第七話 暗殺少女にアイアンクロー!
「父上!」
国王の寝室に駆けこんできた王太子が、悲痛な声で叫ぶ。
叫びの先には、寝台に力なく横たわる国王がいた。
王太子の目が、信じられない物見る様に大きく見開かれる。
国王には王太子の声など届いてはいない様で、その目を開く事は無い。
国王のその顔は安らかで、悲痛な表情を浮かべる王太子とは対称的だった。
「国王陛下は……、視察の最中、暗殺者に襲撃され……、首に剣による攻撃を受けました」
重苦しい声で、国王の側近が、王太子に報告を始める。
国王の側近は怒りを抑える様に所々言葉を詰まらせていた。
「私も手を尽くしましたが……」
聖女も悔し気な声音で言葉を詰まらせる。
「そんな……! 父上! 返事をしてください!」
王太子が、寝台の国王に縋りつく。
その場に居合わせた者全員が、痛ましいものから目を背けるかの様に目を伏せた。
「私の癒しの力でも、これが限界でした……」
聖女の言葉は、絞り出す様な声だった。
それでも、聖女は顔を上げ、ハッキリとした声で続ける。
「……全治、三日です」
ちょっと待ってほしい。それは割と軽傷だ。
下手したら唾をつけておけば治るレベルの怪我である。
国王の寝室に集まって、皆で悲痛な雰囲気を出す様な事態ではない。
後、首を剣で斬り付けられて、何故全治三日で済んでいるのかが分からない。
「陛下は……、聖女様の診断を聞くなり『休暇だ! ヒャッホイッ!』と叫んで、蒸留酒を一気飲みして眠りにつかれました」
シンプルにサボりである。
酒を飲んで寝たあたり、そうしないと仕事をさせられると思ったに違いない。
極めて底の浅い知能犯である。
そんなろくでなし国王に王太子が叫ぶ。
「父上の仕事が私の所に回って来ているんです! 目を覚まして仕事をしてください!」
王太子……。この男もこの男で、暗殺者に襲撃された父親に即日仕事をさせようとするあたり、とんでもない男である。
大事をとって、一日くらい休ませてやれ。
「ラリアットの名手である母上の攻撃を受け続けて首が無駄に鍛え上げられているのは知っているんですよ! どうせ、痣ができた程度でしょう!」
どんな首だ。
それが本当だとしたら、下手な鎧を着込むより防御力が高い事になる。
「犯行に使われた剣は、酷い刃毀れと歪みで使い物にならなくなっていました。……鍛冶師に言わせると、『岩でも斬り付けたのか?』だそうです」
その情報は必要なのだろうか?
この情報から分かる事は、国王の首は岩以上の強度という事だけである。
絶対に必要のない情報である。
「……おのれ暗殺者め! よくも父上を!」
唐突に王太子が吠える。
今更というか、とってつけた感のすごい発言だった。
「よくも余計な仕事を増やしてくれたな!」
それが本音か。
清々しいまでに自分本位な男である。
王太子という立場なら、国王が暗殺されかかった事に憤れ。自分の仕事を増やされた事にキレるんじゃない。
「こうなったら、何が何でも暗殺者を捕まえるぞ! 捜査本部は設置されているな⁉」
「ハッ。既に捜査本部と対策本部が設置されています」
「……対策本部?」
「はい。ブチギレ王妃殿下対策本部です」
「ッ! 母上がブチギレモードに突入したのか⁉」
「国王陛下が暗殺者に襲撃された事にお怒りだった上に、当の国王陛下が酒をかっ喰らって寝た事で怒りが頂点に達した様です」
「くっ……、父上は何をやっているのだ!」
まったくである。
一国の主が暗殺されかかったと言うのに、当の国王本人が何の指示も出さずに酒を飲んで寝たのである。
妻である王妃も心配よりも怒りが勝って仕方がない。
「起きろっ! このボケ親父‼」
王太子が、乱暴に国王の胸倉を掴み上げて叫ぶ。
言葉が乱れているが、この場合、仕方がないだろう。
「母上がブチギレモードに突入した以上、とっとと謝り倒さないと本気で殺されるぞ‼」
息子にここまで言わせるとは、王妃も王妃でかなりヤバい奴である事が確実である。
