30話『喪った光の目覚め』★
──黒い靄が漂う世界に、カインの意識は招かれていた。
真っ暗闇の、孤独。
満ちる孤独をひしひしと感じた。加えて、夜と呼ぶにはどこか違和感のある暗闇が、その孤独を増長させている。
(ここは、どこだ)
なにもない、漆黒の「無」だけが蔓延する世界。
意識だけが宙を漂い、カインはぼんやりと己の存在を自覚する。
誰もいない。
何事も起きない。
何もない。
始まりがない。
終わりがない。
無為しか存在しない世界。
混沌に投げ出されたような、茫洋とした感覚にだけ身を任せ、カインの意識は思考すら放棄して、ただ沈みゆく。
(────なんだ?)
と、ふいにその暗闇の世界に変化が生じた。
正面、意識だけのカインの眼前に何かが現れたのだ。
地面──と思われる位置から影が垂直に伸び、蛇の形を為して存在を浮かび上がらせる。
───魔の.......子よ、
声が聴こえる。
どこかで聞いたことがある声。
耳に直接響いてくるようで距離も位置も掴めない。
───ふたたび......れ......を
その上、断片的にしか聞き取れず、意味がわからない。
「お前は、だれだ......?」
空間にカインの声だけが響く。
感覚がうまく掴みとれない。
ただ、孤独な感じだけがする。
───わ......悪......を......名を......い......
「何を、言ってんだ...」
ーーーそう......魂......だ......
そうして、最後のやはり聞き取れない声と共に、今まで真っ黒だった空間にヒビが割れていった。
次に眩い光が差し込んでくる。
漆黒の世界が壊れていく。
だが、不思議と怖い感じはしなかった。
戻れる。自分の世界に戻れる、と、自然にそう思った。
──泣き声を聴いた。
泣き虫で、実は頑固で、やさしい、弟の声を。
目を、覚させなきゃ、
「───ぅ・・・・・・」
声にならない声が、唇から漏れる。
それと同時に意識は深い淵から浮き上がり、プカリと現実世界の水面に顔を覗かせた。
意識の小舟が眠りの海と覚醒の空の間でゆらゆらと彷徨っている。
気を抜くとまた再び海に深く沈んでしまいそうで、
「ん…、」
風に揺れる、銀が見えた。
徐々に覚醒していく脳。
やがてカインはようやく、自分が寝床に横たわっている事を認識した。
ゆらゆらと揺れるそれをぼんやりとする視線で追う。
「......、ここは、」
その数秒後、やっとそれが自分の髪だということに気付いた。
その髪が鬱陶しくて、ゆっくりと気怠げに起き上がれば、ベッドに凭れ掛かっている影が目に入った。
「アワン......?」
カインが思わず名を呼ぶその少女は穏やかな寝息を立てて寝ていた。あまり寝ていないのか、その眼の下には薄い隈が描かれていた。
ふと、カインは己の片方の掌に温もりを感じた。
──そこに視線を落とすと、
(・・・・・・手、)
ずっと繋いでいたのか。
カインを気遣い、優しい言葉をかけ、いつか目を覚ますその時まで、寝台の横に腰掛けて手を握り続けてくれる少女──アワンの柔らかくて華奢な掌の感触だ。
何を思うのか、珍しくすぐには振り払わず、握られたままの手をじっと見つめるカイン。
その穴が開くほどの貫く視線を感じ取ったのか、
「んぅ......?」
アワンはゆっくりと目を覚ます。
しばらくは寝惚けたようにぼーとするが、カインが目を覚ましている事に気づいた瞬間、喜色を浮かべてガバッと起き上がった。
「カインお兄さまっ!」
「アワン、おまえ......」
カインが言葉を発するよりも前に、ぎゅっと強く、強く抱きしめられる。
「良かった……!」
「ぐぅ……っ」
感情の制御が利いていないのか、抱擁には力の限りが込められていた。
負傷した身体が余さず苦痛の悲鳴を上げ出し、通常時ならばすぐに押し返す場面だが、さすがにそれをできる雰囲気ではなかったから、カインも空気を読んでとりあえずされるがままにしておいた。
「わたしっ!てっきりこのままカイン兄さまが目を覚さないかと......っ、不安でっ!」
魂の一部が欠けていく、喪失の恐怖が滲んだ。カインが生きていることをこの身で感じたかった。生の息吹を。確かな温もりを。
「生きてて、本当によかったです......っ」
「......、ああ」
しかし、アワンがどんなにカインを搔き抱いても、カインの無骨な手が彼女の想いに応えることはついぞなかった。
最初からわかっていたことだと落ち込む自分に言い聞かせる。アワンは居た堪れない様子で目を伏せていた。ただカインを困らせたことを深く悔いながら、憂いを瞳に宿して身を寄せて、
「カインお兄さま。どこか痛いところありますか?」
口ではそう問いつつも、その瞳は明らかにカインの右眼の部分しか見えおらず、痛ましげに目を細めた。
その視線がこちらの体調を慮るっているものにも関わらず、カインは見たくないものを見られているような気がして、無言のままそっと顔を背けた。
