第13章:「ごめんね、ママは今遊べない」
木の幹にもたれかかりながら、イニルは腕の中に子供を抱く妻をじっと見つめていた。二人は彼を見つめたまま、ゆっくりと遠ざかっていく。
時間が経つごとに、アリエルの姿がどんどん小さくなっていくのがわかった。そしてついに、妻と子の姿が完全に見えなくなった瞬間、イニルの頬を静かに涙が伝った。
「後悔してる場合じゃない!」
そう自分に言い聞かせ、拳を強く握りしめる。
後悔する理由なんてない…いや、ないはずだ。
誰かが犠牲にならなければならなかった。誰かが時間を稼ぎ、他の者たちが捕まらないようにしなければならなかった。
最適な選択肢は、俺だった。
子供は母親なしでは育たない。母親は家族の最も重要な支えなんだ。
それに…この足に刺さった矢のせいで、逃げることなんてできやしない。ただ足手まといになるだけだ。
イニルは覚悟を決め、矢に手をかけると、一気にその一部を折った。歩く時に邪魔にならないようにするためだ。途端に鋭い痛みが走り、思わず唇を噛み締める。
耐えがたい痛みだったが、これまでに味わってきた苦しみに比べれば大したことはなかった。
彼は深く息を吸い込み、燃えるような痛みを抑え込もうとする。
正直…俺は今死んでも構わない。何度も死にかけた人生だったし、いつかこの時が来ることは分かっていた。だが、せめて意味のある死に方をする。
俺は家族のために命を捧げるんだ。
そうだ…妻と子のために。
そう思うと、疲労しきった体がさらに重く感じられた。呼吸は荒く、不規則になり、意識が遠のいていく。
「後悔しないようにしよう」
そう決めたはずだったが、やはり難しい。
やりたいことは、山ほどあった。
死ぬことを決定事項のように語るべきではないと分かっている。だが、これが俺の現実だ。
もっと息子と一緒にいる時間が欲しかった。やり残したことが、たくさんあった。
未来で…愛する妻と息子のそばにいられないことを悔やむかもしれない。
でも、この決断だけは絶対に後悔しない。
なぜなら…この選択のおかげで、愛する二人が生き延びることができるのだから。
彼らは俺の分まで生きてくれる。
そう考えると、イニルの手は小さく震えた。恐怖が全くないわけではない。だが、やるべきことは決まっていた。
静寂があたりを支配したかのように思えた瞬間、それは聞こえた。
彼らの気配が…すぐそこまで迫っているのを感じた。
――はっきりと聞こえる。
鋭敏な感覚が彼らの位置を正確に捉える。
「俺には…わかる。奴らの全ての動きが。」
そう呟いた彼は、ふと後悔した。
今まで、せめて戦う術を学んでおけばよかった、と。
「俺は戦いに向いてない…」
そんな自嘲めいた笑いが、思わず漏れる。
全員倒すなんて無理だ。だが、一人くらいは道連れにできるかもしれない。
彼の肉体は彼らを上回る。
「奴らは劣っている。証明してやるさ。」
覚悟を決めると、震えがピタリと止まった。
アドレナリンが体中を駆け巡り、抑えきれないほどの力が湧き上がってくる。
やるべきことは、一つ。
――できる限り、時間を稼ぐこと。
簡単に聞こえるかもしれない。
だが、俺にとっては――
それが、何よりも困難な使命だった。
もしアリエルの体調が万全だったなら、この物語も違ったものになっていただろう――。
そんな淡い哀愁を抱きながら、彼はそう思った。
俺はアリエルほど強くはない。けど…せめて、彼が誇れるような自分でいたい。
そう自分に言い聞かせ、苦笑混じりに微笑む。
そして――
魂の底から、声を張り上げた。
「アリエル!愛してる!」
「ニカシュ!愛してる!」
決意を秘めた表情で、強い眼差しを向ける。
勝てるはずがない。
けれど、最後の最後まで徹底的に抗ってやる。
――相手に、本気の"厄介ごと"を味わわせてやるために。
***
アリエルがイニルを置いていってから、数分が経過した。
体調がすぐれないため、彼女は走れなかった。急ぎ足で何とか歩いているだけだった。
限界に達していた。
疲れ果てていた。
体は立ち上がるために奇跡のような力を振り絞っていた。実際、どうしてまだ歩けているのか、アリエル自身にもわからなかった。
これが母親の力ってやつなのか…?
