第十四章:「そばにいて!」
数分前…
転生した赤ん坊、エゼキエルは恐怖に震えていた。あのトラックに轢かれた時でさえ、こんなに怖いとは思わなかった。
その時は、自分が死ぬことを理解していた。しかし今は違う。彼は生きたい。この新しい人生をやり直したい。それなのに、状況は最悪だった。
父は後ろに残った。最初は彼の意図が分からなかったが、すぐに理解した——家族が逃げる時間を稼ぐためだったのだ。
エゼキエルは父の行動に驚愕した。彼は自分たちのために命を犠牲にしたのだ。その行為が彼の人間性を物語っていた。父は自分の子供をよく知らなかったはずなのに、命をかけてまで家族を守ろうとした。
前世では、誰も自分のために犠牲になってくれることはなかった。だが、今は違う。
この行動をどう表現すればいいのか——
ひとつは、「父は完全な愚か者だった」。
もうひとつは、「家族の愛の力だった」。
エゼキエルは後者が正しいと分かっていた。だが、心のどこかで、それは愚かな考えなのではないかと思ってしまう。この冷酷な世界で、そんなものが存在するはずがない、と。
どんなに考えても、彼は父に感謝していた。死んでほしくなかった。あんなに良い人間が死ぬべきではない。彼は素晴らしい父親になれたはずだったのに…
離れる瞬間、父を置いていかなければならないことが心から辛かった。
時間が経ち、暗い森の中を走り続ける。
怖いよ…まだ何も始まっていないのに、こんなところで死にたくない。こんな終わり方は嫌だ。
彼は必死に涙をこらえた。追っ手に気づかれないように。
一瞬だけ、静寂が訪れた。まるで追跡が止まったかのようだった。だが次の瞬間——また、足音と声が響いた。彼らはすぐ後ろにいた。
母は矢で肩をかすめ、血が止まらず流れていた。しかも、それは彼を抱いていた腕だった。エゼキエルは、自分が矢の標的になっていた可能性に気づく。
彼女の呼吸は荒く、暖かかったはずの顔は青白く変わっていた。きっと、出血がひどいのだろう。その表情には、明らかな疲労が滲んでいた。
母さんは、もう限界なんじゃないか…
状況の重さに、エゼキエルの心は押しつぶされそうだった。逃げ続けても、終わりが見えない。恐怖が小さな胸を締め付けていた。
こんな状態で、どうしてまだ立っていられるんだ?
俺なら、もうとっくに諦めていた。俺には母さんほどの強さはない。きっと、立ち上がることすらできなかった。
それなのに、なぜここまで頑張れるの?
たとえ追っ手から逃げ切ったとしても、母さんは助かるのか分からない。医学の知識なんてないけど、彼女の状態が良くないことくらい、見れば分かる。
苦しんでいるのに、諦めない。
突然、母はさらに速く走り出した。
こんな状態で、どうしてスピードを上げられるんだ!?
もしかして、俺を生かすためにここまで戦っているのか?
俺は、そんなに大事な存在なのか…母さんにとって?
彼は、答えのない問いを心の中で繰り返した。
これが…母の愛なのか?
もし前世で母さんが死ななかったら、俺もこんな愛を受けられたのだろうか…?
赤ん坊は混乱していた。
母は、自分を生かすために全力を尽くしていた。
それほどまでに必死になれる人は、きっと心の美しい人に違いない。
こんな女性、今まで知らなかった…
母さんはすごい!誇れる母親だ!
そう思いながら、彼は母が強く唇を噛みしめ、血を滲ませるのを見つめていた。
すると、突然——彼女は足を止めた。
えっ…?なんで止まるの、母さん?
次の瞬間、小さな体が地面に降ろされた。
ダメだ!ダメだ!置いていかないで!一人は嫌だ。また、あの時みたいに…
母が顔を近づけると、赤ん坊は必死にしがみついた。小さな腕にできる限りの力を込めて、彼女を離さないように。
彼女は何かを話していたが、その言葉の意味は分からない。だが、震える声と嗚咽が、すべてを物語っていた。
——別れの言葉だ、と本能的に理解した。
嫌だ。そんなの嫌だ。母さんの腕の中にいたいんだ。
お願いだから、行かないで… みんな、いつも俺を置いていく。
やっと家族ができたのに、また失うのか?そんなの、いやだ…!
そばにいて…お願いだから!
母はそっと彼の手を自分の顔から外し、額に優しく口づけを落とした。
そして——立ち上がる。
本気かよ… 俺はまた、すべてを失うのか…?
絶望の色を宿した瞳で、彼は呆然と母を見上げた。
母は静かに手を動かし、「静かにして」とジェスチャーを送る。その目からは、涙が次々とこぼれ落ちていた。
お願いだから… 俺を置いていかないで!行かないで、母さん!
彼の心の叫びに、答えはなかった。
母は振り返ることなく、静かに歩き出した。
二人の涙が夜の闇に溶けていく。
その背中が遠ざかり、やがて——森の奥へと消えた。
沈黙が辺りを支配する。
…また、一人だ…
心が、闇に飲み込まれていく。
なんで… どうして俺は、一度くらい幸せになれないんだ…?
心の中で叫んだ。声は震えていた。
なぜ… いつもすべてを失ってしまうんだ?
深い闇が、彼の意識を蝕んでいく。
…生きる意味なんて、あるのか?
人生は俺を必要としていない。ただ、苦しめるだけだ…
胸が痛む。まるで見えない何かが、心を押し潰しているようだった。
俺はただ、普通に生きたかっただけなのに…
家族がいて、ささやかな幸せを感じられる、そんな人生がほしかっただけなのに…
なのに、どうして?どうして、こんなにも手に入らないんだ?
疲労が、ゆっくりと彼を支配し始める。
重たい瞼が、少しずつ閉じていく——
その時だった。
目の前に、影が現れた。
それは黒く、形もはっきりしない。
彼をじっと見つめる、奇妙な何か。
…なんだ?
朦朧とする意識の中、彼は必死に焦点を合わせようとした。
影の形が、少しずつ見えてくる——
…猫?
それが、彼の最後の意識だった。