33話『悲しみをやさしさに』★
いつからだろう。誰かの愛を生理的に受け付けられなくなったのは。
どの時点でカインが変わってしまったのか、どこからなにがずれたのか、カイン自身にすらもわからなかった。ただ一つ確かなのは、そして、彼の中に目覚める「異質」はあまりにも唐突で、理不尽なものだった。
ある凶暴な感情がカインの幼い時からつねに身近に存在していた。原因なんて当然彼自身にもわからない。カインにできたことと言えば、己の暴虐を無為にぶつけまいと、日々怯えながらも、理性一つで制御するだけだった。
だが、封印を続けていたカインの精神が揺らぐ時、封印も揺らぎつつあった。
結論として、カインの努力が報われることはなく、いつしか家族の中での評価では気難しく、扱いに困る存在へと定着しつつあるのだ。
「こんな異常者としかいえないオレに、あいつも嫌いになってくれれば、それを理由にオレのこの感情もようやく矛盾の苦しみから解放される気がして、」
もはや自分は救いようがない。のだと知ってもらいことで、誰かを拒むことしかできないのを自他共に認められることで、初めて救われるはずだと、──それがこれまでのカインにとって、どれほど都合のいい幻想だったか。心の奥底の無意識で、あの日々の不条理に、そんな決着を期待に目が眩んでいたのだ。
「なのに、それでもアベルはいつだってバカみたいに自分のせいにして、昔と変わらずお人好しで、やさしくオレに接しようとして、昔みたいに戻りたいって仲直りを求めていて、オレは、そんな弟をどこかで嬉しく思うべきなのに、実際はすごく、──腹立たしくて、憎たらしかったんだ」
あの頃と変わらない、ひたむきな兄弟愛をアベルが自分に与え続けてくれていることが、カインには不可解でならない。
アベルから見ればカインは唐突に豹変して、急に理由も言わずに冷たくなって、ひたすらに自分を避けて、時に心を許してくれたかと思えばまた拒絶してくる。そういうわけのわからない存在であるはずなのに、
「わかってる。どんなに言い訳したって、結局は自分の中の矛盾を認めたくなくて、あいつに八つ当たりしているのとなんら変わっていないって」
こうして振り返る猶予を与えられて、少しだけ変わったと思える今の心境だからこそ自分の醜さがわかる。
カインは自分で自分を見限る勇気がなかったから、家族の不和の元凶に自分がなりたくないから、誰かが悪役を買って出てくれるのを心のどこかで待ち続けていたのだ。無意識にずっと誰かに責任転嫁をして、尻拭いをしてほしかったのだ。
──ああ、なんて、救いようがない。
他力本願のくせにどこか受け身である自分に、カインは渇いた笑みすらも浮かべられない。代わりに浮かぶのは、ひたすら胸の中から湧き上がる自己嫌悪感だけだった。
「結局オレは卑怯者で、どう足掻いても誰かを傷つけることしかできないダメなやつなんだ」
カインの長い独白を聞き終えて、エバは考え込むように目をつむって黙り込んでいる。そんな母の姿を目の前にしながら、カインは自分の喉の奥から漏れ出してきそうな己の弱さへの悲嘆を必死で押し殺していた。
「この右目の傷だって......、オレへの罰のようなものだ」
カインは自分の右目の傷痕をそっと撫でた。
──やさしい弟を傷つけてきた罰。もはや痛みを感じないその部分にはくっきりとした"跡"が残った。
今更傷跡を気にするほど見た目に気など遣っていないし、別にカイン本人はそれを惜しむなんてことはないが、周りはそれを見て良い顔はしないのだろう。そんな事をぼんやりと考えながら、
「人の愛を受け入れないオレ自身にも愛なんて持たない。持ってるわけが、ない」
「カイン......、」
愛なんて持たない。その言葉を聞いて、それは違うと、エバは思った。
