納音
古い小さな書店が地元の駅にある。
バスを待つ間、ふらりと寄った。
ふと書棚の本から「呼ばれる」ことは度々、あった。
そして、呼ばれた本と、目が合うことがある。
〜納音占い〜
占いそのものは、母が昔から、古来の占いに馴染み深い人であった影響がある。
幼い頃から、母の書物から、四柱推命なんかを選び、1、2時間で会得できたものだ。
四柱推命は、計算法や解読が難しくて、母は体得できないでいたらしい。
私は何故か、勉強より身が入りやすく、理解しやすいという点で、占いに馴染み深くなっていった時期でも
あった為、書店のその本と「目が合う」のは、不思議と縁を感じた。
納音占いは、安倍晴明が編み出した占術である。
私と安倍晴明との、最初の出会いであった。
昂じて、高校の京都旅行の自由時間には、迷わず、安倍晴明神社を選び、訪れた。
そこで起こったことが、たった今、手酌の動作を見て、鮮明に蘇る。
神社に行ってすぐ、誤って飲み込んでしまった、清めの水の事を、思い出した。
でも、私はその時、「ちょうず」という言葉を、初めて聞いた。
あれは、そんな発音で言うのか。と感心していると、
「あなたを助けに来ました。」と鏡は微笑んだ。
不思議に思いはしたが、その心を読んだのか、
「私も無関係ではないので。」と、更に微笑む。
「あなたが私の前に現れた、理由を教えて。」
私がそう問うと、彼は、語り始める。
「貴方が私の元にいらしたのは、確か、十七の頃。
その時、私の神社の手水を誤って飲んでしまい、参拝だけはして、戻り橋に差し掛かった。
私はなぜか、貴方を、自然とお呼び止めしていたのです。
本来それは、すべきではないこと。私にも、不可解な出来事ではありました。
しかしながら、貴方は振り向いてしまい、
こちらの世界とその魂が引き合ってしまったのです。
私は自らの過ちの責任から、貴方の玉響を解いては、私が、直していったのです。
私にはその時点でもう既に、魂や運命をいじりすぎていると知ることは容易いほど、糸が絡まりすぎているのが、見えていたので。
今だからこそ、貴方とお話する好機と捉え、お声掛けした次第。
貴方は、私の占術である納音の本を手に取り、読んでいた。
無意識の貴方のお声は、貴方自身の変化を望むものであったため、
其れをお手伝いするに足る私との出会いを、いつしか神はお与えになりました。」
と、晴明は告げた。
言祝ぎの、御霊に位置する 神楽の神よ
天の甘き祝詞降ろしよ
祝賀に悲惨な過去の断罪よ
我また征かんと 泣き叫ぶ子等の御言葉と賜ん
飢えなき悲涙の行方誘わん
それから晴明は、鏡の前に彼女が立つ折々に、親指から中指までの指の腹を、フレミングの法則を上向きにしたような状態で、挨拶の代わりのように、合図をするようになった。
「こんにちは。」と、彼は愛想よく鏡越しに、彼女を通して、微笑んだ。
「さて、昨日の修行の続きですが、平仮名の成り立ちから、貴方にお話ししますね。」
そんな風に、即、授業が始まったりする。
そんな時は、誰とも接触がなく、人通りさえ、廊下に無いのは、不思議な事だった。
「ハネやはらいの向かう先について、成り立つ先を、よく見通す事です・・・」
一体、何のために、こんな細かいことを教えるのか、聞いた事がある。
即座に、晴明は答える。
「言霊の使い方を、学んでいただく為。神格化するために必要です。」と言ってのけた。
一体、何の冗談かと思って、訝しんだ表情になったのを察したのだろう、「貴方が、自然や神々と一体になる機会は、今後、増えていきますよ、その時のためです。」と、付け加えては、神妙な面持ちに
微笑を含めるのだ。それも、どこか懐かしい、とでも言うかのように。
晴明が言うに、私は『神の祝詞降ろし』をするための『依代』の才があるらしかった。
自分では、実感がない。だが、彼がいうには、私の自我が形成されていない、その状態が、神が不純物なしに、
言の葉や神霊を降ろすに足る、素質があるからだ。と話した。
ふと、何気なしに、気になった事をついと尋ねた際の返答に驚いたこともあった。
「親友は誰かいたの?」
彼女自身に、そう呼べる人も記憶の限り居なかったから、ただの関心だと示すと、
「道長です。」そう晴明は答えた。
遥か昔とはいえ、放った人物の名は、晴明が仕えている者の名。
意外すぎて驚きがあったのをよく覚えているし、だが、晴明自身の伝承を知っていれば、自ずと、さりもあらなん、すぐに納得できそうな気もする。
だがしかし、よくもまぁ、逃げ込んだ実家に、こんなに晴明からの授業の教材があるものだと、全ての偶然に、呆れて果てている。
