32話『愛。覚えていますか』
幼い頃から、白く穢れのない物を汚すのが好きだった。
狩りで捉えたうさぎを無意味に切りつけて、無断に真っ赤に染め上げた。
畑の端のたんぽぽが綺麗に生え揃えた白い綿毛をやさしく吹き飛ばすのではなく、素手で強く叩き、見た目が無惨に飛び散らかす様を楽しんでいた。
降り積もった新雪を踏み、自らの足跡を付けると、ぞくぞくしたものだ。さらにそのあとはグチャグチャに掻き回せば、更なる高揚を得られる。
今思えば、これは、きっと、ある種の「自覚なき悪意」なのだろう。
誰にも汚された事の無い、純真無垢な生き物を己の手で壊してみたい。
──本能がそう命じるのだ。
──人からの“愛”が怖いんでしょう?
次いで紡がれた銀鈴のような響きが不愉快にカインの耳朶を打った。
初っ端から核心を突かれて、カインは絶句するより他になかった。一瞬呼吸を忘れるほどに。
「─────」
沈黙を越えて、空白はカインの脳内を席巻する。
揺れる視線を僅かに向ければ、優しげな金色の瞳がこちらを見つめていた。動悸が早くなっていくのが嫌でもわかった。
エバの確信めいた言葉と態度に、カインの内心はひどく狼狽していた。目はその動揺を隠すように右往左往する。
早く何か言わなければと気持ちだけが急く。これ以上肯定の意味を持つ沈黙を作ることだけは避けなければいけない、それだけは理解していた。
やがて、ようやく口から出た精一杯の言葉は、
「なんだ、それ。そんな道理はない」
「うふふ、そんなに顔を引き攣らせて、よく言うわね」
今まで以上に眉を寄せ、憎々しそうに、エバを睨むカイン。カインの触れてほしくない領域に、今、汚れた手で押し入ったと確信する。
胸の内に痛痒な感覚が走るのを感じながら、嫌がる彼の心に土足で踏み入る行為だとわかっていながら、エバは躊躇する気持ちを押し殺して、泰然とした態度でカインに微笑みかけた。
「カイン。あなたはきっと嘘をつくの下手ね。だってあなたは自分が思っている以上に結構わかりやすいもの」
「なにを、」
「家族から愛情を向けられて、あなたいつも迷惑そうな顔をしていたじゃない」
「!」
心当たりがあり過ぎたのか、カインは目を見開く。
どこまでも優しく、愛情がいっぱいな家族が一瞬カインの目に思い浮かぶ。仲が良いと言えるほどカインは素直ではなかったが、それでもカインが居心地の良さをかつて感じていたのは確かだった。
──だけど、今では
父に褒められるのは虚無感しかなかった。
母に優しくされるのは心許なかった。
妹から恋慕されるのは無関心だった。
弟から懐かれるのは鬱陶しかった。
気づいたころには、そういう人から向けられるすべての愛が、無条件に受け付けられなくなった── それがカインの“異常”。異常な排他性。
苛立ちに滲んでいた顔が幼さを取り戻した。カインは知らず知らずの内に俯いて、顔に影を落とす。
「それでも、」
足音が聞こえて、カインは目線を持ち上げる。すぐ目の前、指を伸ばせば届く位置にエバが立っていた。
相変わらずエバが笑っていた。全てを包み込む、温かな微笑み。長い美しい白銀の髪が彼女の感情を表すように静かに揺れていて、金色の瞳が真っ直ぐにカインを見下ろしていた。
「アベルだけは、ちゃんと見ていたんでしょう?」
──それが答え。それがすべて。
エバの静逸な目がそう語っていた。それを見てカインは改めて思った。
(やはり......この女は苦手だ)
母は昔からそうだった。ただそこで微笑んでいるだけではなく、いつも俯瞰していてすべてを見透かしている。
そんな母の前では、嘘にまみれた否定を繰り返すのは白々しいだけだろう。今さら取り繕ったところで何の意味もないのはわかっていた。
だからきっとその瞬間、カインはエバに負けたのだろう。母の洞察力の前に膝をついたのだ。
超然とした母の指摘に、カインはゆっくりと息を吐いた。身体中に立ち込めていた焦りが少しずつ抜けていく。それは一種の諦めに近い。
だが、カインはこの瞬間、心に縛り付けていた鎖が一気に外れるような感覚に陥っていた。
だから、
「・・・、ああ、そうだな。オレは見ていた」
───本音。
「そうだ......、ちゃんと見ている、はずだった。アイツへの、兄としての愛は、確かにあった、はず、だった......」
ようやく、曝け出す、カインの本音。
滅多に見せることのない心の隙を、心の一番柔らかい部分を、今母なる人にだけ見せてくれた瞬間。
頭を下げたまま、カインは一気にまくし立てた。