息を切らしながら、彼女はそんなことを考えていた。
しばらくの間、追っ手の気配を感じなかった。それは、愛する夫が、追っ手を引き離す役目を果たしていたか、あるいは既に果たし終えていたことを意味していた。
森の奥へ進むうちに、道が次第に馴染み深いものに感じられてきた。
この場所を認識するだけで、疲れながらも希望を持った微笑みが彼女の顔に浮かんだ。
もう少しで…
もう少しで…
この場所がわかる!
他の誰かにとっては、ただの森の一部に過ぎないだろう。しかし、アリエルにとっては違う。
子供のころ、ここで何度も遊んだ。あの日々は、まるで昨日のことのように思い出せる。
彼女の肌は元々色白だったが、今は完全に色を失い、ほとんど透けて見えるほどだった。体中が、まるで命を失った者のように見えた。その白さは、限界を超えているようだった。
目の周りには深く沈んだクマができており、極度の疲労がその顔に色濃く現れていた。
突然、予兆もなく、矢が空気を切り裂く音が耳に届いた。ほんの数インチ先を通過したその音に、アリエルは完全に驚き、足を止めた。
その瞬間、攻撃が来るとは思っていなかった。
かろうじて避けたが、矢は左腕の上部をかすめた。幸いにも数秒前に動いたおかげで、致命傷は免れた。
気づかなかった!気づかなかった!
もし少しでも遅れていたら、矢は腕を貫通していた…そして、息子にも当たっていたかもしれない。
もしあの矢が息子に当たっていたら…
もし彼に届いていたら…
自分の人生がどうなっていたか、想像もできない。
今はそんなことを考えている場合じゃない!
その静けさと疲労にあぐらをかいて、彼女は集中力を失っていた。感覚がこれほどまでに鈍ったことが恐ろしかった。こんなことは初めてで、今は恐怖を感じていた。彼女は、もう感覚を信じられないのではないかと思い始めた。その疑念は、彼女の心を執拗に突き刺していた。
だが、それは彼女の最大の懸念ではなかった。
本当に怖かったのは、追っ手がすでに彼女を追っていたなら、夫に何が起こっているかということだった。そのことを考えるだけで、イニルが死んでいるかもしれないと思うと、彼女は動けなくなってしまった。
何を思っても、進み続けなければならなかった。
イニルの犠牲を無駄にしてはいけない。
もう選択肢はなかった。全てを賭けるか、何も得られないか。
もう少しで家に着く。あと少しで…
トンネルの先に光が見え始めると、アリエルは足を止めた。
パニックが彼女を飲み込んだ。
今、初めて気づいたことがあった。
家に帰れない!こうしては、母には会えない!
