第8章: 「ママとパパ」
第8章: 「ママとパパ」
巨大な何かの顔が自分の顔に近づいていた。その笑顔は広く、そして長かった。
なんで俺、こんなに小さくなってるんだ!?
心の中でそう問いかけると、彼の胸中には不安と恐怖が渦巻いていた。
どこにいるのか、何が起こっているのか――それを全く理解できなかった。目の前にいるその存在は、とてつもなく巨大だった。全体像を見ることはできなかったが、頭の大きさだけでもその異質さが伝わってきた。
「ヴァロン・サインリア、ナイ・ヴァロス。」
「イルンレト・タリアル、カイ・ウルヴァリオン。」
また聞こえてきた、あの奇妙な言葉たち。意味は全くわからないが、それが未知の言語であることは確かだった。
その巨大な顔が、ようやく少し離れた。すると、周囲の様子が少しだけ見えるようになった。目の前に広がっているのは部屋のようだったが、普通の部屋とは言い難い。そこには見慣れないものがたくさんあった。
突然、彼の体がゆっくりと別の場所へと動かされた。そして、新たに目の前に現れたのは別の人物だった。
先ほど顔を近づけてきたのは明らかに男性だった。少なくともそう思える。だが、今度は違った。目の前にいるのは女性――しかも信じられないほど美しい女性だった。その顔もまた巨大だったが、圧倒的なまでに眩しく、目を奪われた。
その顔立ちは人間とは異なり、少なくとも完全に人間とは言えなかった。完璧すぎる、美しすぎる、そしてどこかこの世のものではないような、そんな存在感だった。
気がつけば、彼は両腕をその顔に向けて伸ばしていた。何故だかわからないが、彼女に強く惹かれていた。暖かく、穏やかで、言葉では説明しきれない感覚が彼の中に広がった。内側から溢れるような平和と調和の感覚――これまで感じたことのない純粋さだった。
その感覚がたまらなく心地よかった。
だが、彼がその気持ちに身を委ねようとした瞬間、ある気づきが彼を激しく揺さぶった。
突然、彼は彼女の顔に触れようとする手を止め、小さな両手を自分の目の前にかざした。
じっと見つめると、自分の手の小ささに愕然とした。
なんで俺の腕と手、こんなに小さいんだ?…いや、赤ん坊の手みたいじゃないか?
彼は一瞬考えるのをやめ、目の前の状況を整理し始めた。
ああ、なんとなくわかってきた…
これは、俺の腕が赤ん坊のように小さいんじゃなくて、俺自身が赤ん坊なんだ。たぶんだけど。
でも…おかしいな。何がなんだかわからない。でも、少なくとも今の自分が誰なのかはわかった気がする。
そんなことを考えている間に、その女性は彼をそっと抱き上げた。そして、彼女の頬に優しく擦り付けるように抱きしめた。その仕草は、愛情に満ちていた。
それから、彼女は再び彼を腕の中に抱きしめ、優しくその頬を撫でた。
これが今起こっていることだと思う…
結論を急ぐべきじゃないと分かっているけど、恐らく転生したんだ。それ以外の説明はつかない。
…
はあ、良かった。死んでなかった。まだ生きている。
心の中で長いため息をつく。
生きている。それが嬉しかった。
あの深い闇の中ですべてが終わったと思ったが、今こうして自分は新しい体と記憶を持って再びここにいる。
だが、今の最大の疑問は――
「ここはどこなんだ?」
今のところ、その答えを見つける術はないな…。
分からないことだらけの状況だったが、ただ一つだけ確信が持てた。目の前で見知らぬ言語を話し続ける二人の人物――彼らは間違いなく自分の両親だということだ。
周りを見渡しても、今の自分の環境にはその二人以外誰もいなかった。そして、その女性の腕の中に抱かれている自分が感じたもの――それは紛れもなく母の愛だった。
前世ではこんな感情を味わったことは一度もなかったが、それでもこれが母性愛だと確信できた。
二人は奇妙な言葉で会話を続けながら、時折こちらを見て微笑んでいた。自分は母の腕の中から、限られた視界で見えるものをできる限り観察し、頭の中で分析を始めた。
ここはどうやら「部屋」だ。しかし、普通の部屋とは少し違う。
見た限り、この場所は木でできていて、全体的に埃っぽく、所々焼け焦げた跡まで見える。
ここで子供を産むのは適切じゃないだろう。少なくとも、俺なら病院で産む。
そう考えたが、両親の事情を知らない今、それ以上の推測をするのは失礼だと思い、考えを切り替えることにした。
さらに視線を巡らせると、あるものが目に留まった。それは驚くべきものではなかったが、少なくとも自分にとっては注目に値するものだった。
――両親の服装だ。
それはあまりにも特徴的だった。派手でも豪華でもなく、その正反対だったからだ。
これを「服」と呼んでいいのか、少し迷うな…。
二人は全身を長い布切れで覆い、その布には無数の穴や裂け目があった。これが現在の状況や環境について明確な答えを示すものではなかったが、少なくとも彼らがどのような生活を送っているのか、その片鱗を感じ取ることはできた。
前世では裕福な家に生まれたけれど、両親から愛も関心も与えられなかったんだ… 彼はそう思った。
でも、この新しい人生では、どうやら違うようだ。いや、絶対に違うものにしてみせる!