対策本部が設置された時点で気づくべきだった。
「……代わりに謝っておいてくれ」
顔中に冷や汗を浮かべた国王が、呟くように言葉を発した。
だが、目を開ける事は無く、ワザとらしくイビキなどかき始める。
「狸寝入りか! とっとと起きろっ!」
王太子が両手で国王の胸倉を掴み、全力で揺さぶるが、国王の目が開かれる事は無い。
意地になった駄目な大人の姿がそこにはあった。
「王太子殿下! 落ち着いてください! こんなのでも一応国王です!」
国王の側近が必死になって王太子を止めに入る。
だが、どさくさに紛れて、とんでもなく無礼な発言をぶちかましていた。
流石に国王をつかまえて、『こんなの』呼ばわりはどうかと思う。
王太子の側近も王太子に対して無礼だが、国王の側近もかなりのものである。
「母上の怒りがこちらに向かえば、タダでは済まないんだぞ!」
この男は自分の母親をなんだと思っているのか。
「半分は陛下の蒔いた種です! そこは陛下に押し付け……、任せましょう!」
国王の側近が、ハッキリと国王に押し付ける旨を口走ったが、誰も気にしていない。
流石にそれはどうかと思う。
そして、そのまま王太子と国王の側近が押し問答を始める。
そんな不毛な押し問答を止めたのは、部屋にいた者ではなく、ノックも無しに部屋に転がり込んできた一人の男だった。
何事かと皆が視線を向ければ、男は相当焦っていた様で、息を切らせ、疲労困憊な有様だった。
それでも男は力を振り絞る様にして叫ぶ。
「ご報告! 王妃殿下! 勢力を強めつつ、この部屋に向かっておいでです‼」
……この国の王妃は災害か何かなのだろうか?
報告の内容が、殆ど台風情報である。
「ッ! 総員退避! 父上を残して、至急この部屋から退避せよ!」
切迫した声音で王太子が叫ぶ。
王太子の退避命令に従い、部屋にいた全ての者が駆け足で部屋から退出していく。
なお、満場一致で国王は見捨てる様である。
「ぐっ! 父上! 離してください!」
王太子が叫ぶ。
よく見れば、国王が王太子の服の裾を掴んでいた。
どうやら国王は道連れに王太子を選んだ様だ。大した往生際の悪さである。
国王を引き剝がそうと王太子が足掻くが、国王は凄まじい握力で掴んだ裾を離さない。
「殿下! 急いでください!」
部屋の外から、国王の側近が王太子に声をかける。
その声は切迫しており、もう時間が残されていない事が伝わってくる。
「やむを得ん。かくなる上は……」
そう呟くと、王太子は裾を掴まれている上着を素早く脱ぎ棄て、床に転がり、伸びてきた国王の手を躱して見せる。
「お早く!」
「今行く!」
転がる様にして、王太子が国王の寝室から脱出する。
王太子が後ろを振り返れば、恨めし気に国王が王太子を見つめていた。
「あら? こんな所で何をしているの?」
突如かけられた言葉に、王太子が戦慄する。
声のした方を向けば、国王の寝室に王妃が向かってくる姿があった。
「こ、これは母上」
若干、言葉に詰まりながらも王太子が笑顔を作って言葉を返す。
王太子のその顔には冷や汗が流れていた。
「ちょうど父上の見舞いが済みましたので、捜査本部に向かうところです」
「まあ、そうだったの」
「はい。今後の方針が決まり次第、連絡しますので、母上も十分お気を付けください」
「ええ。……ところで陛下は?」
「ち、父上は、幸い軽傷で、今は眠っておられます」
「それは良かったわ。私もお見舞いさせてもらうわね」
「はい。……それでは、私共はこれで失礼します」
「ええ。貴方も気を付けてね」
会話が終わるなり、王太子は、国王の側近共々、足早にその場から離れる。
「急いでください!」
「分かっている! 絶対に振り返るなよ!」
小声で会話しながら、駆け足にならないギリギリの速度で、二人は歩き続ける。
そうこうして、どうにか安全と思える所まで二人が辿り着く。
そして、二人が安堵の息を吐いた瞬間だった。
