36話『伸ばした手に罰を』★
呼吸を忘れる高さに息を呑んだ。
覚悟をしていない分、怖気が全身を廻るのがわかった。
「アズラっ」
思わず鋭い声を上げて、恐怖に侵されるアズラをぐんっと強く引き寄せる。
(このままじゃ...っ、なんとかしないと)
空中で身体が回転する。
焦燥に顔を歪めるアベルはさらに空いたほうの手でアズラの頭を掻き抱く。
すると、
(あれは......!)
転がり落ちる斜め下に、崖の斜面から突き出るように生えた大きな木がアベルの視界へ飛び込む。
──助かる術は、あれしかない!
この先は五メートルほどの急斜面となり、すぐ下は川となっている。このままだと、アベルはともかく、アズラまでも死んでしまう。
(アズラだけは、死なせるわけにはいかない!)
アベルは上体を起こし、落下の軌道をズラしていく。
「アズラぁ!ぼくにしっかり捕まって!」
「──う、んっ」
その叫びは、アズラにも届いたようだ。
二人がかりで体重を傾けると、転がる向きは大きく変わっていく。
そして──、
ベエエエ~~!
最後に羊の鳴き声が耳にこびりつく。
(な、なんとか間に合った......)
結果的になんとか、木の枝をつかむことができたようだ。
二人分の重量を支えながら、アベルは外れそうになる肩を気合いで堪える。そして渾身の力でアズラを抱えながら木へとよじ登る。幸いにも羊は幹に引っかかっていた。
「助かった、の......?」
ここでやっと、アズラは牧羊杖からゆっくりと手を放した。ゼエゼエと息が荒く、瞠目していて少し涙目だ。おそらく、まだ我に返っていないのだろう。いわゆる放心状態だ。
一方、アベルは手放さずに羊の首からそっと杖を外した。そしてすぐに鼻先をアズラへと転じた。
「アズラ...!」
「......」
「アズラ!しっかりして!」
「!」
アベルがアズラの背中を優しく撫でると、惚ける彼女の虚ろの瞳に僅か光が宿る。
「アズラ。一つ頼みはあるんだけど」
「な、に?」
不安気にこちらを見るアズラにこれから言う事に心を痛めながら、アベルは牧羊杖をアズラに渡して、その掌に強く握らせた。
「──助けを呼びに行って欲しいんだ」
助かったばかりではあるものの、先ほどから木がミシミシと音を立てている。
あまり、丈夫な木ではない。折れるのも、時間の問題だろう。
斜面は杖の支えがあればなんとか登れる。比較的に体重が軽く運動神経も良いアズラならば、あっという間に上まで辿り着くはずだ。
それに、牧羊杖を高く掲げ、大きく左右に振ると場合によっては遠くにいる者に早く危機を知らせることができる。──そんな重要な道具だからこそ、アベルはその杖をアズラに託したのだ。
「え・・・アズラが?」
「そう。ここから家に帰って、助けを呼んで欲しい」
「......でも、」
アズラは斜面を恐る恐る見上げる。登れなくはないが、できれば登りたくないような斜面である。
そんなアズラの葛藤を察し、アベルはなるべく彼女に最大の安心を送るようにやさしく彼女の両肩に手を置いた。
「ここからよじ登るのが怖い気持ちはよくわかるよ。でもこのままここにいても危険なんだ」
アズラはごくりと、生唾を呑み込んでいた。
ミシミシと木が軋む音が、だんだん大きくなる。ぶら下がる羊だって、いつまで大人しくしているかもわからない。
「ア、アベルお兄ちゃんは、一緒に、登らないの?」
ひどく困惑した瞳がこちらを向く。アベルは思い付く可能性を口にした。
「ごめんね。そうしたいのはやまやまなんだけど、二人揃っていなくなったら、羊がまた錯乱して落ちてしまうかもしれない。ぼく一人なら《神の遊牧》で制御できるから。だから、まずは先に、アズラが行くんだ」
今の状況でそれが一番効率的で、リスクが少ない。アズラも羊も、せっかく助かった命なのだ。どうにかして、全員無事に帰りたい。
「わたし.......、」
未だ躊躇いの残る幼い双眸をまっすぐに見据え、アベルは後押しのように告げた。
「お願い。今全員で助かるには、アズラしかいないから」
「...わ、わかった!怖いけど、がんばる!」
「うん。いい子だね」
アズラは慎重な足取りで、木から斜面に下りる。中腰で斜面に立って牧羊杖で支えながら、一歩、一歩と歩みを進めている。
どれだけの時間がかかったのか、ついに崖の上まで登り切ると、アズラは振り返り、
「すぐに、助けを呼んでくるからね!アベルお兄ちゃん待ってて!」
「うん!アズラも気をつけてね!」
そのまま見送れば、スタスタと地上に戻ったアズラの走る後ろ姿が小さくなっていく。とりあえずアズラは助かったことに安堵した。
(あとは、助けに来るのを、無事に待つだけ──この子と一緒に)
幸いこの近く一体は危険な動物は生息していない。アズラは身の安全は大丈夫だろう。この後妹はきっと使命は全うしてくれる。そんな安心感があった。
