34話『静かに奏でる不協和音』★
「三才の頃の記憶で、何か覚えていることはないか」と問われても、無言で首を振って否定せざるを得ないほど、幼い時分の記憶は蟲にでも喰われたようにひどく不明瞭で曖昧だ。
それでも、はっきりと思い出せる記憶がいくつかある。
好奇心でイタズラを仕掛け、怪我をさせた母の困った顔。
悪ふざけの度がすぎて、珍しく説教で頭に飛んでくる父の拳骨。
父が連れてきた小山羊のケレンのずっしりした重み。
そして、優しい兄と二人きりであの真っ赤な密林で遊んだ記憶だ。
だが、同時にそれは思い出したくない記憶でもある。──五年前の「あの日」に鍵をかけた記憶。
隠していたものが徐々に溢れ出して。思い出したくないものまでも一緒に流れ出してしまうようで怖くなる──あの遠い掻き毟るような重く痛い記憶。
すべてを忘れたくて自分で消して、無かったことにして、目と耳を塞いだ。塞ぐことで救われるような気がした。
本当は徐々に思い出し始めてる。
忘れたかった記憶、忘れてはならない記憶。
ああ、どうして今更思い出さないといけないのだろう。あの時、頑張って忘れたんじゃないか。
やっぱり思い出したくない。だからといって、簡単に忘れられるものでもない。
未だに臆病な自分はそれを「忘れること」も「思い出すこと」も選べないまま、ここまで来た。
カインだってあの日の事を、深く根に持っているはずだ。
血の気を失せた顔。
固く閉じられた瞳。
身じろぎ一つもしない濡れた肢体。
──今でも、あの日のことを思い出して、後悔に襲われることがある。
差し伸べた手を強く振り払われて、恨みがましい目で睨まれる。
『触るな。汚らわしい』
拒絶の言葉には悪意と、釣り上がる目には嫌悪感と、こちらの声を封じ込めるには十分すぎるほどの遺恨が込められていて、
「────」
何を言えばよかったのか、今でもわからない。
何を思っていたのか、今では思い出せない。
何をするべきだったのか、今でもその答えは見つからない。
ただハッキリした事が一つあった。間違いなく、あの忌まわしい日を境に、兄は変わってしまった。
──だから今も、アベルはふと一人立ち止まって、あの瞬間を脳内に幾度も反芻する。
夏。
ミーン、ミーン、と蝉が鳴く季節。
そして、
晴れ渡る夏空の下、アベルは強く降り注ぐ日差しに目を細めていた。
──少し、頭蓋が軋む。
「アベルお兄ちゃん何ボーとしてるの!ほらっ!はやく〜!」
「・・・・ぁ、ごめんね」
遠くで腰に手を当ててぷりぷりと悪態をつくアズラに軽く謝り、アベルは先頭にかける彼女を追うように、羊たちを導く。
今日は、アベルとアズラ二人で放牧をする日。家畜の群れは草原を横切り、家畜が好む採食対象が広がる牧草地へと到着した。
「う〜〜ん!今日はいいお天気!まさに天晴れって感じだよね!」
「そうだね……、放牧にはもってこいだね」
青々とした草の生い茂る小高い丘には、夏を思わせる爽やかな風が吹いていた。
涼風がアベルの前髪と、背の高い草の緑を大いに揺らし、丘を抜け、草原を行き過ぎ、白い雲の踊る青い空の彼方へと駆け抜けていく。
見えないそれに擽られた前髪に軽く指先で触れて、アベルは日差しの眩さに目を細めたあと、ゆっくりと視線を下ろして前を見た。
鼻歌を歌いながら、アズラはスキップするような軽い足取りで、羊たちと一緒に草原を駆け巡っていた。
「なんだかアズラすごく、元気だね」
「そりゃそうだよ〜!やっとアベルお兄ちゃんと二人っきりで放牧のお手伝いができるんだよっ!アズラがいれば、アベルお兄ちゃんも放牧でヘマするようなこともないよ!」
「ふふ、それは、頼もしいね」
歩き出すのを再開しながら、機嫌よさそうに笑うアズラがアベルの背をバシバシッと叩く。
その小柄に似合わず意外なその威力に僅かに顔を顰めながら、アベルはアズラのテンションの高さに苦笑いした。
今朝のアズラはやけに気分に余裕があるように見える。──こうして隣り合って歩いているだけで、頭が割れそうに痛むアベルとは対照的に。
「んもう!アベルお兄ちゃんこそ元気ないよ?あまりボーとしてると、また羊たちがどっか行って悪さしちゃうよ?」
「それは正直困るなぁ……」
「そうそう!これでまたカインお兄ちゃんの畑を荒らしたら、今度こそもう本当に仲直りとか無理だと思うなぁ〜」
「仲直りもなにも、ぼくはもう、」
アベルはそこで言葉を切る。なぁに?とアズラがその先を促すと、アベルは悲しそうに眉を下げて無言で微笑んだ。
彼がなにを考えているのかアズラは想像しかできない。想像の正解を確認することも正直憚られる。
「……なんかね、最近のアベルお兄ちゃんよくボーッとすること増えたよね。もしかしてまだ調子悪いの?」
「まぁ確かにここ数日ずっと休養してたから体力は落ちたかなぁ…」