「仲良しだった。弟を嫌う理由なんて、あるはずないのに」
これまでの態度から説得力は欠けるが、何もカインは最初からアベルのことを忌避していたわけではない。むしろ初めは確かに仲睦まじい世界最初の兄弟だった。
「なのに──っ!なのに!いつの頃からか、オレは!オレを慕ってくれるあいつと一緒にいればいるほど、苦しくなっている自分がいるんだ!」
カインの告白にエバは一瞬眼を見開いた。
まさかこんなことを彼が考えていたとは思わなかったのだ。
驚くエバに、カインは言葉を続けた──まるで懺悔をするかのように。
「あいつがオレを慕うほど、心配するほど、慰めるほど、オレは兄として、喜ぶべきなのに、オレはっ!それを生理的に受け付けられないんだ!」
「・・・どうして、」
万感を込めた疑問がエバの口から漏れた。
「どうして、だと・・・?そんなの!!オレが一番自分に問い続けてきたさッ!!」
言葉がまとまらず、カインは頭の中を掻き回していく激情に顔を俯かせ、膝の上に置いた拳を握りしめて唇を噛む。
もっとうまく、言葉が出てこない自分が恨めしい。この胸の内に燻る感情の全てを、思いの丈をそのままぶつけられたなら、こんなもどかしい思いをせずに済むのに。
「理由なんて“ない”。だが、原因も“わからない”」
だからこそ、困惑もショックも大きかった。
「気がつけば、アイツを傷つけることに少しずつ抵抗がなくなっていて、それどころか、心地よく感じるようになってっ、そしたら伝染するかのように、今度はオレに優しくする家族みんなにも拒否反応が出るようになってんだ...っ」
大事に思う一方で、身も心もそれを拒絶する。いや、“拒絶しなきゃいけない”。そんな支離滅裂とも言えるカインの“矛盾”。
きっと誰にも理解してもらえない。なにせ、一番理解していないのは、彼自身なのだから。
「──こんなの、ただの異常者じゃねぇかっ!」
そばにいればいるほど、胸に蟠る謎の悪意に誘発され、それを思う存分に家族全員にぶつけそうで──そんな自分に潜む底知れぬ狂気に向き合わないといけない時間が苦痛だった。
「もう訳が分からなくて、どうしようもなくて、だから!」
───だから、遠ざけた。
長い間、ずっと。
カインの長い独白を聞きながら、エバは彼の言葉に嘘も偽りも無いことを理解していた。
それでも、急に知らされたカインの本懐をありのままに上手く飲み込めなくて、彼女はただ黙って話を聞いた。
「オレは、アイツ含め、家族に近づくことも、触れることも、してはいけない。でなきゃいつかみんな、きっとオレの中に潜む悪意に、殺されてしまう。そんな気がしてならない」
「普通」ではなくなったカインがどんなに取り繕って家族へ溶け込もうとも、彼の異常性が存在する限り、きっとそのせいでいつか家族の破綻が起きてしまうだろう。
「ここままだとオレも、自分が自分でいられなくなりそうで、」
最後に付け足したその言葉は消えそうなほど小さく、そして彼の中に未だ縦横無尽に蠢いている悪意の感情への怯えが隠しきれなかった。
(今まで、そうやって苦しんできたのね)
ようやく待ちに待ったカインの口から紡がれる想いの形は、あまりにも想像以上に重く、歪で、本当に救いようがなかった。
(そばにいるほど傷つけそうになるなんて、まるでハリネズミのようね)
鋭い針毛を持つハリネズミは、相手に寄り添い合おうと近づいても、自分の針毛によって相手を傷つけてしまう。
そのために近づきたくても近づけない、そんなハリネズミの特性をエバはカインの境遇に投影していた。
ぎゅっと拳を握ってまだ言葉を続けようとしたカインの肩に、エバが優しく手を置き、言った。
「大丈夫よ。カイン。私はあなたを蔑んだりはしない」
「…は、」
顔を上げたカインの眼に映ったのは、軽蔑を込めたエバの瞳ではなく、穏やかに微笑むそれだった。
「大丈夫」
呆然として言葉を失ったカインに、エバはもう一度繰り返した。
「あなたはただずっと、“理由”が欲しかったのよね」
アベルを嫌う、───嫌える理由を。
『カイン兄さんはぼくに嫌われたいの?』
エバの言葉と脳内に過ぎるアベルの言葉がシンクロする。それが脳裏に反響したまま、カインが茫然とした目を向ける。
「・・・ああ、そうだよ」
肯定するカインの目に少しだけの悪意が混じりだすのを──エバだけが気づいていた。
「オレは、今までずっと、否定されたがっていた。嫌われたんだ」
──人から向けられる愛が、怖かったからこそ。




