第2部第11章 今ある普通は普遍的ではない
翌朝。午前十時過ぎ。
モモちゃんを連れて水場へ向かう。車を出すまでもない距離だが、災害用に積んでいた動物捕獲用の網をしっかりと肩に担いで歩いた。
水辺に近づくと、先日確認したとおり、澄んだ水面の下を銀色の影がすっと横切る。魚だ。大きさは十五センチほどだろうか。群れで泳いでいる。
「よし……いるな」
思わず呟く守の横で、モモちゃんは水辺を覗き込み、羽根をパタパタと動かしてはしゃいでいる。
「モモ、とるの? とるの?」
「そう。これが獲れれば、晩飯の足しになる」
しかし相手は自然の生き物だ。そう簡単にはいかない。守は警戒心を解かず、水面をじっと観察する。
魚の動きは素早い。網を振り下ろすタイミングを誤れば、泡と水しぶきだけが残るだろう。
「……よし、ここだっ」
守は一気に網を振り下ろした。ばしゃり、と大きな音を立てて水が跳ね上がる。網の中で銀色の魚が跳ね、暴れ、鱗がきらりと光った。
「獲れた……!」
興奮で声が出る。だが魚は必死に逃げようともがき、網を揺らす。守は手を滑らせそうになりながらも必死に押さえ込み、水から引き上げた。
「うわっ……暴れるな……!」
その様子を見て、モモちゃんは目を輝かせている。
「すごい! すごい! おいしそう!」
「いや、まだ食えるかどうか分からん」
現実に立ち返る。異世界の魚だ。寄生虫や毒の心配もある。煮沸や加熱をして安全を確認する必要がある。迂闊に口にできるものではない。
守は自分に言い聞かせるように深呼吸し、捕獲した魚をバケツに移した。
駐在所に戻ると、守は捕獲した魚を流しに移した。
銀色の鱗が光り、まだ生きているかのように口をぱくぱくさせている。――見慣れたアジやイワシに近いが、やはりどこか違う。目の大きさ、尾びれの形、そして鱗の色合い。微妙に現実とずれている。
「……さて。試すしかないな」
包丁を手に取り、まな板に魚を載せる。生臭い匂いが広がった。
内臓を取り出すとき、ほんのわずかに黄緑色がかった粘液が滲み、守は眉をひそめる。
「……大丈夫か、これ」
警察官として、日頃から現場の異臭や血に慣れているはずだが、未知の生物を相手にするのは別だ。
モモちゃんは椅子の上に乗り、興味津々で羽根をぱたつかせながら覗き込んでいる。
「わー、きれい! はやく! はやく!」
「お前は食うことしか考えてないな……」
魚の身を流水で洗い、塩をすり込み、駐在所備え付けの魚焼きグリルに並べる。
スイッチを入れると、じゅうじゅうと脂が落ち、香ばしい煙が漂い始めた。
その匂いは、懐かしいほどに「日本の食卓」を思い起こさせた。
――本当に食えるのか?
――毒はないのか?
胸中に不安が渦巻く。しかし腹は減る。
保存食を崩すのはできるだけ後にしたい。魚が食えるのならば、大きな安心につながる。
やがて、焼き上がった。
皮がぱりぱりに弾け、脂がじわりと浮いている。箸を入れると、白い身がほろりと崩れた。
「……食べるしかないな」
守は深呼吸し、まずはほんの一口だけ口に含んだ。
咀嚼する。――うまい。
アジに似た淡白な味わいだが、どこか川魚のような香りも混じる。違和感はあるが、嫌悪感を覚えるほどではない。
胃の中に異常はない。舌に痺れもない。
「……食える」
その言葉に、モモちゃんは羽根をばさばさと大きく広げて飛び跳ねた。
「やったー! モモも! モモも!」
守が差し出すより早く、モモちゃんは嘴で身をついばみ、がつがつと食べ始めた。
「おいしい! おいしい!」
その無邪気な姿に、守は思わず苦笑しながらも胸を撫で下ろす。
――毒ではなさそうだ。
――少なくとも、初めの一歩は踏み出せた。
塩焼きの香りが、駐在所にしばらくの間だけ平和な空気をもたらしていた。モモちゃんが満足そうに食後の羽繕いをしている間、守は流しに残った魚の山を見て、深く息をついた。
「……これ、全部やんのか」
生臭さが残る流し台。血と鱗でぬるつく手。
一尾一尾、鱗を落とし、腹を割いて内臓を取り出す。
水で洗ってキッチンペーパーで拭き取り、塩を振って下味をつけるか、切り身にして保存するか――作業は途方もなく続いた。
包丁を動かすたびに、まな板に小さな「トン、トン」という音が響く。
それは決して嫌いではない作業だ。けれど、普段ならスーパーに行けば、きれいに処理された切り身が、パック詰めで並んでいる。
「……やっぱ、あれは便利だったんだな」
ぽつりと漏れる言葉に、自分でも苦笑した。
普段なら気にも留めない文明の恩恵――冷凍保存された魚、調理済みの惣菜、パックに入った洗った野菜。
それらすべてを当然のように享受していたことを、今さらになって痛感する。
作業を続けるうちに、手首はじんじんと痺れ、肩も重くなる。
気がつけば数時間が経ち、流しには山のような鱗と内臓の残骸。
「はぁ……」
深いため息と共に、ようやく最後の一尾をさばき終えた。
切り身や三枚おろしにしたものはラップで包み、保存袋に詰める。
駐在所の冷凍庫――普段は冷凍食品やアイス、保冷剤くらいしか入れていなかった場所に、今は異世界の魚がずらりと並んでいく。
「……これで、しばらくは食いつなげるか」
扉を閉めると、冷気が頬にあたり、妙に現実感が増した。
ここが異世界であろうと、冷蔵庫は働いている。電気は生きている。
その事実だけが、今の守を支えていた。
振り返れば、モモちゃんは畳の上にごろんと転がり、お腹をぽんぽんに膨らませて寝息を立てていた。
「……お前はいいよな」
呆れたように呟きつつも、守の顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。