遥か背後……、国王の寝室あたりで野太い悲鳴が響き渡った。
「父上が本格的に母上に殺される前に暗殺者を捕まえたいと考えている」
学園の一室で、王太子が集まった者達に宣言する。
どうやら、国王は生きてはいるらしい。そして、命の危機が終わってはいない様だった。
ちなみに、集まっているのは、王太子、公爵令嬢、聖女、そして特待生の四人だ。
「暗殺者は、国外の者の可能性が高く、おそらくは敵対国が我が国を混乱させる目的で送り込んだ刺客だ」
王太子は、そこまで言うと、一度言葉を切り、皆を見渡して見せる。
公爵令嬢と聖女の二人は王太子の話を真剣に聞いているのが分かる。
だが、何故かこの場に呼ばれた特待生だけは困惑した表情を浮かべていた。
「父上の警備が強化された今、王太子である私、その婚約者である公爵令嬢、そして、聖女の三人が狙われる可能性が高い」
確かに、その三人は国の要人である。
この国を混乱させる事が目的であれば、国王を暗殺する事が困難となった以上、狙われる可能性が高いと言えるだろう。
「母上は、城からの外出を当面控える事にしたらしい。また、他の王族もそれぞれに警備を強化するなどの対応をとっている」
「殿下はどうなされるのですか?」
「私は、表面上いつも通りだ。……影から護衛にあたっている者は増員したがね」
「それでは……?」
「ああ。私を囮にして暗殺者を発見する事にした」
王太子の言葉に、その場に居合わせた者が息を飲む。
王太子を囮にするなど本来ならあり得ない選択だ。
「公爵令嬢と聖女の二人は護衛を増員する事になっているので、そのつもりで頼む。……何か質問はあるか?」
王太子の言葉に、特待生が困惑した表情のまま、おずおずと手を上げる。
「特待生か。何か質問があるのか?」
「あの……、なんで私が呼ばれたんですか?」
もっともな質問である。
どう考えてもこの場に呼ばれる立場の人間ではない。彼女は一般人である。
「それは、君が暗殺拳の使い手だからだ」
「そんな理由で呼ばれたんですか⁉」
「専門家の意見もあった方が良いと思ったんだが?」
「専門家って⁉ 家の暗殺拳は道場暗殺拳ですよ!」
なんだ道場暗殺拳って。
それが彼女の中でどういう分類なのか知りたいところである。
「家の流派が暗殺経験無いの知ってますよね⁉」
「知っている」
なら、何故呼んだのか。
どう考えても役に立つ人材では無いと思う。
「暗殺者視点の意見を期待されても、私、何もできませんよ⁉」
でしょうね。
特待生は、暗殺拳の使い手というより、中二拳法の使い手というイメージの方が強い。
そんな人間に、本物の暗殺者の思考を読めというのが無理な話である。
「家の流派、『標的は正面からぶん殴れ!』が基本ですよ!」
本当に、何故暗殺拳を名乗っているのか。
とっとと、暗殺拳の看板を下ろすべきである。
「いないよりはマシかと思ってな……」
「そんな軽いノリで巻き込まないでくださいよ! 絶対、一般人が聞いちゃいけない情報ありましたよね⁉」
「黙っていてくれ」
「最初から聞かせないでください‼」
特待生が、至極もっともな事を叫ぶ。
黙っていてほしいと思うなら、大した理由もなく呼び出すなという話である。
「まあ良い。他に質問はあるか?」
いや、決して良くは無い。
王太子の軽いノリで、国王暗殺未遂事件に一般人が巻き込まれたのである。
せめて謝罪しろ。
「暗殺者が国外の者であるという根拠は何でしょうか?」
公爵令嬢が質問をする。
確かに、実は国内の者による犯行だった、などと言う場合、捜査の前提が崩れる事になる。
根拠が気になるのも当然だろう。
「それは、暗殺者が父上の首を狙ったからだ。……母上のラリアットを喰らい続けて、父上の首が無駄に丈夫なのは我が国の国民なら皆知っている事だ」
「なるほど。それを知らないとしたら国外の者の可能性が高い訳ですね」
そんな訳の分からない理屈に納得するな。
