■4-9
「ラン! 宝泉に帰ろう!」
家に帰るなりただいまも言わずそう叫んだが、何者の返事も無かった。
それはそうだ。誰も居ないのだから。
時刻は22時になりかけているのでバイトという事は無い。
先に藤沢先輩を家に送ってきたが、先輩の家にも居なかった。
今どこに居るのかとメッセージを送ろうとしたその時、見計らったように藍からメッセージが届いた。
『長らく世話になったな
まずは礼を言う、ありがとう。
突然だが我は東京を離れる事にした
我が宝泉に住めばエクスプランターが収束するとお主は考えるだろう
それではお主の大学生活を犠牲にしてしまう事になる
それは我の本意ではない
美咲殿と郁人殿には我から連絡しておく
決して探すでないぞ
追伸:我が育てた野菜、お主に食わせてやれなくて残念だ。すまぬ』
なんで、なぜ、どうして、なんのために、
答えはそこに書いてあるにも関わらず頭の中は疑問詞で埋め尽くされていた。
その場の崩れ落ち、床を撫でて胸の奥が傷んだ。
きっと最後に掃除をしてくれたんだろう。緑の髪は一本たりとも見当たらない。
寝苦しいほどひどく痒い思いをさせられたのに、どうしてそれが無くてこんなにも寂しいのか。
いつも夜食を作るために料理してくれるキッチンを見上げて茫然とした。
一度、包丁捌きをしくじって指を切ったのを思い出す。
切り口からは赤い汁が染み出てまるで人間の血のようだったが、リュウケツジュという赤い樹液を流す植物の特徴が備わっているだけだと言っていた。その傷は後日茶色く変色し、被膜を作って内側から細胞を盛り上げて再生したのは多肉植物に備わる能力だ。
傷を負えば流血し、時が経てば癒える。
まったく人間の娘と暮らしているように思えたものだ。
給水マットの上に逆さ置きの花柄のマグは、シンクに凭れてコーヒーで一息つくときに愛用したもの。そうして仁が部屋のローテーブルの方で勉強する姿をいつも見守ってくれていた。
行き詰って頭を掻いているのに気づくと、覗きに来てアドバイスをくれる。
苦手な分野だと、こんなのもわからないのかと言われて不満を抱える事もあった。
黙り込んで自力で解くと、やれるではないかと上から目線で褒めてくれて、言い方は癪ながらも何故か嬉しくなれる場面だった。
部屋の窓の方、上部の通気口から室内に侵入していた蔦も無くなっていた。
小柄な藍は手が届かないからと放置していたが、最後に頑張って取ってくれたようだ。
ベランダのどうにも取りきれないほど広がった蔦はさすがに放置だが、全て枯れている。
今日枯らしたのではなく、つい先日ザウバークーゲンの成果を見せると言って歌い出し、それからわずか三日程で全て茶色い枯れ枝になったのだ。
その時歌った曲は、相変わらずアニソンだった。
以前より上手くなった歌声には、うっかりすれば聞き惚れそうな場面もあった。
この暮らしはままごとだから、そんな気になってはいけないと己を制した。
許されるなら、そのまま高ぶる思いに身を委ねて走り出したかった。
今日、せっかく恵さんが藤沢先輩との距離を縮めようと色々後押ししてくれていたのに結局踏みとどまってしまったのも、藍を思ったからだ。
ままごとの役として与えられた、素敵な旦那さま。
何もかも抽象的だが、そんな人物像に他の思い人などいるはずがない。
だたそれだけの理由だった。
よろけながら立ち上がり、ふらついた足取りで家を出た。
こんな時間だが、もう寝ていたとしても叩き起こしてでも藤沢先輩に会わなければいけない。
仁が地元と他所での『夕焼けこやけ』に違いの気付いた事、藍に知らせたのはきっと先輩だ。
仁が家に着いたタイミングで藍からメッセージが来たのも、少し前に先輩を家に送り届けた事を知れたからだ。
帰りも車で送ってくれた恵さんがその支度にやたら手間取っていたのも先輩が仕組んだのだ。
藍に最後の部屋の掃除をする時間を与えるために。
ご愛読感謝、筆者です!
血のような樹液を流す植物の紹介。
本当は外来種駆除のシーンでモデルガンが暴発したという流れで書きたかったのですが、
ここにして良かったと今は思っています。
次回から第五章入ります!




