後
最終話です。
◆◆◆
ビスクドールが届いてから一週間後、ウォルフェデン家の邸に産声が響き渡った。
産まれたのは女の子だった。
この国で女性は爵位を継ぐことはできない。だからこの子供が後継者になることはできないけれど、初めての愛する者との間に生まれた子供だ。
柔らかそうな栗毛に、果物のみかんのように愛くるしいオレンジ色の瞳。
その赤子を愛おしそうに、少したどたどしく抱きかかえるセシリーは幸せそうで、サイラスも嬉しくなった。
だけど、ふと赤子の姿に既視感を覚える。
最近見た覚えもあるような、ずっと前から知っているかのような違和感。
それに、子供の髪と瞳の色は、サイラスにもセシリーにも似ていない。
(おかしい)
そう思ったが、この幸せを壊すのはもったいなくて、サイラスは優しい笑顔を浮かべていた。
だが、子供が産まれてから数日経っても、その違和感は拭えないどころかどんどん膨らんでいく。
産まれた時は邸を震わせるほど大きな声で鳴いていたのに、それ以降、娘は泣くことはなかった。笑うこともなく、ただじっと天井を見つめているだけ。
手がかからないだけマシだと笑うセシリーとは違い、サイラスの不安はどんどん膨らんでいく。
特に娘の容姿は、どう考えてもセシリーにも自分にも似ていない。
その不信感は、とうとうセシリーに向かった。
「これは本当に僕の子供なのかい? 父にも確認して調べてもらったが、祖父や血の繋がった親戚にも、この髪色の人間は一人もいなかった。瞳もだ。こんなみかんみたいな瞳なんて見たことがない」
「あたしが不貞を犯したというの?」
「君はもともと娼婦だ。僕以外の男にも抱かれたことがあるだろう? 可能性は高いんじゃないかな」
「この家に来てからあなた以外にこの体を許したことはないわ。本当よ!」
「いや、信じられない。そもそもその不気味な子供はなんだ。そのビスクドールだっ……て?」
声を荒げてセシリーを詰っていたサイラスは思わず言葉を止める。
娘と一緒に並べて寝かされている、あの不気味なビスクドール。
柔らかい栗毛に、みかんのような瞳。
その姿は、どこからどうみてもセシリーの産んだ赤子と瓜二つだった。
「その人形。そんな姿をしていたか?」
「ビスクドールがどうしたの? これは大切なプレゼントでしょう」
「あ、ああ、そうだったかな……」
前に感じた既視感は、この人形だったのだろうか?
それにしてもどうして赤子と瓜二つなんだろう。
疑問を抱えながらも、時間は過ぎて行った。
その間、娘は泣いたり笑ったりはしないものの、すくすくと育って行った。
よく食べて、よく寝る。寝るときは常にあのビスクドールと一緒で、セシリーはそれをおかしいものとは認識していないみたいだった。
子供が生まれて、一年後。
娘はやはり笑ったり、泣いたりすることはなかったが、立って歩けるまでになっていた。フラフラとしたおぼつかない足取りだったけれど、それでもセシリーは我がことのように喜んだ。
そして、ビスクドールは――。
「なんだ、これは――」
サイラスが久しぶりに見たビスクドールは見るも無残な姿をしていた。
柔らかかった髪はバラバラな紐状になっていて、みかんのように澄んだオレンジ色の瞳は見る影もない、まるで服にもうしわけ程度に付けられたボタンのように見える。そして鼻も、あの柔らかそうな唇もない。
人間の子供のような姿をしていたはずのビスクドールは、どこからどうみても誰かが適当に作ったボロ雑巾のようだった。
「サイラス何しているの?」
「この人形はなんだ!」
「ビスクドールよ。大切なプレゼントじゃない」
「いや、あの人形は、こんなゴミみたいな姿なんかじゃなかった」
「え、何をするの? サイラス、やめて」
セシリーが止めるのを聞かずに、サイラスは暖炉の火の中にその人形を放り投げる。
その瞬間、セシリーが抱きかかえていた子供が、邸を震わせるほど大きな声で泣いた。娘は一晩中泣きつづけ、その日は邸中の住人は眠ることができなかった。
娘は変わらずに、人形のような表情だった。笑わずに、泣かない。
それに、「次は男の子ね」と笑っているセシリーに、昔のように愛情が湧いてこない。そもそもセシリーはもともと娼婦で、子供が産めない体になった妻の代わりに愛人として招き入れたのではなかっただろうか?