剣による一撃を弾き返すほど首が丈夫などと考える方がおかしい。
「それと、あの父上の首に傷を負わせた事を考えると暗殺者は相当に腕が立つと考えられる」
ふと、思い出した様に王太子が補足する。
そんな事で、暗殺者の力量を計るのは、判断基準としてどうかと思う。
「あっ。いえ、国王陛下は無傷でしたよ」
王太子に訂正の言葉を返したのは聖女だった。
だが、全治三日の診断をしたのは聖女のはずである。
「実際、治療の必要はなかったんですが、一応診断と治療を行い、様子見という事で全治三日という事にしただけです」
「そうだったのか」
「ええ。三日経って、特に異常が現れなければ、問題はないだろうと言う判断です」
「……その事を父上は?」
「もちろん知っています」
寝室での出来事が、国王の完全なるサボりであった事が確定した瞬間である。
そして、国王の首が、剣に一方的に勝利した事が判明した瞬間でもあった。
部屋を沈黙が支配する。
王太子は、言いたい事はあるが、言葉が見つからない様な、微妙な顔をしている。
そんな、何とも言えない空気の中、控えめなノック音が響いた。
「王太子殿下」
ドアが開き、王太子の側近が顔を覗かせる。
「どうした?」
「至急、殿下の耳に入れたい事があると、見知らぬ令嬢が訪ねてきています」
王太子の側近の言葉に、部屋にいた者達が顔を見合わせる。
あまりにも怪しい話である。
普通であれば面会を断るのが正しい対応だろう。
「……通せ」
僅かに悩んだ後、手で他の三人に下がる様に指示を出しながら、王太子が面会の許可を与える。
そして、入室して来た令嬢は、これといった特徴の無い、どこにでも良そうな少女だった。
その特徴の無さが、今は不気味だった。
あまりにも特徴が無さ過ぎる。あえて、そう作られたかの様な不自然さがあった。
「私の耳に入れたい事とは何かな?」
「はい。実は……」
言いながら令嬢がゆっくりと王太子に歩み寄る。
そして、令嬢が王太子の目前まで来た時だった。
「ッ! 止まれ!」
特待生が叫ぶ。
その叫びと同時に、令嬢が袖に隠していたナイフで王太子を斬りかかる。
「白虎二式!」
特待生が爆発音にも似た音を響かせて床を蹴り、令嬢目掛けて一気に距離を詰める。
特待生の拳が令嬢の身体を吹き飛ばし、令嬢のナイフは王太子の顔を僅かに切り裂くだけに終わった。
まあ、王太子の事である。ナイフが直撃していても大した事にはならなかったであろう事は確実である。
「……なんちゃって暗殺拳の使い手のわりには反応が早いですね」
令嬢……、いや、暗殺者が態勢を整えながら不敵に笑って見せる。
「誰がなんちゃって暗殺拳だ!」
問題はそこではない。
それと、お前の格闘術は立派になんちゃって暗殺拳である。
「……それで、私の耳に入れたい事とは何なのだ?」
斬り付けられた事に気づいていないとでも言うかの様に、王太子が問う。
頬を軽く切られているのである。気づいていないはずはない。
「殿下……、この令嬢が暗殺者ですよ。今、ナイフで斬り付けられたでしょう?」
呆れたように聖女が説明する。
だが、当の王太子は、何故か驚いた様な顔をしている。
「いや、なんだ。最近の令嬢はとうとう武器を持ちだすようになったのかと……」
令嬢格闘技だけでもギリギリなのに、刃物まで持ち出されてたまるか。
公爵令嬢との普段のやり取りが異常すぎて、感覚がおかしくなったに違いない。
「……まあ良い。暗殺者の方から来てくれたのだ! 概ね計画通りだ!」
誤魔化す様に王太子が叫ぶ。
これが計画通りなのだとしたら、行き当たりばったりにも程がある。
命がかかっているのだから、もう少し計画的に物事を進めてほしいものである。
「フフフフフフ……」
突如、暗殺者が不気味に笑いだす。
何事かと、皆が視線を向ければ、見せつける様にナイフを手の中で弄んで見せた。
「このナイフには、猛毒が塗ってある」
皆が、ナイフに注目すれば、確かに、黒く濁った何かの液体が塗られているのが見て取れる。