本当の意味で愛のない人ならば、カインはアベルを見殺してもよかったはずだ。それはアベルが熊から逃げる際、足を滑らせて木から落ちて転落死体になっているか、のちに熊の餌食になっているということだ。
だからカインの右目の傷だって、本人は罰だと言うが、エバからしてみれば、それこそ弟を庇った「愛の証」とすら思える。ある日突然失ったはずの兄弟愛も家族愛も、実はまだカインの胸の奥深く埋もれているはずだと言えるのではないか。
だが今エバがここでそのように否定したところで、カイン自身はきっと頑なにそれを認めないのだろう。
だから、
「──ごめんね。カイン」
「!」
「今まで気づいてあげられなくて」
どんなに矛盾まみれで、歪だろうと、それは紛れもないカインの本音だ。
相反する感情はカインの中では互いにその存在を許容できず、彼は表面と内心でそれらをすべて抱え込んだまま、誰にも打ち明けずに生き足掻く時間を送ってきた──その心が擦り切れる寸前まで。
そんなカインの苦悶を、家族はずっと見落とし、さらには追い詰めてきたのだ。
「ねぇ...、カイン」
カインの中に埋もれてしまった“愛”。それを第三者のエバが──誰かがもう一度掘り起こしてあげることはできない。カイン自身でそれを掘り起こさなくては意味がない。
「そろそろ、──自分のこと、許してあげたら?」
だから、せめてエバにできるのは、愛を見失ったカインにそれを掘り起こす場所だけを示し、導くだけ。
「ゆる、す」
「あなたの中に潜む矛盾なもの。それにあなたがどれほど苦しんだのか。一体何があって、何を知ってそんなに苦しんでいるのか、お母さんにはわからないわ。わかります、なんて軽はずみに言えることじゃないもの」
「きっと、家族の誰もがあなたの苦しみを救ってあげられない。その苦しみをなんとかできるのは、あなたしかいない」
「───── 」
「それにあなたがなんて言おうと、それだけ長い間どうしようもなく苦しむことができるのは、やっぱり、───あなたがやさしいからなのよ」
先ほどカインを激昂させた言葉をもう一度繰り返すエバ。
その彼女の言葉に信じられないものを感じて、カインは唇を震わせていよいよ二の句が継げなかった。
「アベルを傷つくことを厭わないなら、あなたは心の中の理由のない悪意にそのまま屈していればよかったのよ。でも、あなたはアベルから向けられる愛が苦しくても、それに抗った。最後まで」
アベルをひどく冷たく遠ざけたのは、彼をありのまま傷つけたくなかったから、アベルに向けそうになる悪意という名の攻撃性がそれ以上暴発しないため。
「これって“やさしさ”以外になんと言うの?」
歌うように、諭すように、エバがいう。
それを肯定するのがとても難しくて、けれど、肯定以外に道もない。
困惑と葛藤を喉から出したくなくて、かろうじてカインが俯くと、エバは「もういいのよ」と極力なまでに言った。
「......そうは言うが、......矛盾、してるだろ」
それでも卑怯なことはしまいと、カインの顔を上げて向き直る。全てを見透かせてそうな温かい金色と視線が合わさった時だ。
「矛盾しても、いいじゃない」
「......、」
白い腕が前触れなく伸びてきて、ふわりと頭を抱き込まれた。その突然の行動に、カインは驚くというよりも訳が分からない気持ちに支配される。
母の柔らかさに包まれて、漂うのは甘い香り。
「自分の矛盾の感情を受け入れてあげて。──それが許すってことなのよ」
叱責を求めていたカインに与えられたのは、優しく包むような抱擁だった。
聞こえるのは、鼓動の音。
予想を反して穏やかにリズム打つソレに、不思議と自然と波立ったカインの心が凪いでいく。
「感情なんて、極端なものじゃなく色々交えて複雑なものでいいじゃない」
大事に思うのに、憎たらしい。
守りたいのに、無性に傷つけたい。