ただちょっと、休憩にタバコを、台所で吹かすくらいの融通は聞いてくれるものの、彼が行おうとする講義の数と質は、密度が多いと言うか、余白が狭く、ぎっしり、としていた。
おかげで、夜も更ける頃は、ぐったりとした体が、いう事を聞かず、どっぷりと寝入った。
テーブルに置いてある、肩までしかない鏡が、仏壇の横にあるのをいいことに、また、例の合図で呼び寄せて、「さあ。始めましょうか。」と始める。
さて、今日は何かと思えば、般若心経の全文が書かれた、見慣れている、亡き祖父の経本を手に、唱える事になった。何かを神降ろしのように、降ろしてしまったらしい。
目がいきなり閉じて、深く、鏡の前でお辞儀を二回した。
(どなたですか?)と、意識の中、聞くと、つと、それは応える。
「舎利子、とでも、お呼びなさい。」と。
それが通称であっても、本名を明かさないところを見ると、逆に恐れ慄きそうなものではある。「貴方は、なんにも屈託なく、受け入れますよね。そこが貴方の怖いところ。」と、晴明の言葉が意識に表れては、邪魔をする。わざと、舎利子の思惑やら思考が辿られるのを、阻んでいるかのようでもあった。さておき、降ろしたはいい。
今度は、何をするのかと、思案していたが、
「居間の神棚の下にある、貴方のおじいさんのアルバムを持ってきなさい。」と、晴明が、口火を
切った。もはや、誰の意識が、語りかけているかは、意識の声の声音で聞き取れるくらいには、慣れてはきた。
が、相変わらず、先の読めない指示は、続く。
神棚の下に、緑色のカバーで覆われた、クリーム色が毛羽立った房でまとめられたアルバムを見つけ、持ってくる。
「では、鏡に向かって、横に並べ写すように、水平に置いてください。」
(アルバムが何か問題なの?)
「9ページ目」晴明の指示は続く。
疑問に思いながらも、9ページを捲って、並んでいる学校行事の写真を見た。
一つだけ、気になるコマがある。
なんだか、煙を巻いているように感じる写真が、気になる。
「そう、何が写っています?逆さまにしてご覧なさい。反時計回りにね。」
内心、ゲッ、と思う。明らかに、人間じゃないものが混じって写っている。
「これはなんでしょうねぇ。」と晴明が訊いてくる。漫画で見知っているくらいの知識しかないが、多分、頭が大きいし・・・
ぬらりひょん・・・?(そうとしか、思えないけど・・・)
「声を出さないのは、正解。では、閉じて。」
「はいっ」勢いよく閉じる!しかし次の指令が難関だった。
「房を持って、そう!引き絞って。いいと言うまで、絶対房を緩めない!」
そう言うと、「鏡の向こうまで、房を引き締めるように!」鏡の頭の向こうまで、腕を強め、房を引き絞る。
「片方の房を口で持って、手の方で、結えて」
体があべこべに感じるくらい、無理な姿勢をした時と、同じくらいの負荷が背筋にかかっている。
これ以上、絞れって、言われても無理!
早くタバコでも吸いたい・・・!
そう思うと同時、すかさず「解くと出ますよ!」
続けて言われるものだから、恐怖が勝ったのか、馬鹿力が出たのか、定かでないものの、晴明が唱え始めた。
「完とす、了とす、締めとする」
伝承が無いであろう、独特の言い回しの後、
全身全霊を込めた体から、やっと、息をつける。
正直、同じ修行が、まだあるなら、遠慮だ。
「舎利子。」と、晴明が私の唇で、一言告げ、右手が少し上になるように、蕾のような手を合わせて、一礼した。
「長老子。」と、舎利子は、私の唇で同じく告げ、一礼を返し、その日を終えた。
最近、帰った実家は、なんだか外々しく、まるで、住んでいた頃の記憶ごと、外に捨てられたかのような居心地の悪さを感じていたが、晴明と「修行」なるものをする時だけ、誰も彼も出払い、戻る気配もないから、集中していられるし、その間だけ、考えを離せた。
いつも暗い事ばかり、考えがちだから、「修行」が終わった途端、誰かが、帰ってきて、現実をぼんやり痛くない程度に、眺めるだけの生活に戻る合間の、ほんの箸休めだとして、私にとっては、大切な時間だった。
あの日、恋人の横に、私が呼んだ、怪しい含みのある言い方で、警察手帳を見せなかった警官が、並んで座った瞬間、私は裸足で、近くの実家に逃げ出した。けれど、きっともう、殺されているだろう、そして、あのタンスの中に、バラバラに入れられているだろう、もう会えないんだ。あの人は、あの日、私を殺そうとした。だから・・・、
同じ目に、遭うに、違い、無い。
苦虫を噛んだみたいな、私の苦悶は、きっと寝ている間に、私をせせら笑っている残光みたいに、瞼の奥に
張り付いていた。
でも、いつもどうして、二通りの現在を生きたかのように、記憶が、枝分かれしている?