「象ですら即死させる猛毒だ! 人間など、掠っただけで即座に死に至る!」
暗殺者の言葉に、一斉に視線が王太子に集中する。
ピンピンしていた。
誰が? と聞かれれば王太子という他ない。
もちろん死んでなどいない。
毒を受けてなお、王太子は平然としていた。
「……殿下。大丈夫なんですか?」
「何がだ?」
「いや、顔を切られてますよ」
「もう治った」
王太子の側近の質問に王太子が簡潔に答える。
いくら何でも治るのが早すぎる。本格的に人間なのかすら怪しくなってきた。
後、毒はどうした。
「……毒は?」
「さあ?」
さあ? ではない。
人間が無事でいられる毒ではなかったはずである。
「馬鹿な⁉」
暗殺者が叫ぶ。
本当に馬鹿な話である。
事前に対策されていたとかならまだしも、何故毒が効いていないのか本人すら理解していないのである。
納得できる話ではない。
「そういえば、我が国の王族は毒が効き難いと聞いた事があったような……」
王太子が何かを思い出そうとするかの様に呟く。
だが、毒が効き難いからといって、象が即死する様な毒が効かないのは承服しかねる。
「ま、まあ、効かないのなら好都合だ! 暗殺者を取り押さえるぞ!」
誤魔化す様に王太子がそう言うと、黙っていた公爵令嬢が前に進み出る。
「私にお任せください」
静かな声で公爵令嬢が言う。
その顔には表情は無く、精巧に作られた人形の様だった。
「いや、相手は毒を使う。君に闘わせる訳にはいかない」
王太子が、公爵令嬢を庇う様に前に出る。
だが、公爵令嬢は引き下がらなかった。
「私、怒っているのですよ」
凍える様な冷たい声だった。
皆の視線が公爵令嬢に向く。
やはり、公爵令嬢に表情は無く、それが、怒りの深さを物語っているようだった。
「国王陛下の命を狙い。今また王太子殿下を殺害しようとしました」
淡々と語る公爵令嬢の声に、王太子が顔色を失う。
「ブチギレモード……!」
王太子が戦慄した様に呟く。
この国の上流階級の女性には、その良く分からないモードが標準搭載でもされているのか。
王妃に続いて、本日二人目のブチギレモード突入である。
「私自ら制裁を与えなければ気が済みません」
「あら? 公爵家のお嬢様が、私に何ができるというの?」
公爵令嬢の言葉に、暗殺者が嘲る様な口調で返す。
挑発が見え見えだが、王太子に何故か毒が効かない以上、無理にでも公爵令嬢を仕留めたいのだろう。
余裕あり気な言葉とは裏腹に、暗殺者の瞳には焦りの色が見えた。
そして、その焦りは致命的な隙を生んだ。
「はい。失礼」
気配を殺し、いつの間にか暗殺者の背後に回っていた特待生が、暗殺者のナイフを叩き落す。
乾いた音を響かせながらナイフが床を跳ね、綺麗に王太子の足の甲に突き刺さった。
「…………」
「…………」
無言の空間が生まれた。
特待生は満面に冷や汗を流し、必死に視線を逸らしている。
王太子の側近は笑いを堪えるかの様に肩を震わせていた。
聖女は呆れた表情だ。
「何か言う事は?」
「……すみませんでした」
「……暗殺者からよりも大きなダメージを受けた気がするが、まあ、良いだろう」
いや、良くはない。
軽く流し過ぎである。
ワザとでない事は分かっているが、普通ならば打ち首ものである。
「……さて、武器を失いましたね?」
公爵令嬢が暗殺者に話しかける。
公爵令嬢の言葉に、暗殺者は鋭く舌打ちをしつつ、ナイフを隠していたのとは逆の袖に手を伸ばす。
そして、感情を隠しきれず、驚愕の表情を浮かべた。
「探し物はこれですか?」
特待生が、小型のナイフと毒針らしき物数本を暗殺者に見せつける。
「馬鹿にされましたが、私は暗殺拳の使い手ですよ? どこに武器を隠し持っているかくらい見破れます」
暗殺者が特待生に驚愕の表情を向ける。
確かに驚きである。
なんちゃって暗殺拳の使い手が、真っ当に暗殺拳の使い手らしい事をしているのである。
