35話『蝕む追憶の影』
そこからはアベルとアズラはお互いに言葉を交わすことなく無言で歩いていた。そして、しばらく歩き続けると、
「あ・・・このあたりがいいね。今日はここの牧草地にしよう」
「うわ〜風が気持ちいい〜!この場所いい感じだね!」
木々が葉を揺らしている。
そよ風が牧草地を走り抜け、草が波打つように揺れる度に、葉の裏地の色が濃い緑を覗かせていく。
視界の奥で山羊や羊はメエメエベエベエと鳴きながら、バリバリと葉を食べている姿が飛び込む。今日も彼らは平和にのんびりと草を食んで過ごすのだろう。
そんな、なんでもない、いつも通りの風景。見慣れたいつもの日常。──それが余計にアベルの心の中の虚しさを助長した。
「じゃあ、この子たちが草を食べてる間に、ぼくたちも薬草を集めようか」
「うんっ!アズラも張り切って集めるよ!」
アベルとアズラは周辺で染色に使えそうな草花を探した。次々と摘んでいき、種類ごとに革袋に詰めていく。
太陽が昇り始めたら家畜を連れて、いったん戻ることにした。
「あー!疲れた!アズラお腹空いた〜」
「いっぱい歩いたもんね。ここまでにして、そろそろ帰ろうか」
少なくとも表面上はいつも通りに戻ったアベルを見て、アズラは密かに安堵した。
「うん!お母さんきっとご飯作って待ってるね!」
帰ったら、山羊の乳搾りをして、それから朝食の時間となるのだ。久々に朝の放牧に出かけたので、アベルたちのお腹は空腹を訴えていた。
ここ最近、休養に精のつく肉料理をたくさん食べたので、胃が大きくなっているのかもしれない。
(今日はちょっと近道で帰ってみようかな)
そう思った間もなく、その場に大きな力の波動が巻き上がり、思わず目を瞑ったアベルの耳に吹きぬける風に混じって自分の息を呑む音が届く。
(あそこは......)
家に急ぐ速かった足が、次第に遅くなっていき、止まる。
僅かに肩で息をするアベルがそこに見つけたものがあったのだ。
「アベルお兄ちゃん……?」
立ち止まる気配を察して、アズラが視線を向ければアベルは目を見開いてある一点を凝視している。
それはまさに信じられないといった表情で。
「ねぇ、お兄ちゃん。……ずっと立ち止まって、何かあるの?」
そんなアベルの様子に、思わず伸ばしかけたアズラの手は空を切る。アベルは脇目も振らずに一目散に先ほどその方向へと駆け出していた。
(……ここは、もしかして、)
──昔、カインとアベルがよく散歩や駆けっこした密林。
ああ、神様はなんて意地悪なのだろう。
このタイミングでこんな偶然を与えてくるのだから。
「ちょっと!?アベルお兄ちゃん!急に走り出してどうしたの!?」
「うん。この先の場所、昔来たことがあった気がするんだ」
「そうなの?じゃあ結構この辺りは別に初めてじゃないんだね」
「……もしかしたら、ぼくの記憶違いかもしれないけどね」
口ではそう言いながらも、その実、本気でそう思っているような口調ではなかった。
アベルの目は僅かに細められ、今目の前に広がる景色というよりは、自分の記憶の中の何かに焦点を合わせようとしているような不思議な胡乱さを湛えていた。
アベルお兄ちゃん、とその名前を呼ぼうとして、アズラは躊躇する。
続かない言葉をしまい終えたアベルの唇は、一切の歪みを知らないというように固く結ばれていた。アズラの呼びかけで動かしてしまうことが気が引けるほどに──。
アズラは思う。自分は、一体何をどうしたらその不安を払拭してやることができるのだろうかと。得体の知れない、出所の知れないそれを、どうやったら埋めることができるのだろうかと。
「アズラ。今日の帰り道はこのルートにしないかい?」
「え?それはいいけど...急になんで?」
「気分転換、かな。たまには違う道もいいかなって」
「ふーん。そういうものなの」
そう言うも、アズラの表情から不審の色が消えるどころか、ますます深まるばかりである。
アズラは一度アベルが指し示した道のりを一瞥して、
「でも、なんだか、放牧には向いてない道だね」
