緑のランプ
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流暢な英語の発音の筈なのに、あまりに滑らかに問いかける声は、治せ、許せ、と、そう聞こえるかのように、
囁いてくる。夜になると必ず。
途端、両手の小指が震え始めたのを感じた。
緑のランプが点いた、灰色の天井、暗がりの冷たい空気。
いつしか、重い石壁で覆われた、自由のない空間で、
何かメッセージのように、其れは私の耳を離さずに、捉えているままだ。
ここは、どこだろう。
女性の悲鳴や奇声が何度も聞こえてくる。
母親に連れてこられ、よくわからない内容の用紙に、名前を書けと言われたとき、
自分の名前を書くのが怖かった。
まるで、自分の命の最後通告に、サインする程の緊張を覚えた。結局、母が署名してしまった。
無言で案内された部屋のドアに、
外側から重い鍵の音が閉まるのが聞こえた。
ここは、どこだ。
防弾ガラスが部屋と窓の間に、大きくはめられている。
明らかに、爪痕のような跡が引かれている。
ここは、どこ。
シーツに縫い付けられてるタグの印字には「S E I M E I」という文字、
それから、青い地球のようなマーク。
母親が夜毎、聴いていたYouTubeのスピリチュアル動画。
洗脳のように、自分に繰り返され、嫌悪感を捨てきれずに、母親を突き飛ばした結果、
今、私が、此処に居るのだとしたら・・・・。
気が狂いそうな悲鳴の中、すべてを早巻きして考え出た結論があった。
何かの宗教の、実験室。
それしか、考えが、浮かばなかった。
ドアの小窓に嵌められた、鉄の柵の向こうは、もう一つの重厚なドアがあった。
見たこともない、異様な光景だった。
先の見えない現実感だけが、ひとりを包んだ。
この彼女の眼に映る日常景色は、現ではなく、どこか虚である。
現実を現実と思う事が、痛くて堪らなかった時期があると、人は感覚を鈍らせる事もある。
どこか世界を夢のように眺め、彼女は眼を閉じ、思うように生きられるとしたら、それは、眠っている間に始まる、世界の中だけなのである。
彼女を変わった人間だという周囲の評価は、決して好ましい其れではなく、害鳥を見る目であったにも関わらず、それでも、人間観察をして、周りと協調し生き残ろう、と必死であった。ある時、彼女は、こう思うのである。
「鏡になってしまえばいい」
その後、彼女は、自我をなくした。その上、自分が進むべき方向性に、邪魔な感情の動きや、出力される表情、思考、全てを消すよう努め始めた。自分が不在のままでいると、今度は、自然と気味悪がられ、まるで幽霊のような輪郭が残ったし、気配すら誰も気づかない程だった。更に、自分の横を通り過ぎる人の気配が、まるで自分の中をすり抜けた様に感じるまで、彼女は自分の判断が間違っているとさえ思わず、突き進み、益々、存在を認めてもらえるようにとする努力は、悪目立ちのまま、落ち着かない日々へと落ち着いた。
精神を壊していくのは、日々簡単だった。
普通に見えるけれど、ちょっと変わった発想をするからと、周りから、ご多聞に漏れず、やりたくもないリーダーに、持ち上げられ、まとめたくもない人間模様の取り仕切りをしなきゃならかった。
それができないと、指示待ちの奴等が私の束ね方や、器量の悪さを、メンバーは非難した。
女はすぐにコロニーを作りたがる。辟易していた。
その果ては、自分が女の群れの中にいることにさえ、違和感を抱き始めてくる。
かといって、男に対して友情を感じることもない。
寧ろ、そんな感情や連帯感から、距離を置きたかった。
1人の方が楽だと、ある程度の付き合いしかしない内、年賀状は、誰からも、届かなくなった。
「私の障害が、分かったのは、激動の就職氷河期が圧迫するように、過去かつても、上手に生きられなかった苦痛と、昇華できない、出来損ないみたいな、今の自分の現状に、畳みかけられた結果。
医者に『よく高校まで卒業できましたね』と言われた事が、疑問だったよ。
プレッシャーに文句も言えず、強がった結果、砕けたんだ。という事にした。
けど、気付いたら、初めて自分を過酷な状況から、隔離する居場所を、発見したような、
そんな気持ちになった。
『誰かが私を、罵倒しても、偏見や差別を、法が裁いてくれるかもしれない。』
そして笑えることに、私は本当に隔離された病室へ案内され、
8か月という長い期間をそこで過ごした。
今は明るく言えるかもしれない。
独房のように厳重に檻の窓が小さくついているオレンジの扉以外、色がない。
防弾ガラスのような窓がついていて、そこに爪で強く掻いた跡が大きく伸びている。
普通とは言えない、そんな環境で、私は耐えきったんだから。」
3か月で薬が効いてきた事で、彼女は風呂場へ案内された。
女風呂なのに、なぜだろう、男性看護師が老女の介助をしていた。
彼女が、スポンジを取ろうとすると「洗ってあげるから、触らないように」と止められる。
そして、股間までくると、丁寧に3回も撫ぜてくる。
気色悪い。
当たり前である。
普通、男性看護師が、女性の風呂場で介助することさえ、常軌を逸している。
しばらく、その感触が離れず、鬱々としていったのだった。
給食の時間に並ぶのは、小さな秋刀魚の干物とご飯と味噌汁。それのみ。
独房を出ても、何も内容量は変わらない。
明らかに飢え死にするレベルである。
だが、夜にあろうことか、股間を撫ぜた看護師がお菓子を持ってきた。
「食べたいかい?君だけにあげるよ」
ただでくれるのか。
「ありがとう」と形だけ礼を言って、それを夢中で頬張る。
それでも、その男の欲求は、足りなかったらしい。
「もっと食べたいかい?じゃあ、キスしよう」
その看護師は信じられない言葉を言い、迫ってきたのだった。
お腹が空いて、驚いてばかりもいられない。
悔しかった。だが、従った・・・、
気持ち悪い。
それからその看護師は、病棟が変わるまで、それを繰り返してきた。
動物のように、看護師に、従うしかない。
人間としての個人としての尊厳が失われていく瞬間だった。
いつ終わる。こんな生活をしたかった訳じゃない。
自分の生き方のせいか。
あるいは自分を劣悪な環境へと追いやった過去の人間の嘲笑のせいか。恨む暇などない。
どうにか抜け出したい。それだけを眺め、考え始める、ある種の生命維持。
彼女は、限界に達す。だが、その裏付けをするかのような過去が押し寄せる。