「無理もないよ。熊に襲われて無傷なんてありえないし、アベルお兄ちゃんが完治するまでは仕事させないって、お母さんずっと看病してたもんね〜」
「うーん、お母さんは大袈裟なんだよ。結果ぼくは打撲と、全身の擦り傷程度で済んだ訳だし」
「でもアズラ、お母さんの気持ちわかるよ!あの日ケレンがお父さんだけじゃなく、気絶したアベルお兄ちゃんも一緒に背負って帰ってきたとき、アズラすごく怖かったんだから!」
「うん……心配かけちゃってごめんね」
そう謝るアベルは静かに息を吸いこんだ。
澄んだ朝の空気と、纏わりつくような草の匂いが肺を浄化してくれるようだ。
「自分でもね、打撲で済んで奇跡だと思ってるよ」
「もうっ!だからと言ってアベルお兄ちゃんも大した事ない訳じゃないんだからね!!どうしてそんなに他人事なの!もっと自分を大事にしてよ!」
「自分を軽視するつもりはないけど、ただぼくなんかよりずっと重症なのは──」
そこで不意にアベルは口を閉じた。
あの恐ろしい熊の襲撃から、季節が一つ変わるほど長い日が経過した。
一番重症で瀕死状態に近かったアダムはその驚異的回復力で三日でもう動けるようになった。回復早々また狩りの仕事に精を出していた。
ただ問題なのは───。
「カインお兄さんは、あれから目を覚さないんだ」
「そう、だね。多分右目から血がいっぱい出ちゃったショックかもって、お母さんが言ってた」
「そうなんだ……」
わかりやすいほどの空返事に、アズラは隣に並んで歩くアベルを見やった。
アベルは一度もカインの見舞いに行っていない。それどころか、いなくてもまったく気にしていないかのように振舞っている。
珍しく何を考えているのかわからない次兄の横顔をちらりと見て、アズラは家に運ばれたときの長兄のことを思い出した。
夥しい出血の量。
僅かにしか力の篭らない手。
血の気を失せた蒼白な顔。
それなのに、庇われた張本人はもう何十日も経つというのに一度もカインを見舞っていないと言う。
アダムもエバもそれに気づいているようだが、如何せん当人たちの問題に口を挟むこともできず、静かに見守っていた。
アズラですら、カインの行いに感謝して、彼を気遣う言葉を掛けているのに。なんせ彼が身を挺して庇ってくれたおかげで、自分の大事な人であるアベルの命は救われたのだから。
一旦口を開き掛けてアズラは止めた。それを口にしていいかどうかを決めかねていたからである。
「あのね、アベルお兄ちゃん。一つ聞いてもいい?」
「うん?なんだい?」
少しの間口を引き結んで顔を俯けていたアズラだが、やがて決意したように顔を上げるとアベルを真っ直ぐに見つめ、今まで心の中で引っ掛かっていた疑問を彼にぶつけた。
「…カインお兄ちゃんのお見舞い、行かないの?」
その言葉に、アベルが一瞬表情を硬くした。
どうやら完全に気にしていないわけではないらしい反応に、アズラは更に畳み掛けた。
「カインお兄ちゃんの容態、知らないってことないでしょ?」
一生懸命看病しているエバの話では数日経っても意識が戻らなかった場合は覚悟して欲しいということだったそうだ。
血液も大量に失っていて、深い傷を負った右目ももう少しで失明する羽目になるところだった。
大量出血の影響で脳に障害が残るかもしれないし、もう二度と目覚めないかもしれない。生きながらに死んでいるように眠り続けている状態のままかもしれないし、命の灯火が費えてしまうかもしれない。──それも全てはカイン次第だと。
「いつものアベルお兄ちゃんならずっとそばにつきっきりで、手を握ってあげたり、絶対カインお兄ちゃんのこと心配で心配でたまらないはずだよ。なのに、」
そこで一度言葉を止め、アズラは色々と自分の中の消化し難い感情にどう対処すべきか悩むように唇を噛んでいたが、また言葉を続けることを選んだ。
「……あんなに悩みまくるくらい気に掛けてたのに、どうして、今更カインお兄ちゃんを、避けるの?」
納得が行かないアズラの問いを被さるように、アベルもまた問いかけを発する。
「──ぼくが見舞いに行って、どうなるっていうの?」
「アベル、お兄ちゃん……?」
静かで、消えてしまいそうな声にアズラが眉を上げると、アベルはじっと彼女の瞳の奥を覗き込むように、
「父さんの忠告を無視して、勝手なエゴでカイン兄さんの様子を見に行って、それで勝手に危険な目に遭うぼくを庇ってくれてありがとう、とでも言えばいいの?」
あの時アベルがその場にいなければ、少しは手を煩うものの最終的には犠牲なしに熊を仕留められた結末があったはずだ。
カインはアベルを庇う必要はなかったし、何よりも彼の右目が切り付けられる惨事にはならなかった筈だ。
「誰のせいでカイン兄さんはああなってると思っているの?…ぼくに何をする資格があるというの」
アベルの胸中を埋めるのは唯一つ──罪悪感だったのだ。