ぼそり、と思い浮かんだ感想を漏らしたその声は、まるで不穏の予兆を引き寄せるほど、重かった。
◇◆◇◆◇
白んだ夏空の下、アベルたちは羊の群れを引き連れてその密林へ入っていった。
木漏れ日が山道に点描を作っていて、陽射しはまだ柔らかくも温かい。
(ここでよく兄さんと散歩して、それで、追いかけっこでこの道に入って、それで───・・・・・・)
「あれ」から七年経つ今でもこの胸を圧迫する感情や、息詰まる感覚は褪せない。
(─────、)
不意に湧いた鋭い頭痛。
まるで頭蓋の内側から、今のアベルにどこかの誰かがなにかを大声で喚き散らして訴えかけてきているような不快感。
──なんでも、ない。
それを無視してかつての思い出を脳内で再生しながらも歩みを進んで行くうちに、一本道の細い山道へと差し掛かる。
さらにそこを進むにつれ、崖沿いの道へ変わった。
(ここ......、昔来た時はただの獣道だったのに、)
人間がようやく通れるほどの細い道しかない密林は、長年の時間の流れでここはすっかり山の路地が出来上がっているようだ。
「───・・・・・アズラ。ここの細道の左手、草むらの茂みに隠されて分かりづらいけど、崖っぷちだから気をつけてね。じゃないと落ちるよ」
「ええ!?あ、ほんとだ」
山の一部が崩れたせいか、左手は茂みに隠された崖っぷち。右手は背の高い木々に囲まれる細道。
「でも、こんなに分かりづらいのに、どうしてここの茂みが崖だって気づいたの?」
「──ただの勘だよ」
アベルの即答に刹那の躊躇いがあったことに、アズラは果たして気付いただろうか。
そのまま彼らは慣れない足取りでゆっくりと進む。
草を踏み、地面を踏み締め、大樹の根や隠されている花などを踏まないように気をつけて歩く。
石を蹴ったら、崖のほうへと転がっていく。
(やっぱり、ここにくるんじゃなかったな......)
これは、紛れもなく選ぶ道に失敗した。今更ながら一時の感情で私情に走った自分を内心後悔した。
眼下に広がる崖の斜面は一見して緩やかではあるものの、下った先は流れの早い川だ。
もしも、滑落してしまったら大変なことになる。慎重に、家畜を導かなければならない。
眼下に広がる崖の斜面は一見して緩やかではあるものの、下った先は流れの早い川だ。
もしも、滑落してしまったら大変なことになる。慎重に、家畜を導かなければならない。
(ここの崖・・・・・・)
ズキズキッと、こめかみが疼く痛みにアベルの息がついに少しだけ荒くなった。
(──あの時、ぼくは、)
鋭い頭痛の間隔はもはや狭まるというレベルでなく、断続的なものになっていた。
(カイン兄さんを...)
過去の記憶から無意識に逃げ続ける己の心の弱さに、ついに体が悲鳴を上げたということなのだろうか。
だがアベルには痛む理由はわからなくても、痛みの原因はわかっているつもりだ。それでも、アベルは分からないフリをする。
(仕方ない。こんな細い一本道に今更羊たちを引き返らせる訳にはいかないし)
とにかく慎重に、早く帰ろう。──そんなことを考えている折に、事件は起こった。
「きゃぁあああっっ!?」
突然、アズラの悲鳴が聞こえた。
何事かと思ってアベルは振り返るが、背後に続く羊が彼の背中を額でぐいぐい押す。一本道なので、立ち止まることさえ許されないのだ。
「アズラ──!」
アベルは咄嗟に牧羊の杖を地面に置き、道に突き出るように生えていた太い木の枝に向かって大きく跳んだ。
両手で枝を掴んだあと、足を振り子のように思いっきり動かして腕の力と共に山の木へよじ登る。見事、木の枝の上へ無事着地できた。
目を凝らし、アズラのいる方向を見る。
「なっ・・・!」
なんと、崖に一匹の羊が落ちかけていたのだ。
アズラは自分の牧羊杖で羊の首を引っかけ、なんとか落ちないように必死に踏ん張っている。
だが、羊を支えるには、幼いアズラの力だけでは到底足りない。このままでは、アズラは羊共々崖の下に落ちてしまう。そうなってしまっては、怪我だけでは済まない。