自分一人のために村全体を危険に晒すわけにはいかなかった。
無計画に逃げてきたせいで、今、追っ手を家に誘導してしまうわけにはいかない。それは最悪の結果を招くだけだ。
また家族や友人を裏切ることになる。
彼女の体は、状況の深刻さを実感し、恐怖で震え始めた。どんな状況でも、追っ手が村に到達することは許されない。そこには家族や子供たち…無実の人々がいる。彼女はその思いで、心配と苦悩に包まれた。
何をすべきか、彼女はわからなかった。パニックの寸前にいた。
どうすればいい!? と必死に思った。息子を守らなきゃ。でも、追っ手を村に導くわけにはいかない…
震える手で、唇をかみ締めると、血の微かな味が広がった。目には決意が満ち、彼女は静かに呟いた。
「選択肢はない。息子は生きなければならない。」
ニカシュは私たちの愛の結晶。 と、彼女は悲しみと喜びが交錯する中で思った。彼は、私たちがまだ生きている証拠であり、私たちの愛が彼を通して生き続けている証明だ。
深く息を吸い込んで、彼女は静かに、まるで自分に言い聞かせるように話した。
「私の体よ、最後の力を頼む。」
貧血と弱さに体力を奪われながらも、アリエルは命をかけて走った。実際には、命をかけて走っているわけではなく、息子のために走っていたのだ。
足は速くはなかったが、少しでも村に近づくために十分に動いていた。まだ遠いが、彼女はその場所を認識した。これは、彼女の人々がよく通る場所だった。
息を切らしながら、彼女は小さな茂みの中に囲まれた木を見つけた。これが、彼女が思い描いていた隠れ場所だ。彼女は急いで近づき、細心の注意を払いながら、使い古された布で包まれた赤ん坊を木の幹の後ろ、高い草の中に置いた。
その瞬間、鋭い痛みが彼女の肩を貫いた。血が絶え間なく流れ、服が染まった。しかし、その逆境は彼女に一つのアイディアを与えた。
震える指で、自分の血を少し取って、布に息子の名前を書いた。ニカシュ。それは、もし誰かが彼を見つけたときに、彼が誰であるかを知ってもらうための手段だった。
本当に可愛い…
彼を見ているだけで、どんなに時間が経っても飽きることはないだろう。
母親であることは、なんて素晴らしい感覚なんだろう。
そんなことを思いながら、彼女はもう抑えきれず、息子の前で涙をこぼした。それは、柔らかな泣き声ではなく、目の前に広がる涙の海だった。
「ごめんね!」と彼女は泣きながら叫んだ。
「本当に、こんなに無責任でごめん!私たちはあなたをこの世界に迎え入れたのに、少しも一緒に過ごせず、今、こんなふうに去らなければならないなんて。」
突然、赤ん坊が無邪気に笑い、両腕を彼女に伸ばした。
どうして? とアリエルは驚きながら思った。
今思えば、こんなに走り続けている間、彼は一度も声を上げなかった。赤ん坊って、こんなに静かでいるものなの?
「私の尾か耳で遊びたい?」と、アリエルはまるで答えを待つように尋ねた。
「ごめんね、ママは今、遊べないの」と、彼女は悲しそうに言って、拳を握りしめた。
彼女は息子の額にキスをしようと身をかがめたが、赤ん坊は彼女の顔を小さな手でつかみ、優しい笑顔を見せた。
その瞬間、アリエルは驚いたが、それは心地よい驚きだった。息子が抱きしめようとしているように見えた――少なくとも、アリエルにはそう見えた。
数秒間、彼女は息子の愛らしい顔を見つめ、涙が少しずつ収まっていった。
「私の愛よ、心配してくれてありがとう」と、彼女は囁いた。
その後、アリエルはようやく息子の額にキスをし、立ち上がった。
「あなたには私の言っていることが理解できないだろうけど、私たちがあなたを助けることができない時でも、私たちはずっとあなたの中にいて、支え、応援し続けることを知っていてほしい。あなたは決して一人じゃない、安心して。私たちはいつもあなたと共にいる。」
涙が再び溢れたが、今回は悲しみからではなく、感動と幸せからだった。
「それに、あなたは一人じゃない。あの村には良い人たちがたくさんいるわ。私の母や姉がきっと、私とイニールが与えられなかった愛をあなたにくれるわ。彼らを信じて。」
アリエルは涙を拭こうとしたが、それは止まらず、全てを拭い去ることはできなかった。
「私はもう行かなければならない…私たちが一緒に捕まるわけにはいかないから。」
最後にもう一度身をかがめ、彼女は固さと優しさを混ぜた声でささやいた。
「音を立てずに静かにしていて。」
彼女は手と唇で静かにするように示しながら、言葉を添えた。
「また会おうね…愛してるわ。」 と、涙でいっぱいの目で息子に向かって言い、振り返った。
あなたの父と私はずっとあなたを見守るから、あなたにすべてがうまくいくように。 そう思いながら、アリエルは涙を拭いながら反対の方向に走り出した。
同時に、彼女が遠ざかると、追っ手の注意を引こうと大きな声で叫んだ。彼女の意図は明白だった。息子の元には近づけさせないようにすることだった。
続く -