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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【転】〜カインとアベル〜
91/160

28話『駆け抜けた先には』★

 駆ける。



 駆ける。




 ケレンの揺れがダイレクトに尻に伝わり、弾むような挙動(きょどう)を制御しながらアベルは渇き始めていた唇を舐めて湿らせる。


 進むにつれ、獣臭さと血の香り、そして死の気配が間近に迫る。




(お父さんっ、まだ生きてるよね?まだクマにやられていないよね?)




 父に逃がしてもらってからかなりの時間が経過した。アダムと熊の攻防戦はもう終わったのだろうか。もし決着がついたとすれば、




(もし、お父さんが、負けちゃったら───)




 一度沈めたはずの弱気が、再びアベルの心を翻弄(ほんろう)し、(くじ)こうとする。


 これから待ち受けるかもしれない最悪な結末に対し、震える膝が肉体すらも(とど)めようとしている。



(信じなきゃ!約束したんだ!お父さんと一緒に帰るって!!!)




 不安に支配されそうになる己を叱咤して、顔は前を向く。今はただ、その約束だけを支えにアベルは前へ駆ける。

 


 期待と不安は表裏(ひょうり)一体だ。

  


 だからこそ、これから迎える結末の答えを一刻も早く見つけ出す必要がアベルにはあった。



 汗を拭い、鳴りそうになる歯の根を噛めば、カインの畑──父と熊が闘争する地はもう目の前だ。



 行く先に待つのは絶望か、

      希望か、それとも──……














      

  





「あ、れ……?」




 拍子抜けたアベルの声がその場に呆気なく消えた。



 広がる惨状を想像して顔を歪めていたアベルは、その眼前に現れた光景が予想外で目を白黒させる。


 そこには何もなかった。


 父も、熊の姿も。


 木々が()ぎ倒され、折れ砕けた木が白い断面を晒している。


 いくつか散らばる野菜の残滓(ざんさい)に、地面には深々と抉られた爪痕(つめあと)が残り、あたり一面に破壊と争乱の痕跡(こんせき)が入り乱れている。


 (おびただ)しい血痕。


 アベルの確信に近い想像を裏付けるように、猛獣の爪痕の刻まれる現場にはあちこちに大量の血の跡がある。むせ返るような血臭が周囲に(ただよ)っている。


 ただ、ずっとアベルの心を騒つかせる結果だけが──そこにはない。


 少しだけあたりを見回ってみたが、やはりそこにも父は──もしかしたら死体となってしまったであろう──アダムの姿は見つからない。





(どこか別の場所に...?)




 ケレンに騎乗(きじょう)するまま、アベルは相棒の体を一撫でした。




「ケレン。匂いでお父さんの居場所わかったりする......?」




 そう聞かれたケレンはアベルを見上げた。そして鼻をスンスンと鳴らしたあと、ばつが悪そうに目を逸らした。




「そ、そうだよね」




 当たり前だ。元から山羊は嗅覚が優れた動物ではない。まだ同じ家畜でも、まだ牛か馬の方が嗅覚の発達が大いに優秀なのだ。




「ごめん...無茶言って......」




 それでも謝るアベルの声からは落胆が隠せない。


 困った。


 流石に今から森の中を闇雲(やみくも)に探すのは効率が悪いし、何より猶予(ゆうよ)がない。時間を浪費すればするほど父の生存率がますます下がるだろう。




(さすがにもうボクのカリスマじゃどうしようも──)




 そう、アベルが諦めそうになった時だった。




『どんな素晴らしい神の力でも、使い手がそれを上手く活かす気がないのなら、所詮は宝の持ち腐れ』



「あ......」




 またしても、かつて言われた過去を思い出し、アベルはハッとした。


 ただ思い出すだけでも、アベルの中でそれは鮮明に映し出された。次に脳裏に浮かんだのは、こちらを真剣に見つめるカインの姿。




『お前の《神の遊牧(ノマディス)》にだって、同じようにまだ知らぬ“意外な使い道”もあるかもしれない、そしてそれが思わぬところで役に立つということだ』




 その全てを思い出したところで、アベルは拳を握りしめる。



 そうだ。諦めるにはまだ早い。悲劇を嘆くのは抗い切ってからでも遅くはない。




(ボクのカリスマ......意外な使い道......)




 もしかしたらと、淡いを込めて、アベルの手が後ろからケレンの顔に伸びる。


 《神の遊牧(ノマディス)》は、対象が家畜動物であれば、その家畜操ること以外にも、その家畜に備わる能力強化することもできる。それが現時点でアベルが把握している自分のカリスマ能力。




 (ヤギ乳の質の改良なんてことができるんだ。なら嗅覚の増強だってできるんじゃ......)