「アズラァ──────!!!手を!今すぐ手を離してっ!」
「うっ、だ、だめっ、これは、アベルお兄ちゃんが大事に育てた羊、っ、・・・財産なのっ!」
「そんなの!っ、このままだとアズラの命が危ないよ!?」
「いや!絶対離さない!」
どんなにアベルが声を張り上げて訴えても、アズラは聞き入れようとしない。顔を真っ赤にさせてまで、意地を張って羊を助けようとする。
「......っ、待ってて!今助けに行くからっ!」
アベルはすぐに木から降りて、前進する羊の間を縫うように突き進む。
前進していた羊たちは、進行方向を妨害するアベルにベエベエと不満の声を高らかに上げた。
「ごめんっ!みんな!通して!」
《神の遊牧》を発動するアベルの鶴の一声による、羊たちは大人しくゆっくりと道を譲ってくれた。
「ケレン!みんなを連れて先に進んでいて!」
先をいく山羊のケレンも異変に気づいたようだ。アベルの指示に静かに頷き、羊の群れを家まで導き始めた。
やはり、羊の放牧に一緒にいる山羊の存在は欠かせない。この時ほどアベルは改めて放牧における羊の性質と山羊の役割に感謝したことはなかった。
羊の列の最後尾を抜け、ようやくアベルはアズラのもとへと駆けつけた。
「アズラ!」
「あ、アベル、お兄ちゃん...っ」
全身を踏ん張って羊を繋ぎ止めているせいか、アズラは顔を真っ赤にさせ、言葉発するのも苦しそうだった。
「手を!手を離して...!?」
「うぅ...」
「っ」
アズラは言う事を聞かない。どうやら意地でも手を離す気はないようだ。
仕方ないので、アベルも一緒になって羊を引っ張り上げることにした。
しかし、
(・・・ダメだ。一箇所から集中して引き上げても力がうまく発揮できない。牧羊の杖を持ってこればよかったっ)
アベルは内心牧羊の杖を置いてきた事を後悔した。牧羊の杖さえあれば、二箇所から引っ張れば羊を引き上げられたかもしれないのに。
「アベルお兄ちゃんっ、ごめんなさいっ!アズラがドジをしちゃったから」
「謝らないで?自分を責めることじゃないよ」
稀にこうして放牧中に崖に足を滑らせて落ちる家畜はいる。助けられる時もあれば、助けられない時も当然ある。その時は運がなかったと諦めるしかない。
「でも、アズラ、これ以上はもう無理だよ。かわいそうだけど、手を、離そう?」
「でも、」
「お父さんとお母さんにはぼくから言っておくから」
「......うぅ。わ、わかっ、た。ごめん、なさいっ」
なんとかアズラに説得できた。だがその直後、まさかの事態となる。
ベェえええええ!!!
アベルたちが手を離すことで自分の命が風前の灯となることを察したのか、落ちかけていた羊が突然暴れ出したのだ。
「うわぁあ!?」
「キャァああっ!?」
牧羊杖を掴んでいたアベルとアズラの体は、咄嗟に反応できず、杖ごとあっさりと傾いてしまう。
羊の重さで、二人はそのまま傾斜に転げ落ちる。アズラは混乱状態にあるのか、牧羊杖を放そうとしない。
「アズラ!杖を放してっ、早く!」
だが、アベルの声は到底アズラに届きそうにない。おそらくアズラは死んでも決して杖を放さないだろう。
その意地の根底には、遊牧を生業とするアベルの貢献度が、家族の生活を支える割合が多く占められるカインの農業には及ばないということがあるのかもしれない。
失敗など許されない。一匹でも羊を失うのはアベルの仕事の損失に大きく影響する。アズラはそれほどの責任感を持って、アベルの家畜の世話の手伝いをしているのだ。
カインに対する劣等感。そして家族に対する後ろめたさを抱えるアベルを少しでも手助けしたいことは立派である。
(このままでは、崖のすぐ下の流れの速い川に真っ逆さまだ)
けれど、アズラは大事なことを見落としている。───命がなければ、何もできないということを。かといって、アベルにはアズラを見捨てるなんて選択は毛頭ない。
「うわぁあああーーーーーー!?」
しかし、無慈悲にも時は待ってはくれなかった。
アベルたちは湖に沈む重石のように、下へ下へと吸い込まれていく。




