第2部第13章 懐かしい香と異能
駐在所の応接スペースに差し込む午後の陽光。
テーブルの上には湯気の立つマグカップが二つ並んでいた。守は片方をアデルに差し出す。
「ほら、コーヒーだ。」
アデルは一瞬、口をつぐむ。目の前のカップから立ち上る香りに、遠い記憶がふと蘇ったのだ。
「……懐かしい。日本で暮らしていた頃を思い出します」
唇に含んだ瞬間、アデルの表情は柔らかくなる。大学の講義の合間にコンビニで買った缶コーヒーの味。夜勤明けのアルバイトの休憩中、眠気を覚ますために口にした紙カップの温かさ。そうした些細な日常が、突然に胸に蘇った。
守はくすりと笑う。
「まあ、インスタントだけどな?」
「ふふ、でも……この世界で、こうして飲めるとは思わなかった」
二人は笑い合う。異世界の土の上で、現代日本の記憶が一瞬、重なった瞬間だった。
しかし、笑顔は束の間。守は表情を引き締め、低く声を落とした。
「……あのさ。村の連中から聞いたと思うけど、俺の影から、得体の知れない奴らがでてきたんだよ……盗賊を捕まえて、空中に磔にして、神みたいな奴が現れて引き裂いたやつなんだが、何かしってたりしないか?」
アデルは頷き、慎重に口を開いた。
「はい。でも、僕はそれについてはまったくわからないですね。皆、恐怖と畏敬の入り混じった顔で話していました。あれをどう表現していいのかも分からない、と。……でも、守さんが認知した瞬間に現れたのではないか、という話でした」
守は震える拳を机の上に置く。
「そうか、わからないよな……俺だって分からない。止めろって叫んだのに、あいつは笑って……」
言葉が詰まり、唇がわずかに震える。
アデルは優しく言葉を選んだ。
「守さん、転移者――つまり異世界から来た人間には、稀に“スキル”と呼ばれる力が宿ります。私もそうです。『完全翻訳』という能力を持っています。」
「それが……俺の影から出た奴と関係してるってわけか?」
「可能性は高いです。私には見えませんでしたが、村人の話からすると、守さんの認知が引き金になったのでしょうね。」
守は息を吐き、視線を落とした。影から現れた禍々しい存在と自分自身の力を結びつけるのは、理解していても恐怖が先に立つ。
「……こんな力、俺には扱えない。暴走するかもしれない……」
アデルは少し間を置き、視線を守に向けた。
「ただ、守さん。今必要なのは恐怖を押し込めることではなく、まず生き延びることです。ここでの生活基盤を確保し、村人や自分を守ること。それがあなたにできる、仕事です」
守はうなずく。言葉に出さずとも、彼自身がそうするしかないことは分かっていた。
「……備蓄はある。水も食料も、島の全員が一週間は生き延びられる量だ。太陽光発電も蓄電池もある。だが、魔法の世界でどうなるかは分からん」
アデルは目を輝かせ、少し声を弾ませた。
「太陽光発電や蓄電池……私が知っていた現代日本よりも進んでいます。ここまで整備されている小さな施設があるとは! 王都の貴族でも、この規模はなかなかありません」
守は肩をすくめ、冗談めかして言った。
「ま、便利に使わせてもらってるだけだ。掃除や点検は俺の仕事だ」
アデルはその冗談に小さく笑いながらも、内心では驚きを隠せなかった。現代日本で育った彼女が見てきた科学技術と、この世界で守が整備した設備とのギャップは、想像以上に大きかった。
やがて守は、視線を落として静かに訊いた。
「……で、俺は帰れるのか? 元の世界に」
アデルはマグカップを両手で包み、目を伏せた。
「……正直、分かりません。私が日本から転生したとき、帰る方法は示されませんでした。ここで生きるしかないと」
沈黙が空間を支配する。守は唇を噛み、拳を握り直す。
「……帰れない、か」
「ええ。しかし、だからこそ、今は生活基盤を整えることに集中すべきです。備蓄、水、電気、そして身の安全。ここで生き延びる力を持てば、少なくとも目の前の危険には対処できます」
守は長く息をつき、窓の外を見た。遠くの村では、子供たちが元気に駆け回る姿が小さく揺れている。
「……分かった。帰れないなら、ここでやるしかない」
アデルはうなずき、少し笑みを浮かべた。
「そうです。私も同じです。まずは互いにできることを確認し合いましょう」
二人は再びカップを手に取り、静かな時間が流れる。
異世界の土の上で、現代日本の記憶と未知の魔法世界の現実が交錯する。
守は目の前のアデルに、初めて「同郷の人間」として心を許し、少しだけ未来に希望を感じた。