彼は、本当に、死んだのだろうか・・・
彼女の恋人は彼女にとって親友ではあったが、今、生きているかさえ、病院の檻の中では、確認しようもなかった。寂しさから晴明への、親友を問うような形に至ったのではないかと、私は診ている。
或いは、彼が親友ならば、頼もしかったのかもしれないが、彼女と晴明は師弟という垣根を超えて、心を通わせているらしかった。とにかく、何でも話していた、と言う点に於いて、信頼以上の距離感が、あるのかも知れなかった。信任の対象が晴明になり、真実しか話さないであろうと理解できた彼女にしてみれば、紛れもなく、彼はそうなのであろう。
それを意図して曲解する感想も聞こえてきそうだが、彼らの中には、恋愛という感情ではない、不思議なシンパシーがあったのかもしれない。まるで、己を第三者として見ているかのような納得。それだけが、彼らの慰めだったとも言える。互いの孤独と孤立が涙のように、心に降り積もるかのような、波紋が広がる感受性を秘めていたように見受けられる。
さて、なぜ僕がこんなことを言うのかといえば、彼女の、死にたがりの生き方に触れた、晴明からの激昂的発言があったからに過ぎない。
時折、彼女が漏らす、死にたさ、鬱とも呼べるが、非常に根深い。問いかけができても、さして、様子は変わらなかった、そして、僕自身が手こずり、晴明が、関わってからと言うもの、彼女自身の価値の置き方が少しずつ変化していったが故、とても助かったのを憶えている。
ある時、彼女は暗い緑色の照明で目が覚めたのだと言う。しかし、それは病室ではなく、(病室は、病室というより、檻に近いコンクリの例の部屋を指すが)、畳張りの床、真珠や喪服が散乱して、そこに倒れていたに近い状況で、目覚めた。
いや、しかし、ここはどこだろう?と、不意にゾッとする感触が、胸を撫でた。だが、その物体、存在は、見えない。ふと実家で療養していた時、鏡に写った、女郎宿の光景と酷似していることに気付き、ここは、紛れもなく、時代や空間、世界そのものが違う場所で目覚めたのだと気付き、また、夢落ちするよう、目蓋を意識的に閉じ、元の世界に戻ろうと、必死になった、と言う。このまま居れば、きっと喰われる、そうであるに、違いない確信だけが焦燥とした。
その後、なんとかして、彼女は元の病室で目が覚めたのだと言う。だが、結局、その時、目覚めた場所は、誰のものであったのか、何の場所であったかは、説明ができそうもない。
異世界といえば、異世界であろうし、夢といえば、それもまた違う。
もう一つの現実の世界。それが、彼女の体験の中で、色濃い、不気味な場所だったそうだ。
ゾッとするような、存在との、生命が危ぶまれるような体験であったらしい。
また、ある時には、家族とテレビを見ている際に、動物の番組で、成犬の群れが映った際、その皮膚が、全て人間の皮膚が群れているようにしか見えず、違和感を覚えたが、家族は、それを見ながら、「かわいいね」などと、食事を取りながら、話している事に、ショックを受けた事もあった。不安な気持ちで、眠っったら、翌朝と思っている日付は、一日多く経過している事が、毎日のようにあって、違和感を覚えていた。
そんな心許ない思いをしながらも、彼女が現在の世界に、納得がいっていない。
自分は異端でしかない。誰からも、歓迎されない体験を築き続け、疲れ果て、死にゆくものを見届けながら、なぜ、ここに存在しているのか。
腑に落ちる事に出会えないまま、やはり、時ばかりが、過ぎた。
隔離病棟に入ったばかりの日々が、常にフラッシュバックする。
飛び降りることのできない窓を眺めながら、恋人を思うとき、今生きているんだろうか、と、訝りながら、憂いながら、彼女は、恋人の死に様だけを瞼の裏で思い出した。
不意に、二つ隣にあるであろう、彼女が深刻に脳裏に刻まれた「実験室」と言う名の、病室から、
「いやあああああっやめてええええっ」切り裂くような叫び声を耳にすると、彼女は窓を叩き、
「やめろっ、何もするな!触るな!」と叫んだ。
だが、悲鳴は消えない。そのこだまを聞くうちに、彼女は、頭を抱え、座り込んだ。