第2部第6章 基盤形成
朝。ほとんど眠った気がしないまま、守は玄関の鍵を二度確かめてから外へ出た。まずは水だ。雨水タンクはある。けど、これがいつまで保つかはわからない。雨が降る保証もない。
「モモちゃん、行くぞ。今日は“水を見つける”」
「みず! のむやつ?」
「そう。……でも見つけても、すぐは飲まない。煮沸してからだ」
守は災害用のポリタンクを後部座席にぎっしり積み込んだ。電気自動車のメーターは十分な残量を示している。パワーゲートを閉め、モモちゃんを助手席に座らせると、時速三十キロほどで慎重に土の道を進んだ。ところどころ獣道のように草が倒れている。曲がり角のたびに窓を開け、耳を澄ます。
「……聞こえるか? 水の音」
「シャラシャラする! こっち!」
モモちゃんの指差す方へ鼻先を向けると、ほどなく樹々の切れ間に銀の筋がのぞいた。車を停め、警棒だけを腰に差して徒歩で近づく。小さな沢だ。石の上を清冽な水が走り、日差しを反射してまぶしい。
「やった……」
喉の奥が鳴る。だが、すぐに手ですくって飲みたい衝動を押しとどめた。ここは異世界。寄生虫も菌も未知だ。守は癖のように胸ポケットのメモ帳へ走り書きする。“飲用前 要煮沸 最低1分以上/沈殿・布濾し可”。
「モモちゃん、石投げはやめ。濁る」
「はーい……ちょっとだけ。えいっ(ぴちゃん)」
「ちょっともダメ」
笑ってしまいそうになるのをこらえ、タンクの口を開けては満たし、また開けては満たす。水を入れたタンクは鉛のように重く、二人で息を合わせて車に積み込むとサスペンションが低く沈んだ。
「帰るぞ。貴重品だ」
「おうちの水、ふえる! おふろ、ちゃぷちゃぷ!」
帰路は行きより慎重だ。カーブごとに減速し、積み荷がずれないようにブレーキを踏む。駐在所に戻ると、まず太陽光と電気の確認。分電盤の表示は正常、パワコンのインジケーターも緑だ。守は冷蔵庫の扉を開け、頬に冷気を受けてから指を差し込む。中はきっちり冷たい。コンセントは生きている。
「電気、問題なしっと……」
浴室へポリタンクを運び込み、蛇口からではなく持ち帰った沢水を“風呂水”としてバスタブに張る。濁りは少ないが念のためガーゼで簡易濾過しながら注ぎ足し、満水の線で止めた。
次は洗濯だ。守はドラム式洗濯機の横で、備え付けの“風呂水用ホース”を取り出す。吸い込み口を浴槽の水に沈め、ホースをしっかり固定。洗濯機のパネルで「風呂水」ボタンを押すと、モーター音とともに浴槽の表面が小さく波立ち、ゴボゴボと洗濯槽に水が吸い上がっていく。
「よし……あとは洗剤――」
言いかけて、棚の前で固まった。あるはずの詰め替え用が、ない。柔軟剤が半分だけ、ぽつんと取り残されている。
「……やっちまったな」
ローリングストック。住民にあれほど啓発しておきながら、自分の足元がこれだ。胸の底がずきりと痛む。けれど、汗と土の衣服を放置するわけにもいかない。
「洗剤はないが……水通しだけでもやろう。次に備える」
自分に言い聞かせ、標準コースを回す。ぐるぐると回る水の音、一定の駆動音。その“いつも通り”が、ここではやけに心を落ち着かせた。ふと窓の外を見ると雲は割れ、青が広がっている。
「乾燥までかける。今日は晴れてる」
洗い終わると続けて乾燥ボタン。ブォン、と温風の音。数時間後、扉を開ければ、ふわりと温かい衣服が吐き出された。洗剤の香りこそないが、乾いた手触りは、それだけで救いだ。
「まもる、ふわふわ! あったかい!」
「ふわふわだ。ありがたいな、電気ってのは」
次に、飲み水の準備。キッチンではIHが静かに赤く光り、電気ケトルと鍋が同時に作動する。布で一度濾した沢水を沸かし、しっかりと沸騰させてから保温ポットへ。湯気の匂いに、わずかに鉄の香りが混ざった。
「飲むのは冷めてから。腹は壊せない」
書棚から救急法の薄い冊子を引っ張り出し、“下痢は命取り”のページにふせんを貼る。自分に言い聞かせるためでもあった。
夕方、残りの水は浴槽に確保し終え、トイレ用・洗濯用・飲用(煮沸済み)にラベルを分けて貼る。台所の引き出しからガムテープを出し、雑だが読める字で「飲」「洗」「雑」と記した。
「基地――最低限の形にはなったか」
「きち、できた! モモのおうち!」
小さな胸を張るモモちゃんに笑いを返しつつ、守は玄関に向き直る。
日が落ちる。夜は、昨日より濃い。
施錠。ガチャリ。サムターンを回して、チェーンもかける。防犯カメラのモニターは四分割で周囲を映し、ソーラーパネルの電力でしっかりと動いている。外灯の光は心もとないが、何もないよりはいい。
「運用ルール、開始だ。三十分ごとに外を確認。異常なしを声で復唱。カメラは常時監視」
「はいっ! モモ、めもする?」
「……してくれるのか」
モモちゃんは真似をして、メモ帳にぐにゃぐにゃの線を引いた。「いじょう、なし」と言ったつもりらしい。
最初の三十分。外へ出て冷たい風を頬に受け、森の縁と草むらの稜線をなめるように目視。耳で風の音を数え、鼻で焦げ臭さが混じらないか確かめる。異常なし。復唱。
二回目。カメラの死角を頭に入れながら玄関先の左右を確認。地面の踏み荒らしは増えていない。異常なし。復唱。
三回目。月とも違う、ぼんやりした光が雲間に滲み、知らない星座が遠く瞬く。影が動いたように見えて心臓が跳ねる。風だった。異常なし。復唱。
椅子に戻ると、背中が鉛のように重く感じた。指先は冷えているのに額には汗。モニターの光が目に刺さる。
「……普段の夜勤明けより、疲れたな」
掠れた独り言が、静かな事務室に落ちた。交番の夜勤は慣れている。だが、見通しのない闇に、何が来るかも分からない世界に、ただ神経だけを削り続けるのは質が違う。
ソファで丸くなっていたモモちゃんが、ぱちりと目を開ける。
「まもる、つかれた?」
「ああ。ちょっとだけ、仮眠をとる。……モモちゃん、いいか」
「うん?」
「何かあれば起こしてくれ。物音でも、光でも、匂いでも。変だと思ったら全部だ」
「わかった! モモ、まもる、すぐおこす!」
小さな見張り役は胸を張り、ソファの背にもたれて耳を立てる。守は苦笑し、椅子の背にもたれたまま、警棒を膝に置いた。
「頼んだ」
最後にチラとモニターを見て、四つの映像に異常がないことをもう一度確認する。風で草が揺れている。森は黙っている。分電盤の小さなランプが、一定のリズムで点滅していた。
瞼が重くなる。鼓動がゆっくりになって、呼吸が深くなる。乾燥機がさっきまで吐き出していた温風の名残が、室内に薄く漂っている気がした。
守の意識は、音もなく落ちていった。
異世界の夜の真ん中で、ソーラーのインバーターの小さなファンの音と、モモちゃんの「まもる……まもる……」という小声だけが、駐在所を守っていた。