■1-3
帰宅して30分足らずで作り上げた藍の手料理の第一号は、マカロニとチーズが混ぜ込まれた彩りサラダと薄切りバナナを乗せたフレンチトーストだった。
豊富な乳蛋白と繊維質、実にヘルシーである。
赤キャベツ、オリーブ、ブロッコリー、ミニトマト。
これらを最後に食した日など遡れば数ヶ月になる。
男の一人暮らしではなかなか摂れない栄養素たちがここにきて一気に押しかけて来たように思えた。
「野菜も安くないだろうに…」
真っ先に口を付くのは所帯じみたそんな言葉だった。
これらは藍が自腹で買ってきた食材なのだが、栄養ドリンク何本分だろうかとついつい無粋な換算をしてしまう。
「ぬぅ、やはり男はもっとガッツリしたものがよかったろうか」
「ヘルシーなのは全然有り難えし素直に嬉しいよ。確かにバイト前だから腹持ちがちょっと不安だけど。これなら休憩時間はコンビニ弁当買わずにおにぎりで済ませられそうだ」
「そうか、遠慮せずに食うがよい」
「って、ランの分は? 一緒に食うんじゃねぇのかよ」
用意されたボウル一杯のサラダと一皿のフレンチトーストは仁の手前に置かれ、藍は取り皿も用意せず立ちながら買ったばかりの花柄のマグでコーヒーを飲んでいた。
「あー... 買い物の時に外で軽く済ませたのだ」
「軽くっても、これぐらいは入るだろ」
「ええい、うるさいの。これでよいか」
爪楊枝を手に取り、彩りサラダの中のミニトマトを突き刺して食べたあと何故か少し怒る藍だった。
「全く、そんなに女子と食卓を挟みたいなら素直にそう言えばいいものを」
「いや、それも否定はしないけど」
そちらが腕を振るってくれたのだから普通に考えてこの状況は一緒に食事をするだろ、と反論したいのは食事と一緒に飲み込む仁だった。
トイレットペーパーが花柄になったり部屋からフローラルな香りがしたり、少しずつ部屋の様相が女子っ気づいていく事に目を潰れば、藍が家事をしてくれるのは本当に有り難い。
お陰で勉強時間が増え、生活習慣の中で仁が知らず知らずに抱えていた焦燥感が大きく和いだ。
何だか部屋の香りもリラックス効果を齎すような気さえするし、ヘルシーなものを食べられているお陰で以前よりも体が軽いのは確実だ。
3日と経ち、一週間が過ぎ、
そんな効果を実感するに従って、違和感の方も次第に大きく感じてゆく。
二週間とも来れば、いよいよ無視をするにも限界だった。
「ラン、お前、ちゃんと食事してんのか…」
今日まで仁は、あのときのミニトマトと飲み物以外、藍が口にしているのを見たことがなかった。
3日ぐらいまでは藍も女子だし、ダイエットでもしているのだろうと思った。
一週間で心配になったが、きっと食べる姿を人に見せたがらないのだと思い込んだ。
だとしても、よもやと思う。
人は10日絶食すると死ぬと言われている。
藍自身は変わらず変な口調で、何かあればそれが格好良いと思っているかのように塩対応を仕掛けてくる。
きっと仁の知らないところで食事をしているはずだが、
尋ねるぐらいしても良いと意を決した二週間目であった。
いつものようにローテーブルで勉強していた仁はふと今思った風に装って顔も上げずに尋ねた。
シンクに凭れてコーヒーを飲むという落ち着きルーティンを得た藍は、ダイニングに出たなら大体そこにいる。
「通信費はじい様が支払ってくれているし、貯めた小遣いもまだある。お主に負担をかけてしまうのは水道と光熱費。あと嗜好品のコーヒーやお茶か」
途端に理由のわからない話をされたが、それでも仁の質問に対して否と匂わせてはいた。
「それは不味いんじゃないのか。だって人間は10日も食わなきゃ死ぬんだぞ」
「お主には、我がどこか、不味いように見えるのか?」
態とらしく言葉を区切りながら逆に問われ、改めて藍の方に目を向ける。
相変わらず白い肌は血色の良し悪しもないが、唇や瞼に差す赤色は確かに瑞々しいようだ。髪質も濡れたように艶めいている。
不摂生が祟ったときの仁は、特に髪が傷むのでそれをバロメータとしている。
ろくに乾かしもしないせいで自分ばかり顕著なのかも知れないが。
「お前、一体何者…」
「お主はおかしな事を言う。藍であろうが。少しばかり見目が変わったものの、わからぬのか」
何もかも変わっとるがな、と驚嘆するのは半月前の繰り返しになる。
仁が答えあぐねていると、
藍の方から「いや…」と漏らすような声がした。
「何もかも変わったがな。それでもお主の知る藍には違いないのだ。そんな目で見るでない」
悲しいじゃないか。
掠れたような声は、本当にそう発されたのか、藍が続けて言いそうだった言葉を仁が頭の中で作って流した音声なのか判別し得なかった。
俄に信じられないことだが藍は食事を必要としない。
冷静に考えれば、藍と暮らすに当たって一番頭を悩ませたのは食費に他ならない。
ガソリン価格が高騰している昨今、運送費を反映した市場の食材価格はかつての2倍や3倍に相当するものも少なくないのだ。
それがかからずに勉強のサポートを得られている状況は仁にとって手放しで喜ばしい事だった。
何故食事をしないで生きていられるのか、
そんな事は仁頭にわかるはずもない。
きっとあの緑の髪で光合成でもしているのだ。
でなければ魔素を食うか、或いは自然にある電子を集めて動くアンドロイドかも知れない。
仮に実態を持った霊的な存在だったとしても、あの切なげな声を聞いた今の仁ならば寛容できた。
藍は藍であり、
地味で大人しかったあのランちゃんであり、
妙な口調と塩味の効いた態度がおなじみの今のランでもある。
それでいいのだ、と思考に蓋をしていた。
気にするべき事は他にもっとある。
フローラルな匂いを漂わせるせいでバイト先に彼女が出来た疑惑が持ち上がり、それについて気になる同僚女子はなんと思ってるのか、これは特に深刻な悩みだった。
リビングの食卓に花の刺繍のテーブルクロスがかけられ、ベランダにヘデラの鉢が吊られ、トイレはラベンダー香るアロマスティック、玄関にもハーバリウムの瓶が飾られた事。
仁の親が見たのならいよいよお前も垢抜けたのかと感涙しかねない事態ゆえにこれも何とかしなければ。
世間では麻薬の原料になる大麻が民家の庭で育っていたなんて物騒極まりない事件が報道されていた。他には凶悪な繁殖力を持つミントが芝生広場に発生してグランドマットが塗り替わったとか、外部と隔離された室内栽培場で目的と違う作物が紛れ込んだとか、やたら植物関連の奇妙な事件が相次いでいる。
日に日に植物に侵食されていってるのは仁の部屋も似たようなものだ。そういえば富士山騒ぎは今頃どうなったろう。
藍という存在を知った今の仁はちょっとやそっとの事では驚かない。
むしろ最近で一番に驚いたのは藍と再会したときの変貌ぶりだったと言えた。