「やはり、彼女を呼んだ私の目に狂いはなかった! 意外と役に立っているぞ!」
王太子が、自分の手柄の様にはしゃいだ声を上げる。
特待生が活躍したからと言って、お前が一般人を巻き込んだ事に変わりはない。反省しろ。
後、自分の判断が正しいと思っていたなら『意外と』という言葉は使わないはずである。
「さて、お仕置きの時間ですよ」
そう言って微笑んだ公爵令嬢の声は絶対零度を思わせる様な冷たさだった。
「……貴族の令嬢ごときに何ができる!」
忌々し気に吐き捨て、暗殺者が公爵令嬢目掛けて距離を詰める。
すぐ傍にいた特待生ならば、それを止める事もできただろう。だが、特待生はあえて止める事はせず、呆れた様な目で暗殺者を見送った。
暗殺者の手刀が公爵令嬢目掛けて振るわれた瞬間、暗殺者の身体が残像を残して吹き飛ばされる。
天井に打ち付けられ、落下し、床に強かに叩きつけられた暗殺者が立ち上がる事も出来ずのた打ち回る。
見る者が見れば、何が起きたのか分かっただろう。
暗殺者の手刀よりも遥かに素早い動作で、公爵令嬢が暗殺者の顎を蹴り上げたのである。
「……見えた!」
王太子が、顔を赤く染め、喜色を隠し切れない声音で呟く。
お前は、公爵令嬢の蹴り技の最中に何を見ていたのだ。
……いや、分かっている。
どうせ、公爵令嬢のスカートの中を凝視していたのであろう。
最低な男である。
「お仕置きはこれからですよ」
表情だけ見れば可憐な微笑みで、恐ろしい事を公爵令嬢が宣言する。
そして、のた打ち回る暗殺者に歩み寄り、その顔を掴む。
暗殺者の絶叫が響き渡った。
暗殺者は、必死になって公爵令嬢の手を振り払おうとするが、まるで貼り付いたかの様に公爵令嬢の手は微動だにしない。
公爵令嬢のカトラリーよりも重い物など持った事など無さそうな手が、暗殺者の顔面を締め上げていた。
そう、つまりは……、
公爵令嬢、全力のアイアンクローである。
その威力は、暗殺者の頭を握り潰さんばかりだった。
頭蓋が軋む音が聞こえてきそうなほどである。
「流石は我が婚約者。素晴らしい握力だ」
王太子が感心した様に言う。
この男、どこに着目しているのか。
しかし、それ以外に着目する点が無いのも事実ではある。
「……ほんの一トン程ですの」
何がだ? とは聞かない。
どうせ握力の話である。
「素晴らしい! 平均的ゴリラの二倍以上ではないか!」
それは誉め言葉なのか?
令嬢を褒めるのにゴリラを引き合いに出すのが正解なのだとしたら、この国の基準は大分個性的である。
「……取り調べがあるので、適度に加減してくださいね」
割とどうでも良さそうに王太子の側近が注意する。
「潰さない様に気を付けますわ」
公爵令嬢の返事は、まるで卵でも持っているかの様な口調だった。
言葉通り人の命を自分の手で握っているとは思えない様な気楽さである。
「人をやったから、すぐに捜査本部の者がくる。そうしたら引き渡そう」
王太子の言葉に、公爵令嬢が、僅かに拗ねた様な表情を浮かべる。
「……もう少し、こうしていたいですわ」
「……仕方がないな。もう少しだけだぞ」
公爵令嬢の言葉に、王太子は少し困った様な微笑みを浮かべ、許可を与える。
会話の内容だけならば、別れを惜しむ恋人同士の会話の様だが、実際は暗殺者への制裁の続行に関しての会話である。
甘い雰囲気など醸し出しているが、暗殺者の悲鳴の中での会話である。
流石にどうかと思う。
暗殺者の絶叫が響き渡る中、王太子と公爵令嬢は器用にイチャつき始める。
痛みに苦しむ暗殺者、イチャつく王太子と公爵令嬢、雑談を始める聖女と王太子の側近、そして、押収した凶器を机に並べる特待生。
場が混沌としていた。
そんな混沌とした時間は、捜査本部の人間に暗殺者を引き渡すまでの割と長い時間続く事になったのだった。
なお、王妃のブチギレモードは解消されたが、国王は全治二週間の怪我を負っていた。
泊まりで出かけていたので投稿が遅くなりました。