優しくしたいのに、冷たく突き放す。
「そういう矛盾な感情も、また“人間”だとは思うわ。それを恐れて目を逸らすより、ありのまま受け入れてあげて。あとはそれをあなたのやさしさで頑張って制御するの」
やがて、背中を丸めたカインがエバの左肩にほんの少しだけ、軽く頭を預けた。跳ねた白銀の髪がエバの首元を擽ぐる。
「もう、遅い......」
ぽつり、とカインの口から漏れた呟き──それが、彼の全ての後悔を一言で表現している。
「すでにオレはたくさん誰かを傷つけてきた。──傷つけすぎたんだ」
震えて、涙を流し、遠ざかる兄を追いかけ続ける弟に対して、いつも静かに手を差し伸べてくれる家族に対して、背を向けて裏切り続ける事を否応なしに選択したカインに挽回する資格はない。
「今更オレに、人の愛を、受け入れることなんて───」
愛を込めた人の温もりを拒むかのように、カインの身体が小刻みに震えていた。
こうして自分の身を母に預ける今でさえも、そのやさしさが恐ろしくて堪らないというのに。
決して泣いているわけではないだろう。それでも、今ならエバは息子の内側が深い苦しみの中にいるのが分かる。
皮肉にも今までは自分たち家族の愛がカインに追い打ちをかけていたことを思い知らされざるおえなかった。
───だけど、
「過ちを償うのに、遅いことなんてないわ」
遅すぎた良心の呵責に陥るカインに頭を包み込む両手に力を強めた。陽だまりにも似た柔らかな響きがすぐ耳元から聞こえる。
「私たち人間は常に試行錯誤を繰り返して生きるものよ。過去で犯した過ちがあるのなら、これからは少しずつ償っていけばいいじゃない。犯した罪の分だけ悔いて、償っていけば、きっといつか救済はあるわ」
掛けられるのは、心の隅々にまで染み渡るような無私の愛。
「だって、もし過去の過ちを一生取り戻せなかったら、私たち人間はなんのために生き続けると言うのかしら」
慈しみ、思いやる感情に満たされた声。
張り詰めた心を溶かすような声がカインの苦しみに直接的に干渉する。自責による痛みが、軋みが、一斉に音を弱めていく。
「今のあなたなら、きっと大丈夫よ。そんな憑き物が落ちたような、顔をしているんだから」
カインは抱擁をゆっくり解いて、母なる相手を見上げた。
エバの瞳には真摯な輝きだけがあり、その微笑みにはカインのことを、息子のことを心底信じ切った色だけしか浮かんでいない。
「どんな感情でも、あなたはあなたよ。カイン。どんなあなたであれ、私たちのかわいい息子。アベルたちの誇らしい兄よ」
その笑みを正面で見て、カインの胸の内で重く固まっていたしこりが音を立てて落ちる。抱えていた闇が晴れていき、鬱屈とした感情が洗われる感覚。
ずいぶんと身勝手で独りよがりな感慨ではあったが、カインは今、確かに救われていた。
「だからもう誰かの愛を、怖がらなくていいの。自分を許して、あげて」
カインの内心に残る最後の鬱屈が、感傷が、エバの金色の瞳を真っ直ぐに見つめて、断言する彼女の前に霧散した。
───過ちを、償う。そのためには、
「オレは、どうすればいい?」
そう問いかけるカインは、まるで迷子のような表情をしていた。
一度、立ち止まってしまった。
再び歩き出すことは、許されるのか。
その時カインが歩くのは、新しい道であるのか、今と同じ道であるのか。
「カインは、どうしたいの?」
「───── 」
逆に問い返すエバにカインは答えなかった。きっと答えられなかったのだろう。彼はもうずっと前から、“弟”も“自分”も見失っていたのだから。
「オレは───」
ドンドンドンドン!!!
カインの言葉の続きに終止符を打ったのは、激しいドアを叩く音と、
「お願い!助けて!早く誰か来て!!」
とても切羽詰まった、助けを求める幼い少女の泣き声だった。