ところでその妻はどこに行ったのだろうか。
使用人に訊ねると、ずっと前に出て行ったと伝えられた。実家に帰ったらしい。
なぜかと問いかけると、使用人は不思議そうな顔をして、こう言った。
「旦那さまがおっしゃったのではございませんか。子供を失ってからの奥様は塞ぎこんでいらっしゃるから、そっとしておいてあげるほうがいいだろうと」
「そうだったか? とにかく、妻を連れ戻せ。実家にいるのだろう?」
妻の実家から返ってきたのは、娘は帰ってきていないという知らせだった。
セシリーに問いかけると、頬を膨らませて「その話はよして」という。
妻はどこに行ったのだろうか。
娘はやはり笑ったり泣いたりすることのない、まるで人形のような姿のまま成長して、一年と半年ほどになっていた。
セシリーは何かとサイラスと夜を過ごそうとしてくるが、サイラスにはその余裕はなかった。
娘が生まれる前までは、仕事もプライベートもうまくやれていたはずだ。
それなのに最近は何もかもうまくいかない。社交界に顔を出しても、家に居ても。
なにかがおかしい。
自分にもセシリーにも似ていない娘。
本当に自分の娘なのだろうか。やはり、セシリーが別の誰かと関係を持って生まれた子供なのではないだろうか。そんな疑念に襲われる。
もしそうなのだとすれば、セシリーをこれ以上邸に置いておくことはできない。この子供もだ。自分と血が繋がっていないと考えるだけで怖気がはしる。何よりもあのみかんのようなオレンジ色の瞳。その瞳が不安を搔き立ててくる。柔らかい栗色の髪も、ぷっくら膨らんだ唇も。すべてが悍ましい。というより、あの人形はもうすでに燃やしたのではなかったのだろうか。どこか既視感を覚える人形だった。それなのに、なぜまだここにあるのだろう。
セシリーに問いかけると、「あなた、おかしいわよ」と返ってきた。
おかしいのは彼女の方だろう。人形を愛おしそうに抱きしめて子守唄を歌っている。泣くことも笑うこともない人形が睡眠を必要とするはずなんてないというのに。
そもそもあのビスクドールは届いた時からおかしかった。
差出人が不明で、まるで本物の人間の子供のような姿をしていて。
それを、セシリーがまるで自分の子供のように大切にしている。
あのとき確かに燃やしたはずなのに。
それなのに、なぜまだここにあるのだろうか――。
「この人形が、まだあるから」
だから仕事も生活もうまくいかないのだろう。
サイラスはボロ人形の髪を掴む。セシリーがなにやら泣き喚ていているが、構わなかった。
真っ赤な炎を上げて燃えている暖炉に向かって、サイラスは持っている人形を頬り投げた――。
すると、どこからか泣き声が聞こえてきた――。
◇◆◇
貴族の邸が並ぶ通りを騒がせた、ウォルフェデン邸の火事は、邸を丸々燃やし尽くしてから消火された。
焼け跡からは大人と見られる二つの遺体が出てきたのだが、身元は不明のままだった。
ウォルフェデン邸の使用人たちは運よく脱出して無事だったが、伯爵と夫人と見られる二人の姿は見当たらなかった。いまもまだ二人とは連絡が取れないままでいることから、二つの遺体は伯爵と夫人だろうと思われた。
――ただ、使用人の話によると、伯爵夫人は何年も前に家を出て行っているらしく、もう一つの遺体は愛人だという説もある。これは、あくまでも噂程度だけれど。
そして全焼した邸の中から唯一、焼けることなく難を逃れたものがあった。
柔らかい栗色の髪で、果物のみかんのように澄んだオレンジ色の瞳の、人間の子供のような姿をしたビスクドールだ。
※作中に出てくる薬や呪い、それから人形などはすべてフィクションです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。