これまで見た限りでは、この世界の両親は自分を大切にしてくれているようだった。それだけで十分だった。
家族の状況を知ったところで、悲しみも憐れみも感じなかった。ただ、両親が幸せそうな笑顔で自分を見つめてくれる。それだけで満たされる気がした。
そんな中、突然、母親のある特徴が彼の目を引いた。思わず困惑してしまう。
彼女の美しいピンク色の瞳に気づいたのは何度も顔を見ていたのに、実は今が初めてだった。そして、それ以上に驚いたのは彼女の「耳」だった。
「え? あの耳、明らかに人間じゃないよな…」
少なくとも、俺のいた世界には、あんな耳を持った人間はいなかったはずだ… そう考えながら、奇妙な感覚が胸を支配する。
俺の世界か…。本当にここが俺の世界なのか疑わしくなってきたな…
そう呟きつつ、彼は自分の考えを脇に置き、改めて観察を続けた。
母の耳は、長すぎず短すぎず、人間の耳とエルフの耳の中間といったところだった。
そういえば、俺も同じ耳をしているのかもな。だって、俺はこの人の子どもだもんな。
そんな思いを抱きながら、小さな腕を伸ばし、母親の耳を指さした。
母親はその仕草を見て、優しく微笑んだ。どうやら彼の望みを完全に理解したようだった。
彼女はそっと顔を近づけ、片方の耳を赤ん坊の目の前に差し出した。
その瞬間、彼は興奮しながら手を伸ばし、母親の耳に触れた。その感触は驚くほど柔らかく、彼の心にこう訴えかけた。
なんて素敵なんだ…!
冷たいけれど、それがまたたまらない。何度も触れたくなる!触るのをやめられない! と、彼は心の中で叫んだ。
これ、クセになるかもしれない…。
そんな彼を見守る母親の目は、「満足」とでも言いたげだった。そして数秒後、もう一度魅力的な表情を浮かべながら、彼から少し顔を離した。
すると、赤ん坊の彼は驚いたような顔をし、不満げに母親を見上げた。まだ触っていたかったのだ。
だが、その瞬間、予想外の出来事が彼を驚愕させた――。
暗く細長い物体が、矢じりのような先端を持ち、彼の顔に何度も触れていた。
彼の母親は、低い姿勢からゆっくりと体を起こした。その動きに合わせて、その黒く鋭い形をした物体も、ゆっくりと左右に揺れていた。
最初から分かっていた。この状況の意図を。
母さんは僕と遊びたくて、その物体を目の前に差し出しているんだ。僕がそれを掴もうとするのを待っているんだな。
それにしても、あの黒いものは一体何なのだろう?
どうして自分で動いているみたいに見えるんだろう?
彼は心の中でそんな疑問を抱いていた。
ついにその物体を掴むことができると、彼は少しの間、それを手で弄んでいた。その不思議な物体は柔らかく、まるで肉のような感触を持っていた。不思議と惹きつけられながらも、彼はそれがどのように機能しているのかを理解しようと、分析しているようだった。
しかし、それもほんの数秒の出来事だった。
気づけば彼は、すっかり眠りに落ちていた。
彼の小さな体は、母親の腕の中で穏やかに休んでいた。母親は優しく彼を抱きしめ、愛情深く見守り続けていた。そして、彼は静かに疲れに身を委ねた。
-つづく-