第1部第1章 桃色の侵入者
潮の香りが鼻をくすぐる。朝の港町は、海と山と人の気配がほどよく混ざっていて、息を吸うだけで目が覚める。
八丈島のさらに南に浮かぶ小さな島。人口は二百人ばかり、フェリーが寄港するのも一日一便、観光地と呼ぶには寂しすぎるこの島で、たったひとつの駐在所を任されているのが――俺、佐藤守だ。
二十五歳、警視庁勤務。もっとも「警視庁」と言っても肩書きだけで、実際は村人の相談役、喧嘩の仲裁人、そして防災倉庫の管理人、ついでに島の雑用屋でもある。
「……さて、畑の世話でもするか」
朝七時。制服の上着は所内の椅子にかけ、作業着姿に着替える。駐在所の裏庭に出ると、そこには十坪ほどの畑が広がっている。
俺の趣味であり、癒しであり、同時に島民との交流の場でもあった。
トマトの苗は青々と葉を伸ばし、キュウリはもう小さな実をつけている。ナスの紫色の花も風に揺れていて、眺めているだけで気分が良くなる。
「雑草が伸びすぎだな……これじゃ栄養を取られちまう」
鍬を手に取り、土を返しながら雑草を抜いていく。汗が額を伝うが、土の匂いが鼻に広がると不思議と心地よい。
警察学校時代は射撃訓練で「夕陽のガンマン」なんて呼ばれた。要するに下手すぎて全然当たらないってことなんだが――。それに比べれば、畑仕事の方がよっぽど俺に向いている。
「こうして畑耕してる方が性に合ってるんだよなあ」
そんな独り言をつぶやきながら鍬を振っていると――
――ガサガサッ。
不意に畑の奥から、何かが動く音が聞こえた。
猫にしては重い。カラスにしては低い。イノシシか? 島ではたまに山から降りてきて畑を荒らすことがある。
「ったく、せっかく育てたのに……」
鍬を地面に置き、そろりと足音を殺して畝を回り込む。
そして目に飛び込んできたのは――
「……は?」
ピンク色だった。
朝日に照らされ、ふわふわと淡く輝く桃色の羽毛。背丈は俺の胸くらい、形はダチョウに似ているが、首はやや短く、丸い目はビー玉のように透き通っている。
そいつは畑のキュウリを、むしゃむしゃと食べていた。
「なんだコイツ……鳥? いや……鳥なのか?」
つぶやくと、そいつはギョッとしたように振り返った。
口の端からキュウリの葉がはみ出している。
「モッ……モッ!」
奇妙な鳴き声を上げると、慌てて逃げ出そうとした。
「待て! 島の畑荒らしはお前か!」
反射的に俺は飛びかかる。柔道三段の腕が火を噴く瞬間だ――が。
「ぐおっ……つっよ!」
とんでもない脚力だった。蹴り出す力で畝が崩れ、土が跳ね上がる。
腕に絡みついた羽毛は驚くほど柔らかく、それでいて下の筋肉は鋼みたいに硬い。俺は何度も転がされそうになりながら必死に食らいつく。
「こりゃイノシシどころじゃねえ!」
最後は背負い投げの要領で無理やり地面に転がし、腰に下げていた縄でぐるぐると縛り上げた。
「……はあ、はあ……捕まえたぞ!」
息を荒げながら見下ろすと、そいつは怯えたようにこちらを見つめている。
赤い瞳が、まるで人間みたいに感情を映していた。
「お前……何者なんだ?」
「モ……モ?」
「返事すんのかよ!?」
鳴き声はまるで言葉みたいに聞こえ、思わずツッコミを入れてしまう。
だが当然会話が成立するわけもなく、そいつは縄の中でバタバタと暴れるだけだ。
「しゃーねえ、駐在所まで連れて帰るか……」
俺はそのまま桃色の怪鳥を引きずりながら、駐在所へと向かった。
縄でぐるぐる巻きにした桃色の怪鳥を引きずりながら、俺は駐在所の庭に戻ってきた。
裏口から入るとき、近所のばあちゃんに見られてしまったのが運の尽きだった。
「……駐在さん、それは何ね?」
「いや、その……ちょっと畑荒らしを捕まえて……」
「……食えるのか?」
「いやいやいや! すぐ食材にする発想やめろ!」
