第2部第12章 壁は崩れ、涙腺も崩れ
その日、守は駐在所の倉庫前で草刈り機をいじっていた。
草刈りをする予定など最初からない。ただ、もし使えれば畑の管理に役立つし、エンジンが動くかどうか確認しておきたかったのだ。
異世界に来てから数日。言葉の通じない村人に出会い、盗賊を目の当たりにし、そして自分の影から出た異形が人を裁いた。何一つ整理できていない。
それでも生活は待ってくれない。電気、水、食料、日々の仕事――。
守はひとつずつ現実に向き合うしかなかった。
そんなとき、不意に扉が叩かれた。
「……誰だ?」
工具を置き、警戒しながら玄関へ向かう。
モモちゃんは縁側で昼寝をしていたが、守の緊張を感じ取ったのか、むくりと首を上げて「きゃ?」と短く鳴いた。
ドアを少しだけ開ける。そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。
茶色の髪、少し痩せた顔立ち。村人たちのような質素な服ではなく、どこか都会的な雰囲気を纏っている。
その目は驚きと恐怖と、それ以上に強い決意を宿していた。
青年は一歩前に出て、ゆっくりと口を開いた。
「――こんにちは。俺の言葉、わかりますか?」
その瞬間、守の思考は止まった。
耳に届いたのは紛れもない日本語だった。
「……えっ?」
信じられない。今まで村人とは何を言っても通じず、ただ不安だけが募っていた。
だが、今目の前の男は、はっきりと「こんにちは」と言ったのだ。
「あなた、日本人……ですか?」
守が震える声で問い返すと、青年は小さく頷いた。
「正確には……日本からこの世界に転生してきた人間です。名前はアデル。この村の出身として暮らしてます」
守の胸に、これまで溜め込んできた孤独と緊張が一気に崩れ落ちる。
「……しゃ、喋れる……やっと……」
言葉が詰まって、思わず目頭が熱くなる。
モモちゃんが横から首を突っ込んで「まもる? ないてる?」と小首をかしげた。
守は苦笑して頭を振る。
「いや……違う、これは……涙じゃない……いや、涙だな」
アデルは一歩下がり、守をまじまじと見つめた。
「やっぱり……交番の看板があったから、もしやと思ったけど。あなた、本当に日本から来た人なんですね」
「そうだ。俺は佐藤守。島の駐在をやってた……日本の警察官だ」
名乗ると同時に、アデルの表情が一気に明るくなる。
「警察官! なるほど、だからあの建物がそのまま残ってたんだ……! いやぁ、交番の看板見たときは鳥肌立ちましたよ」
守は思わず笑った。
この数日、常に肩に力が入りっぱなしだった。それがようやく、少しだけ緩んでいく。
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室内に通すと、アデルはきょろきょろと辺りを見渡した。
「うわ……これ、全部動いてるんですか? 太陽光発電? すげえ、俺がいた頃より発展してる……!」
興奮を隠しきれない様子で、モニターパネルを覗き込む。
表示される発電量、蓄電池の残量、冷蔵庫の稼働音。
「ほんとに電気通ってる……! すげえな……。俺の時代のソーラーパネルなんて、効率も悪かったし高かったのに……。しかも蓄電池? 何この安定感……!」
まるで子供のように目を輝かせ、機械をひとつひとつ観察していく。
守はその姿に少し驚きながらも、どこか誇らしさを感じていた。
日本から持ち込まれたこの駐在所の設備は、異世界においてはまさに奇跡のような存在だ。
「俺は、ただの駐在所の警察官だよ。災害対応で備えられてただけで、特別なもんじゃない」
そう答える守に、アデルは振り返って真剣な顔をした。
「いえ、特別ですよ。ここでは考えられない技術です。あなたがいるだけで、この村は……いや、この世界が変わるかもしれない」
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少し間があって、アデルは言葉を継いだ。
「それと……村の人たちが、あなたに感謝してます。盗賊から救ってくれて、本当にありがとうって。
ただ……言葉が通じなくて、どう伝えていいのか分からなかったんです」
守の胸に、また熱いものがこみ上げた。
異世界に来てから、ただ自分の影が暴走し、人を裁き、恐怖を植え付けただけじゃないかと悩んでいた。
けれど、村人たちは恐怖だけでなく、確かに「感謝」も抱いてくれていたのだ。
「……そうか。伝えてくれてありがとう」
守は深く息をつき、目を閉じた。
ようやく、孤独ではなくなった。
言葉が通じる。思いを伝えられる。異世界に来て初めて、胸の底からそう実感できた。
モモちゃんがその空気を感じ取ったのか、「もももも! まもる、よかったね!」と羽をぱたぱたさせる。
アデルは目を丸くした。
「……しゃべった!? いや、完全翻訳のせいか……? いやでも、鳥が日本語で喋ってるようにしか聞こえない……」
守は笑って肩をすくめる。
「この子は特別なんだよ。名前はモモ。俺の……相棒だ」
初めての邂逅。
守とアデルの間に流れた空気は、緊張と恐怖を孕みながらも、確かに“繋がった”ものだった。