そこで、
「あら?」
ふと、銀鈴の声が耳に触れた。
声のした方──横を見るように目を動かせば、丈の長い亜麻色の布地がヒラヒラとはためいているのを見えた。
「おはよう。カイン。具合はどうかしら?」
その耳を擽るような銀鈴の声が、いつもよりもひどく居心地悪いものに思えた。
「・・・オレは、いままで」
「アワン。安心しているところ悪いのだけれど、席を外してもらえるかしら?」」
突然母からそう言われるアワンは戸惑いの表情を見せるも、目覚めたばかりのカインへの憂慮より、この場に留まり続けたい個人的な我儘な気持ちが強くて、何度も扉とカインの顔を交互に見た。
「お母さま、わたし......」
結局椅子から立ち上がれないままアワンはせめてもの抵抗として俯く。
「ごめんなさいね。お母さんはカインと二人で大事な話があるの。あまり人数いるとカインも落ち着かないでしょうから」
「・・・・・・わかりました。今日の乳搾りの作業をしてきます」
「ありがとう。あとで二人の時間もちゃんと設けるからね」
「......ありがとうございます。お母さま」
アワンは名残惜しげにカインの手を離して元に戻す。カインは相変わらず顔を背けたままだった。
けれどいつまでもここに留まる訳にもいかず、アワンは後ろ髪を引かれながらも出ていく。そんな彼女を尻目に、カインは身を起こした。
心なしか視界がいつもより狭く、上体を上げようとした一瞬だけ右目のの奥が熱くなった気がした。
「ずっとあなたを心配してたアワンの前で話すのは忍びないからあえてこの場から外したのだけれど」
「......なんだよ」
「──あなたの右目の事よ」
言葉を濁すエバは気の毒そうにカインを見ている。そして力なく唇をゆるめて、「落ち着いて聞いてちょうだい」と言ってから、
「あなたの右目の傷跡はなるべく最善を尽くして塞いで止血したわ。だけど失明は、免れなかったわ」
「失明・・・・・・、」
ぼんやりとエバの言葉を鸚鵡返ししながら、カインは疼く右目に手をあてた。
──右目の位置、まるで切り取られてしまったようにその視界は確保できない。触れてみて、その器官が機能を停止していることがなんとなくわかってしまう。
(どうりで、視界が狭いわけだ)
案外思ったよりも失明へのショックはなかった。元よりカインは何事にも無関心なのだ。──自分のことも含め。
そんなことよりも、カインは自分が一体どれくらい寝て、いや、気絶していたのかの方が気になった。
(そうだ...確か、熊を仕留め損ねて、あいつを、かばって......それで、それで......)
手でなぞる凹凸した瘡蓋の感覚に、徐々に記憶が蘇ってくる。
刹那、フラッシュバックした。
自分以外の熱。
抵抗。
暴虐、激痛。絶叫。
──喰い殺される。
最後の記憶は目の前に迫った猛獣の暴虐と殺意。
そして、
最後まで逃げずに死の命運を共にしようとする弟の泣き顔。
「───っ!あいつは!?」
一気に記憶のすべてが追いついて、バッ!!とカインは目を大きく見開いた。
そして、反射的に左右を見回した。あの時身を挺して庇った存在の安否が気掛かりで───、
「うふふ。あら、珍しい。あなたが誰かを気にかけるなんて」
「っ、」
しまった、と僅かに表情に出したカインに幼さを感じてエバは独りでに笑みが浮かぶ。どんなに背伸びをしていても、大人びて見えても彼もまだまだ年端のいかない少年なのだと。
「何か、変わったこと、あったかしら?」
「別に、そういう訳では、」
正直なところ、カインは母であるエバに僅かな苦手意識を感じていた。
あの慈悲深い穏やかな眼差しは、人の心の奥底まですべてを見透かしてしまう。そんな気がしてならないのだ。
今やきっちりと鍵を閉めたカインの心は、誰にも滑り込むことが出来ない。しかしエバはそんなカインの頑な心の鍵を簡単に開錠してしまいそうで、カインの防衛本能が無意識のうちに隙を見せないようにしろと信号を発したのだった。
カインが動揺を悟られないように表情を繕っていると、
「大丈夫よ。アベルも、わたしたち家族も誰一人欠けていない。そして、あなたも───だから、安心して」
エバのその言葉にカインは自分でも無意識に思わず胸を撫で下ろすも、すぐにある疑念が湧いた。
みんな無事。
熊による犠牲者は誰一人いない。
あんな取り返しのつかない危機的状況でどうやって...?
カインは物言いたげな顔でエバを見た。なぁに?と優しい笑みを浮かべて聞き返した母に黙っているわけにもいかないので、カインはエバに尋ねた。
「なぜ、あの状況で助かったんだ...展開が、読めない」
「ああ...そうよね。あなたはずっと気絶していたもの、分からないのも無理もないわ」
率直な疑問が口をついて出れば、それを耳にしたエバは、視界の端でふっと微笑んだ。
「いいわ。全部話すわね」