島の人間は基本的に好奇心旺盛だ。あっという間に人だかりができる。
みんな口をそろえて「見たことねえな」「でけえな」「肉は固そうだ」などと好き勝手言い始める。
縄の中の怪鳥は「モ、モ!」と鳴いて必死にバタバタしていた。
「おい、あんま人を呼ぶなよ。まだ正体不明なんだぞ」
「駐在さん、なんだか人懐っこそうじゃないか」
「いや、畑食ってる時点で俺にはただの害獣だ」
そう言いながらも、どこか憎めない顔をしているのは確かだった。
羽毛はふわふわで子供が抱きついたら喜びそうだし、なにより目が人間じみていて、見ていると「悪いやつじゃないのかも」と錯覚してしまう。
その予感は、すぐに現実のものとなった。
「駐在さーん! なにそれ!」
学校帰りの子供たちが数人、駐在所に駆け込んできた。
縄で転がされている怪鳥を見た途端、目を輝かせる。
「わー! ピンクだ! かわいい!」
「触っていい!? ねえ、触っていい!?」
「うわー、でっけえ! 乗れるかな!?」
「お前ら待て! 勝手に触るな、危ないかもしれないだろ!」
止める間もなく、子供たちは怪鳥の羽毛に群がった。
するとどうだろう、怪鳥はさっきまでの暴れっぷりが嘘のように、大人しくなった。むしろ「クゥ……」と気持ちよさそうな声を漏らしている。
「……お前、子供には弱いのか?」
俺が眉をひそめて呟くと、子供たちのひとりが言った。
「ねえ駐在さん、この子の名前、つけていい?」
「は? いや、名前って……」
「だって、かわいいもん! モモみたいにピンクだし!」
「そうだ! 『モモちゃん』がいい!」
「モモちゃん! モモちゃん!」
あっという間に合唱になった。
怪鳥――いや、モモちゃんは嬉しそうに「モモ! モモ!」と鳴いた。
「……おい、まさか自分の名前だってわかってんのか?」
「モモ! モモ!」
「返事しやがった……」
子供たちは大喜びだ。俺は頭を抱えた。
正体不明の生き物が島に現れて、駐在所の庭で縄に縛られて、勝手に名前をつけられ、当の本人(?)は満更でもない顔をしている。状況としては完全にカオスだ。
「……はあ。もう好きにしろ。ただし駐在所で預かるからな」
そう言うと、子供たちから歓声が上がった。
⸻
数日後。
「モモ、ハタケ!」
「畑はダメだ! お前に荒らされたら俺の食生活が終わるんだよ!」
「ハタケ、オイシイ!」
「聞けや!!」
俺の畑とモモちゃんの食欲の攻防戦は、毎日のように繰り広げられていた。
子供たちはそんな様子を面白がり、放課後になると駐在所に集まってくる。モモちゃんは子供と遊ぶのが大好きらしく、サッカーボールを追いかけたり、鬼ごっこに参加したりと大活躍。
「駐在さん、モモちゃんすごい! ボール蹴るの上手!」
「駐在さんより運動神経いいんじゃない?」
「おいそこ、言い過ぎだろ!」
俺の立場は日々怪しくなる一方だ。
⸻
そんなある日、島の寄合でついに話題になった。
「駐在さん、あのピンクの鳥……」
「うむ、あれは一体なんじゃ? 鶏でも鴨でもないし」
「島の神さまの使いかもしれんぞ」
「いや、ただの害獣だろ」
「害獣にしては人懐っこすぎるしなあ」
年寄り連中がわいわい言い合う中、結論は出なかった。
ただ、最後には全員が俺に視線を向ける。
「……で、駐在さん。結局あれ、どうするんじゃ?」
「……はあ。しょうがねえ、俺が面倒見るしかないだろ。無責任に放り出すわけにもいかないしな」
そう宣言した瞬間、また子供たちから「やったー!」と声が上がった。
そしてモモちゃんも「モモ!」と鳴いて、俺に頭をすり寄せてきた。
「……おい、なんでそんな嬉しそうなんだよ。俺の負担が増えるだけなんだぞ」
「モモ、マモル!」
「……誰がマモルだ、俺は駐在さんだ!」
だがその日から、俺とモモちゃんの奇妙な共同生活が本格的に始まった。