地縛霊の悲しみ
「わたし、生きてるよね」
さっき、そう確認したらヒロシがいた。
ヒロシのことが見えるのは、やはり自分が今までと何か違う存在になってしまったような気がしてならない。
「わたし……」
頬を涙が伝った。
底知れない悲しみが急に玲奈を襲った。なんで急にこんな気持ちになったのか分からない。でも、悲しくてしかたない。感情が急に埋め込まれたみたい自分でコントロールできない。何かに取り憑かれたのだろうか。
ただ、なんとなく、心に穴があいたみたいな気持ちだ。
二年前、おばあちゃんが亡くなった時に似てる。
死んじゃったからもう会えない、そういう分かりやすい喪失感とは少し違う。受け入れているのに、感情が追い付かなくて現実には向き合えない宙ぶらりんな気持ち。
「やっぱり、わたしもうすぐ死ぬのかな。いや、もう死んでる?」
玲奈は、自分がちゃんとここに存在しているのか不安になってきた。
外は酷い雨だ。
死んでたら濡れないのかな。
玲奈は階段を下りてふらふらと出口に向かった。
「玲奈ちゃん」
背後から池上さんの声がした。
玲奈はうつろな目で振り向いた。
「大丈夫? なんか魂抜けたみたいだよ」
池上さんは心配そうに近寄り、両手で玲奈の顔を抑えた。柔らかい頬が中央に寄せられ、唇がくちばしみたいになった。
催眠術から醒めたみたいに、何か切り替わる感じがした。
「う」
「ピヨピヨ」
「止めてください」
「元に戻ったか」
あまりにも顔色が悪かったようで、池上さんは少し休むようまた応接室に通してくれた。十連休の真ん中、多目的ホールや会議室を借りてる団体もなく、雨が降っているのであじさい館に来る人は少ない。
前と変わらない。ちゃんと池上さんと会話もしている。さっきの不安が、行き過ぎた妄想だったと思えるくらい、絶対に生きてて死にそうにもなっていないと玲奈は実感した。
ただ、やっぱりヒロシは誰にでも見える存在ではないと思った。
幽霊とか妖怪とかそういうグループの中にいる、違う世界の人だ。
ヒロシの存在を裏付ける手がかりが欲しくて、玲奈は聞いてみた。
「あの、池上さん、ここ昔、小学校だったんですよね。事故で子供が亡くなったとか聞いたことあります?」
ここで死んだ。
ヒロシの言葉から、彼は昔、この学校で事故死した小学生なんじゃないだろうかと推測した。小学校時代に人が死ぬような事故とかがあれば一致する。きっと、成仏できなくて、この学校をさまよってて、同い年の玲奈に自分の存在をアピールしにきたんじゃないだろうか。玲奈は、学校七不思議のひとつにありそうな設定を思い描いた。
「小学校で事故っていうか、この辺一帯は空襲でたくさんの人が死んだよ。校舎も一部は焼けただろうし」
「空襲」
実際の空襲がどんなものかは正直よく分からないけど、玲奈が想像していた「死んだ」状況とは規模が全然違うだろうなと思った。
「それで公園やお寺、小学校の校庭とかに遺体を仮埋葬したんだ。この小学校の校庭も、何百体という遺体を埋めたって」
「え、校庭にですか」
「仮にね。その後、全部掘り起こして、ちゃんと埋葬してるから」
「はい……」
つまり、ここは、小学校で亡くなった子がいるかも。とかいうレベルではなく、戦時中多くの人が亡くなった現場であり、一時期お墓みたいな役割を果たしていた。
幽霊の一人や二人いてもおかしくない。
「あじさい館は、地縛霊さんたちが見守っててくれてる」
池上さんは、どこか誇らしげに言った。庭に咲くあじさいと同じくらい、ここにはなくてならない存在かのように聞こえる。
「池上さんは会ったことあるんですか?」
「残念ながら。でも、会ったって言う人の話は実はよく聞く。心霊スポットみたいに言われたら困るから、おおっぴらには言えないんだけどさ」
「ええ。じゃあ小学校の時、ガチでやばい七不思議とかあったんだろうな」
「それはどうかな。平和祈念資料室作ってからの方が目撃情報は多いんだよね。引き寄せるのかな」
直接見える位置ではないが、池上さんは寄贈品が展示してある方を見てさっくりと怖いことを言った。そんなこと言われたら、展示品を見るたびに、霊がどこかにいるのかなとか思ってしまう。
「でもなんでそんなこと聞くの? もしかして誰かに会ったの? 顔色悪かったし」
「はい、実は、同い年の男の子に。ここで死んだって言ってました」
「何か、名前が分かるようなものとか身につけてたりした?」
「ヒロシって言ってました」
「ヒロシ?」
池上さんは何か知っているような顔をした。ただ、昔からよくある名前だからだろうか。
「知ってるんですか」
「いや、ただ……。ちょっと待ってて」
池上さんは、一度事務室に戻ってクリアファイルを持ってきた。その中からA4の用紙を一枚ずつテーブルに並べた。玲奈が持ってきた軍事郵便をカラーコピーしたものだ。裏表が一枚の紙に印刷されている。
「現物は大事に保管してあるから」
「はい」
「このヒロシさんは、戦後も生き延びたか知ってる?」
池上さんはハガキの宛名、「廣」という字を指さした。
<白井キヨ様 廣様 千代子様>
「これ、ヒロシって読むんですか」
「おそらく。広いっていう字の旧字体だからね」
池上さんは両手を広げ「広い」という意味を表現しながら言った。
「空襲で亡くなったって聞きました。千代子と七つ違いだから、多分、九歳ぐらいの時」
玲奈は、千代子の兄のことを言いながら、池上さんの言いたいことが分かった。
「ヒロシって」
「うん。この廣さんなんじゃないかな」
「そっか」
さっき感じた、なんとも言えない悲しみの正体が分かったような気がした。おばあちゃんが亡くなったときに似た感じがしたのは、ちょっとでも血がつながった存在だからだ。
自分の中に流れている同じ血が、何かを感じたんだ。
「ここで死んだって、九歳でも疎開しなかったんだ」
資料室のガラスケースの上にある解説パネルに書いてあったことを思い出した。
学童疎開。空襲被害から逃れるために都市部の国民学校三年生~六年生は、親元を離れて地方で暮らした。当時の小学校は「国民学校」って名前だった。
親戚など知り合いがいる人はそこへ行く。(縁故疎開)
頼れる所がない子達は学校単位で地方のお寺や旅館の世話になる。(集団疎開)
もしも、自分が疎開することになったら集団疎開になる。田舎に親戚のいる芽以は縁故疎開するから一緒じゃないから嫌だなと想像したことがある。
「全員が疎開したわけじゃないからね。疎開にも多少のお金がかかるから行けない子もいたし」
「そうなんですか」
「疎開体験は生き残った人にしか話は聞けないから、ここで亡くなった児童はなぜ疎開しなかったかなんて具体的には分からない」
「確かに」
「戦争って、地域や年齢によって体験したことが全然違うんだよね。国のきまりがこうだったから、みんなそうだったわけじゃない。知らないこと知らされてないこと、たくさんある。まあ、そんなの戦争に限らないか」
同じ戦争でも、みんな同じじゃない。
確かに、同じ年だから、同じ学校行ってるから、みんな同じような生活してるとは限らない。クラスのみんなの家のこと知ってるかって言われたら、知らない。
玲奈は、軍事郵便の宛名をじっと見た。
雷に怯えていたヒロシの姿が思い出さずにはいられない。
きっと空襲と重なったんだろう。
また会えるだろうか。