第10章: 「すべての始まり」
彼らにはすべてが揃っていたわけではないし、人生は複雑だった。しかし、それでも彼らは今まで以上に幸せだった。愛する二人の姿を見るだけで、彼の心は喜びで満たされた。
彼はこの瞬間が永遠に続けばいいのにと願った。
「ねえ、見てこれ!」とアリエルが叫んだ。
「見てよ!」
イニルが振り向くと、息子が彼の妻の長くて黒い尻尾で遊んでいるのが見えた。その尻尾は先端が尖って矢印のようになっていた。息子は尻尾を掴もうとしているようで、その笑顔があまりにも可愛らしかった。イニルは思わず息子を妻の腕から奪い取り、思う存分甘やかしたくなる衝動に駆られた。
「私も自分の尻尾を使ってみようかな!絶対にそうするべきだわ!」
しかし、残念ながら、彼の計画は数秒で崩れた。息子はすやすやと眠りについてしまったからだ。
「可愛いよね?」とイニルが穏やかな笑みを浮かべながら尋ねた。
「人生で見た中で一番可愛い!」とアリエルは興奮した声で答えた。
しかし、彼女がそう言い終えると同時に、涙をこらえきれなくなった。
「ごめんなさい!」と泣きながら謝った。「ごめんね、泣き続けたら起こしちゃう!」
「ただ…ただ…私たち、ここまで来れるなんて思わなかった…」彼女の言葉はすすり泣きに遮られた。
ほんの数秒前まで微笑んでいた彼女が、今では涙でぐしゃぐしゃだった。
イニルはどうしたらいいのかわからなかった。彼女がこうなっているのを見ると、完全に無力だと感じた。彼ができる唯一のことは、彼女をさらに強く抱きしめ、その体温を感じることだった。
無力だと感じた。最初は自分だけが生存を心配しているのだと思っていたが、彼女がこんなにも崩れる姿を見て、アリエルがただ強がっていただけだと気づいた。心の奥底で彼女はすべてを抱え込んでいて、それをずっと隠していたのだ。
なんてバカなんだ、俺は!
一瞬、彼は彼女のそういう癖を忘れていた。彼女はいつも強がりを見せて、最後には泣いてしまう。そして正直なところ、彼女のその強さがなければ、今の自分たちはここにいなかっただろう。
俺たちがまだ生きているのは、彼女のおかげだ、と彼は彼女の泣き声を聞きながら思った。
「君がいなかったら、俺たちはここにいなかった。こんな小さくて愛らしい存在だって…」イニルは赤ちゃんの頬をそっと撫でながら、起こさないように気を付けた。
アリエルは涙を流しながら彼をじっと見つめた。
「いつも遅れをとっているのは俺だ。怖くて、自分で決められないこともある。でも君のおかげで、たくさんのことができるようになった。君はいつも俺を助けてくれる。君がいなかったら、俺なんて何もないんだ。」
「君がいなかったら、俺は強くいられなかった。君がいるから毎日立ち上がって、未来のことを考えられる。たとえ世界が俺たちを見下して、獣のように扱ってきたとしても。」
「君は俺の世界だ。だから泣かないでくれ。君の前で俺を情けなくさせないでくれ。」
彼も涙をこらえきれず、崩れ落ちた。
「バカね、あなたも泣いてるじゃない…私に泣くなって言っておいて、自分だって泣いてるくせに。」彼女は笑いながら言ったが、涙は止まらなかった。
「アリエル、愛してる!」 「イニル、愛してる!」
二人はお互いに告白した。
初めて、イニルが主導権を握った。普段はアリエルがキスを仕掛ける方だったが、この時ばかりはイニルが身を乗り出し、彼女の唇に触れ、キスをした。
アリエルはイニルの行動に驚いた表情を見せたが、彼の唇はすでに彼女の唇に触れていた。そうして、彼女はその瞬間に身を委ねることにしたようだった。
二人が情熱的にキスを交わす間、彼らの長い尻尾は絡み合った。
感情が溢れるその瞬間の後、彼らは涙を拭い合い、デートを楽しむティーンエイジャーのように笑い合った。しかし、すぐに落ち着きを取り戻した。誰にも気づかれたくなかったのだ。
「あっ、忘れてた!赤ちゃんに名前をつけなきゃ!」とアリエルは小さく興奮した声を上げた。
「ハハ、俺もすっかり忘れてたよ、愛しい人」とイニルも笑いながら答えた。
二人は赤ちゃんを見つめながらクスクスと笑った。
「なんて名前をつけようか、もう決めたかも…」とアリエルが考え込むように言った。
「俺もその名前を考えてた」とイニルも同意した。
「お母さん、すごく喜ぶわ。孫に妹の子供につけようと思ってた名前が使われるって知ったら、大喜びするに違いない。」
「これで君の名前は決まったな、息子よ。」
「ようこそ、この世界へ、愛しいニカシュ」とアリエルは声を震わせながら言った。
二人はニカシュを見つめながら明るく微笑んでいた。
「ニカシュ、この名前には『すべての始まり』という意味があるの。おばあちゃんは最初の孫にこの名前をつけたかったのよ。それがぴったりだと思う」とアリエルは説明した。
「ハハ、確かにニカシュっぽい顔してるな!」
「これから家族としてどんな未来が待ってるのか楽しみだな。」
イニルは目を輝かせながらそう言った。
「私もワクワクしてきたわ!」とアリエルは叫んだ。
「お母さんや妹に早くニカシュを見せたい!」 「村のみんなにも会わせたいわ、この子がどれだけ可愛いか見てもらいたい!」 「家族と再会できるのが楽しみで仕方ない!」
アリエルの幸せそうな姿と興奮した声は、イニルにも伝わり、彼の心に安堵と活力を与えた。妻が幸せなら、彼も幸せだった。それに、自分も家族や友人たちに再会するのが待ち遠しかった。
村のみんなに会いたいな!彼は心の中で思った。ここを離れてからずいぶん経つけど、家を捨てるべきではなかったのかもしれない。
外の世界でも素晴らしい瞬間をたくさん経験したが、本当の家はここ、森の中、自分たちの仲間のいる場所だった。
彼の思考は幸福から後悔へと移り変わった。外の世界は美しかったが、すべてに欠点があるように、それもまた完璧ではなかった。多くの経験と困難を経て、イニルは家を離れたことを後悔せずにはいられなかった。
だが、幸運なことに、彼らはそれに気づくことができた。そして今、彼らは帰るべき場所へ戻り、家族と再会しようとしていた。
「愛しい人、そろそろ休もう。明日は大変な一日になるから、できるだけ体力を整えておいてほしい。村まで歩けば、きっとみんなが君をもっとよく世話してくれるし、ようやくゆっくり休めるはずだ。あと一歩だけ頑張ろう」とイニルは言った。
アリエルは頷き、横になって眠る準備をした。夜は静かで、古い家の中に心配事は何もなかった。
静寂がその場を包み込み、イニルは愛する女性の隣で目を閉じ、穏やかに横たわった。
すべては順調だった。時間が過ぎ、穏やかなまま夜が明けようとしていたその時、人々の叫び声が響き渡り、イニルは飛び起きた。
まずい!まずい!もう来てしまったのか!彼は恐怖とパニックに陥りながら考えた。
彼はすぐに妻を起こし、不安に満ちた表情で彼女を見つめた。
「愛しい人、行かなきゃ。見つかったんだ!」と彼は焦りながら言った。
その言葉を聞いた瞬間、アリエルの目は可能な限り大きく見開かれた。それは目覚めたばかりの人の目には見えなかった。
――続く――