問題は羊である。不安定な場所にいて、羊はずっとそわそわしていた。
「チッチ、チッチ......」
アベルは舌を鳴らす。これは、子羊が乳を飲む音に似ているのだ。この音を聞くと、不思議と羊は落ち着く。
幼い頃、母親から乳を飲んでいたことを思い出すのか、はたまた周囲に子羊がいると勘違いするのか。とにかく、動揺している羊にうってつけのものだった。
「お願い。“大人しくして”」
羊が少しだけ情緒安定してきたことに、アベルは続けて《神の遊牧》を発動し羊に優しく命令すれば、すぐに羊は落ち着きを取り戻す。すぐにばたばたと足を動かすのを止めてくれた。
「君もいい子だね...」
ようやく落ち着いた羊と一緒に、それからアベルはしばらく助けを待ち続けていた。
◇◇◇◇◇◇◇
「アズラ......まだかな」
あれからどれだけ待っても、一向に助けに来る気配はない。
(無事に家に辿り着いたのかな、野生の動物とかに襲われないといいけど)
五歳の子どもの足でここから家まで相当掛かる。ここへ駆けつけるにしてもそれなりの時間も掛かって当然だ。
何より今窮地に立たされるアベルにとって、ほんの短時間でさえも途方もなく長く感じてしまうのだ。
(大丈夫......助けは来る)
あとは、家族の誰かが来るまでこの状態が保つことを願うばかりだ。理想を言えば助けにくるのが大人である父か母であれば上出来だ。
しかし、希望を抱くアベルの耳には、ギ、ギィ、ギィイイと、木の悲鳴という絶望が聞こえる。もう無理だと、叫んでいるようだった。
バクンバクンと、心臓が跳ねる。どうか保ってくださいと、願うばかりだ。
「──!?」
だが、現実は常に容赦はない。
バキリ!と、一際大きく音が鳴った。自分の命を支えてきたものの断末魔がアベルの終焉を知らせる。
「う、うわぁアっ!?」
アベルの悲鳴は、ベエ~~! と高く鳴く羊の声に掻き消される。
ついに、木が折れてしまったのだ。
しかし、完全に真っ二つになったわけではなかった。まだ、樹皮が繋がっている。運の良いことに、羊は太い枝間に引っかかっていた。
(まだ、落下していない)
アベルの体は崖下へと放り出されそうになったが、間一髪で右手のみ木の枝に掴まる。
額から頬へ、玉の汗が伝っていく。手の平も、湿っていた。
メェ......メェエエエエ!
せっかく落ち着かせた羊であったが、再度ジタバタと動き始める。
「お、大人しく──」
羊が激しく動くたびに、樹皮がメリメリと剥がれていった。流石にこんな九死一生な状態で、《神の遊牧》を発動する集中力も余裕もない。
手汗で枝を掴んでい続けることができず、アベルの体はだんだんと斜面を滑っていく。やがて、一人と一匹の体重を支え切れず、ついには枝を掴む手が一気に滑った。
「いッッッ!!?」
その瞬間、手のひらに鋭い痛みが走る。どうやら、手を切ってしまったようだ。
(い、痛い...!)
すごく痛い!!
もう、限界だった。
手を放したら、どれだけ楽になれるか。しかし、アベルが落下したら、すぐ下にいる羊も道連れにしてしまうだろう。
(耐えて!耐えるんだ!)
それでも簡単に終焉を受け入れたくないがために歯を食いしばって耐えるが、
バリィイッ!!!
どうやら、先に木に限界がきてしまった。
(そんな......)
樹皮が剥がれ、アベルの掴んでいた枝ごと滑り落ちる。
──浮遊感が、アベルの肉体を支配した。
視界が真っ逆さま。
上下反転する世界。
生存本能。最後の抵抗として手を伸ばし宙を掻く。何にも触れない、届かないと知りながら。
体が揺らいだ。体勢が崩れる。上か下か、バランスを保つことができない。
風が強い。
目が痛い。
頭が痛い。
耳鳴りが遠い。
その瞬間、最後には既視感に襲われた。
( ──あ、)
アベルの脳裏にある光景がフラッシュバックした。
それは彼が今までずっと見て見ぬふりをしていた──心を棘つきの鎖で縛りつけるトラウマ。
五年前と同じだ。
違うのは、アベルがいる場所だけ。
今、崖の下へ落ちているのは、彼ではなく、自分なのだと。
(そっか。これが、ぼくへの罰なんだね)
失望。自己嫌悪。虚脱。
全てが終わったような喪失感。胸の奥が凍り付いて、何も考えられない。
必死で握り締めていた「希望」が、儚く砕けて消えてゆく。ようやく、これで終わりなのだと、頭のどこかで理解した。
(もう、いいよね.....?)
アベルは伸ばした手を下ろした──それは、死への抗いをやめたということだ。
瞼をぎゅっと閉じ、視界を闇に閉ざす。
真っ暗な闇の中で五感を失うという不思議な無重力感覚に浸かりながら、次に来きたるべき衝撃に備える。
アズラが無事に家まで帰れたか、妹の安否だけが心残りで───・・・・・・




