第2部第8章 越えられない壁
籠を差し出した村人たちが、口々に何かを語りかけてくる。
「……っ、っ…」
意味のわからない響きが、守の耳をかすめた。
守は一瞬だけ、島での日々を思い出す。
駐在所の前を通れば「お巡りさん、今日も暑いね」と声をかけてくれる老人。
釣りの帰りに「アジがたくさん釣れたんだ、持っていきな」と笑顔で差し出してくれた漁師。
夜、島の若い衆が集まり、酒を片手に愚痴をこぼす場に呼ばれ、くだらない冗談を交わしたこと。
小さな島での駐在所勤務は、都会の刑事のような華やかさも、張り詰めた緊張もない。だが、住民と向き合い、名前を呼び合う日常が確かにあった。
言葉を交わせるというだけで、守はそこに居場所を持っていたのだ。
――今はどうだ。
目の前の村人は、必死に何かを訴えている。
けれどその言葉は、意味を結ばず、ただの雑音のように頭に流れ込むだけ。
「……すまない、俺には……わからない」
守はかすれた声でつぶやいた。だが相手はさらに身振り手振りを加えて話し続ける。
焦りや真剣さは伝わってくる。だが、だからこそ余計に恐ろしい。
言葉が通じなければ、こちらの誤解も解けない。
相手の善意も悪意も、見分けることができない。
駐在として、人々と目を合わせて築いてきた信頼の回路が、ここには一切存在しないのだ。
胸の奥に、ずしりと重いものが落ちてきた。
守は知っていた。島での勤務がどれだけ穏やかでも、そこには人と人を結ぶ「言葉」という確かな土台があった。
今は、その基盤が丸ごと消え失せている。
孤独――。
それは島の駐在所で夜を過ごす孤独などとは質が違う。
この世界では、たとえ人に囲まれていても、自分だけが取り残されているのだ。
その横で、モモちゃんが果物をかじりながら無邪気に声をあげる。
「おいしい! これ全部食べていいの? うれしいなあ!」
流暢な日本語が、この場にはあまりに異質だった。
村人たちはぎょっとしてモモちゃんを見つめる。差し出した籠を取り落としそうになり、恐怖の色を浮かべて後ずさった。
「モモ、こわくないよ? ほんとだよ?」
果物を頬張ったままモモちゃんが笑う。だが、村人の表情は硬いままだ。
守はそのやり取りを横目に見ながら、喉の奥が締め付けられるのを感じた。
島民の笑顔と、この村人たちの怯えが、重なり合って頭をよぎる。
「……俺は、どうすればいいんだ……」
絶望に似た吐息が、守の胸から漏れた。