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※ホラーです。観覧にはご注意ください。
「……ねえ、本当によかったの?」
「なにがだい?」
「あの人に飲ませた薬よ。もしバレたら大変なことになるんじゃないの?」
「問題ないさ。あの薬は胎児にしか影響しない。副作用で子供ができない体になってしまうから本来なら堕胎剤としては使えないけれど、僕たちにとっては好都合だったんだ」
「でもあの人の実家は……」
「あいつは実家では煙たがられていたんだ。だから格下である僕のところに嫁ぐことになった。まあ、それは僕が誘惑したからなんだけど」
「もう、その話は聞きたくないわ」
「しょうがないだろう。仮初の夫人でもいなければ、セシリー、君と一緒になれなかったのだから」
扉越しに聞こえてくる会話に吐き気を催して、クレメンタインは口を押さえて蹲った。
(まさか、いままでのがすべて演技だったなんて……!)
夫であるサイラスは、クレメンタインにとっては救いの主のようだった。
実家で虐げられていて居場所のなかったクレメンタイン。
ある日の夜会。いつもみたいに可愛らしい妹と比べられて、壁の花ではなく雑草のようだと嘲笑されていた時。サイラスは周りの噂に惑わされることなく、クレメンタインにダンスを申し込んできた。形の良い眉に優しそうな眼差しの、美麗な若き伯爵。そんな彼のダンスに誘われるのを待ちわびていた令嬢は、地味な格好をしたクレメンタインに羨望ではなく嫉妬の視線を送った。
それでもその日の夜会は、人生でいちばん最高の日だった。
いつも妹と比べて蔑んでくる人々も気にならないぐらい、最高の夜。
いままでも妹と橋渡しをしてもらおうと甘い言葉を囁いてくる令息はいたけれど、サイラスだけは違った。妹ではなくクレメンタイン自身を見てくれて、優しくしてくれた。
だから恋に落ちるのは必然だった――。
父である侯爵は格下の伯爵の求婚に最初の方は辛辣にしていたが、地味で不愛想なクレメンタインの元に他の縁談が舞い込んでくることもなかったものだから、渋々と言った様子で承諾した。
それにより、クレメンタインは若き伯爵――サイラス・ウォルフェデンの許に嫁ぐことになったのだ。
結婚してからサイラスは紳士的だった。
どこかに出かけるときはエスコートをしてくれて、体調の気遣いもしてくれて、何よりもただの子づくりのためだと教わっていた夫人としての務めも甘く優しい夜にしてくれた。
サイラスは、クレメンタインにとって最高の夫で、自分は愛された妻だとそう思っていた。いままで苦しかった実家での日々なんてもう忘れて、これからは幸せに生きていけるのだと。
ウォルフェデン伯爵家に嫁いできてから一年後。
やっとクレメンタインはサイラスとの子供を授かった。
サイラスは涙を流して喜んでくれて、クレメンタインも幸せだった。
だけどそれも長くは続かなかった。
苦しい悪阻。何も食べられないクレメンタインを思いやったサイラスが、ある日お茶を贈ってくれた。
「特別なお茶だよ。他国から取り寄せたんだ。これは妊婦の体を安定させて、胎児の成長の助けになってくれるんだ。その国では妊婦は必ずこれを飲むそうだ。クレメンタイン、僕は君のことが心配なんだ。だからこれを毎日欠かさずに飲んでおくれ」
その言葉をすっかり信じたクレメンタインは、毎日そのお茶を飲んだ。聞いたこともない名前の茶葉だったのだけれど、サイラスが言うなら間違いない。そう思っていた。
次第に安定していくお腹に、激痛が走ったのは妊娠してから五か月後のことだった。
足の間から流れていく血を見た瞬間、クレメンタインはショックで気を失ってしまった。
そして次に目を開けたとき、医者からは衝撃的な事実を突きつけられてしまった。
「お腹のお子様はお亡くなりになりました。それから残念ですが、もう子供ができる体ではなくなり……奥様! しっかりしてください! 旦那様、奥様が!」
医者の話の途中でまた気を失ってしまった。
それほどまでにショックだったのだ。
もう愛するサイラスとの間に、子供が授かれなくなってしまったことが……。
そしてその日からサイラスは変わってしまった。
眼差しや言葉は優しかったけれど、それでも何かが違っているとクレメンタインは感じていた。
サイラスに「君との子供がいなくても、僕は君と一緒に居られるだけで幸せだ」と言われたときも。「後継者が必要だから、子供を産んでくれる愛人を家に居れようと思うんだ。安心して、クレメンタイン。彼女はあくまでも後継者を産んでもらうためだから。僕の心にいるのは君だけさ」と言われたときも。「やっとセシリーとの間に子供ができたんだ。僕たちの後継者だ。もちろん、祝ってくれるよね」と目を輝かせていた時も。「身重のセシリーをひとりにはしておけない。クレメンタイン、今日の夜会にはひとりで行ってくれるよね。本当は君をひとりで向かわせるのは気が引けるんだけど、これも僕と君の子供のためだからさ」と辛そうな顔で告げられた時も。
なにかがおかしいとは思っていた。
変わらない夫の笑顔。優しく甘い言葉。
もう子供が身ごもるための甘い夜は無くなってしまったけれど、それでもサイラスの愛する人は自分だけだと、そう信じたかったのに――。
夜にふと目が覚めて、眠れなくなったからと庭に出ようとした時。
隣のサイラスの部屋の扉から微かに光が漏れていた。
それで、知ってしまったのだ。
夫の裏切りを――。
いままでの笑顔で甘い仮面はすべて嘘偽りで、サイラスはクレメンタインのことなんて愛していなかった。
それだけならまだ耐えられたかもしれない。
お腹の中ですくすくと育っていく子供に、愛しさを感じていた。
サイラスとはまた別の、愛しさだ。
その愛しい子供を、彼らは奪ったのだ。
吐き気とともにその事実に気づいたクレメンタインは、そっと扉から離れて自室に戻った。
クローゼットの中には使用人にも触らせない、木箱があった。
木箱の中には産まれてくる子供の成長を祈って、作ったいろいろなものが入っている。
その中に、ひときわ目を引く一体の人形があった。
幼い子供の姿をした、手のひらサイズの人形。
貴族の間では、幼い子供にビスクドールを贈るのが流行っていた。
人間の幼い子供の姿をした人形で、可愛らしいドレスを着せることにより華やかになることから、貴族の令嬢だけではなく貴婦人にも熱心なファンがいるほどで、ビスクドールを手に入れるのには莫大なお金がかかった。
ウォルフェデンは伯爵家といえども裕福な方ではない。精巧な人形ほど高く、とてもじゃないけど手が出せなくて諦めるしかなかった。
だからクレメンタインは人形を手作りすることにしたのだ。
本物のビスクドールに比べると、クレメンタインが作った人形はお世辞でも美しいとは言えなかった。
ボタンの目に、縫い糸の鼻と口。髪の代わりの糸はボロボロ。
だけど産まれてくる子供の幸せを祈って、大切に繕ったものだ。流産した後、あまりにもショックに木箱に封印していたのものだけれど。
その人形を手にして、クレメンタインは決心した。
サイラスも、その愛人のセシリーも絶対に許さない。
報いを受けさせてやるのだと――。
そしてクレメンタインはその日の夜、唐突に家から姿を消した。