「…アベルお兄ちゃん、自分のせいだと思ってる?」
「それが、事実だから」
あの熊の出没するところに再び足を突っ込んだのは他でもないアベルだった。
自ら危険に飛び込んだ張本人が、予想外に身代わりになったカインに、今更合わせる顔が無いとでも思っているのだろうか。カインの身を慮る資格など無いと言いたいのだろうか。
「でも!!アベルお兄ちゃんのおかげで最後二人は助かったんだよ!」
「元はと言えば発端はぼくなんだよ……!」
アベルは拳を強く握った。
これでカインとアベルの確執は昔からあったけれど、これで決定的になっただろう。カインはあんな大けがを負わされたことを忘れないだろうし、庇われたアベルにとっても心苦しい記憶であるはずだ。
だから、アベルの後悔は決して消えない。
最初から忠告通り狩りの後あのまま帰路に着いていれば、足手纏いじゃなかったら、父も兄もあんな変わり果てた姿で、生死を彷徨うようなことにはきっとならなかっただろう。
「誰がなんと言おうと、ぼくのせいなんだ」
顔を歪めて苦々しく吐き出したアベルの断言に、アズラは二の句を継ぐことができなかった──今は何を言ってもアベルに届かない気がしたからである。
「ねぇ、アズラ。ぼくね、最近ずっと思ってるんだ。もう、カイン兄さんに関わらない方が、いいんじゃないかって」
「アベルお兄ちゃん……」
肩を落としながら項垂れたあと、アベルはずっと溜めていた苦悩を吐露した。
囁くほどの小さな声で、感情を押し殺すような言葉に、アズラはアベルの心の傷をようやく思い知る。
庇われたアベルも傷つかないわけはなかったのだ。あの熊の襲撃の一件があって以来、彼は身を引こうとしている。カインの負担になる事を恐れて離れようとしている。
「確かにカイン兄さんが生きてくれたことはすごく嬉しいし、心の底からよかったと思っているよ」
右目を負傷してからカインはずっと昏睡状態だった。──そんな希望とも絶望ともつかない現実。
けれど、確かにカインは生きていた。よくよく見てみれば僅かに胸も上下していて微かだけど呼吸している事が分かる。そっと手を取ってみれば、冷たい中にも僅かな温もりが感じ取れて思わず涙が出そうになる。
(生きていた。生きていてくれた)
それだけでいい。もう、その他には何も望まない。だけど、ただひとつ、望むとすれば。
(もうぼくのせいで、また兄さんが傷つかずに済むように…)
───ああ、そうか。
やっと分かった。こんなにも簡単な事を。
いや、違う。見ないフリしてたものをちゃんと見つめる事ができただけ。
「だけど、さすがにね、今回のことでいい加減気づいたんだ。結局ぼくは昔からずっと厄病神で、近づけば近づくほどカイン兄さんが痛い目にあうばかりってことをね」
力なくつぶやきながら、アベルは自分の胸にすでに諦念が生まれていることを悟った。
切実な願いは、いつだって届かない。届くどころか相手を傷つけるばかり。この苦しい思いが報われることなく、月日によって摩耗していくことを。
「だから、もうやめよう。ぼくなんかが近づかない方が、きっとカイン兄さんのためなんだ」
悲しいぐらいの断絶がその一言に込められた。
その言葉の裏でどんな葛藤があったのかなんて、その優しい笑みの下でどれだけ苦しんでいたのかなんて、アズラにはすべてわかってあげられない。
けれど、それがアベルの、上手く笑おうとして失敗した、出来損ないの笑みであったのはよくわかる。
「アベルお兄ちゃんは、それでいいの?それがアベルお兄ちゃんの望んでいることなの?」
やるせないような声でアズラは呟きを落とす。
その言葉に迷いがまったく生まれなかったわけじゃない。だがそれでも、カインのところへは行けない。行く気はなかった。
兄にどう接すればいいのか──どんな自分で接すればいいのか、アベルはとうに見失ってしまっていたからだった。
(もうボクたちはきっと、元には戻れない)
遠い時のかなたでモノクロに固まっていた記憶が、鮮やかに息を吹き返す。きっともう取り戻せはしないその過去に、アベルの胸はチクリと痛んだ。
「アベルお兄ちゃん……無理していない?」
「──っ」
だから物言いたげなアズラの瞳からアベルは視線を逸らす。逃げたと思われても構わなかった。そんなアベルを見て、アズラは、
──ああ、拒まれた。
そこまでは察しがつくものの、踏み込み方が分からない。アベルを傷付けまいとすればするほど、アズラもこれ以上どうしていいのかが分からなくなる。
「なんだかそれって、すごく悲しいね」
声を掛けることに窮していると、アズラがポツリと零す。
(もうこれは、二人の問題なんだよね)
割り込んで良いことじゃない、そう言い聞かせて、アズラはそれ以上口を挟めなかった。
ただ、悲観と諦観に満ちるアベルの表情に胸が痛くてたまらなかった。




