む!」
「任せろ!」
顔面は蒼白だが、制服の警察官としての信念で、声を振り絞って送り出す
飛竜は一気に駆け上がり、夕暮れの空に溶けていった。
守は唇を噛み、拳を握った。
――この世界で、命を守る責任。
仕事としては無くなったが、警察官としての自分にはあるのだ。
だが何もできない自分に守の顔には悔しさが滲み出ていた。