 ケレンの鼻の表面を優しく慎ましやかに撫でた。




「物は試し、だよね.....」




 アベルは目を閉じ、掌に意識を全集中した。その途端、掌に熱さを感じ、閉じていた(まぶた)を開けば、




「え......、え!?」



 不思議な目に見えない神聖的で、圧倒的な熱量。それは掌を伝ってケレンの鼻へ行き渡り優しく包み込むように注ぐ。



 一瞬の静寂。


 ケレンの首はある一定の方向へ真っ直ぐと向けた。


 そして、



「うわっ!?」



 ──大きく飛躍(ひやく)した。





「ケレン!?もしかしてお父さんの居場所わかったの!?」




 ケレンはその怜悧(れいり)な瞳をアベルに向け、小さく頷いた。



(まさか、本当に《神の遊牧(ノマディス)》がケレンの嗅覚を強化したの!?)




 光明が見えた。状況が変わる。




「こ、これで...っ!お父さんを見つけることができる...っ」




 絶望が開かれ、向こう側から希望が差し込むように思えて、アベルは思わず拳を握りしめて興奮気味に声を震わせる。


 草を踏み、枝を越え、気配を追いながら徐々に薄暗い森の奥へ進む。



挿絵(By みてみん)


 暗闇の向こうへ目を凝らし、少しでも多くの情報を先んじて入手しようと努める。


 やがて、




(──いた!!)




 二つの 『影』が目の前に現れた。


 その輪郭(りんかく)が明確になるにつれ、アベルの眼が開かれていく。



 一つの影は、あの熊だった。


 そして、もう一つの影──人影は、その熊の傍らに、打ち捨てられていた。




(お父さん!!)




 乱れ切った白銀の長髪。


 左腕はほとんど血で覆われており、ところどころ破れた衣服からのぞく素肌には切傷が刻まれ、衣服にも血が(にじ)んでいた。

 頭にも傷を負ったのか、額から流れ出た血は眉間と鼻筋を通って顎へと伝い落ちた痕があったが、すでに乾いている。

 

 うつ伏せに倒れる強靭(きょうじん)な体の負傷がどれほどのものかは遠目から見ても分かるほどのひどい有様(ありさま)




「ぅ……」



 その影──アダムの小さく、か細く、(うめ)き声がした。


 大気を伝い、森を通り抜け、それは強かにアベルの鼓膜を打った。


 届くはずのない距離だった。

 あるいは聞こえた、と錯覚しただけのアベルの都合のいい幻聴かもしれない。


 ──どちらにしても、今のアベルにはどうでもよかった。



 その光景が目に入った瞬間、アベルの口からは意味のない空気が漏れていた。


 この瞬間、アベルの脳裏を支配したのは「恐怖」でも「絶望」でも、「驚愕」でもない。


 圧倒的なまでの空白がアベルの脳を支配し、その中から思考の全てを奪い取っていた。「逃げる」「止まる」といった選択肢が浮かぶ余地もない空白。


 ただ目の前の事態を脳が吸収し切った時、その空白も瞬く間に消し飛んだ。強い「怒り」へと変わった。



「お父さんから、離れてェエーー!!」



 気付いた瞬間、身を前に傾けるアベルが叫ぶ。その激しい情動はケレンを加速させる。


 刹那、


 眼前で、熊が大きく吹き飛ばされるのを見た。同時にアベルの視界も大きく揺れる。


 彼我(ひが)の体重差は何十倍も差が開いており、疾走(しっそう)する速度も相当なもの。


 騎乗したままで安定した体勢など望めるはずもなく、滅茶苦茶(めちゃくちゃ)な力を背中に加えられた結果、アベルは容易にケレンの背から弾かれるよう体が射出された。



 ぐるぐると視界が回る。


 世界が百八十度回転する感覚を、アベルは味わった。実際吹き飛ぶ彼の体が回転しているのだ。



 あ、という間抜けな声を漏らしたアベルは受け身も取れずそのまま地面に激突した。



      



「う"!!?」




 次いで額に火花が散るような衝撃が走り抜けた。



 激痛。


 頭部に食らった強烈な衝撃にアベルの幼い肉体は耐えきれず、油断すれば意識はすぐに闇の底に沈んでいこうとする。



(ぁ......)



 だが、すぐに顔を舐められる感触になんとか意識を取り戻す。




「け、ケレン......」






 アベルは己を叱咤(しった)して、必死に明滅(めいめつ)する意識繋ぎ止める。そしてなんとか痛む体に鞭打ちながら立ち上がった。


 顔を上げれば、あれだけ大きくケレンの渾身の体当たりで吹き飛ばされた熊は既に立っていて、アベルたちを睨みつけていた。


 アダムから相当のダメージを負わされたであろうに、なんという凄まじい忍耐力だ。もはや「執念」といってもいい。



      グオオオ......!!






 圧倒的な殺意が静寂の森を狂乱に飲み込む。


 憎き仇を目の前にしたかのように、熊は瞳が憎悪に引き歪むのを見て、とてつもない威圧感がアベルの胸中を席巻(せっけん)した。



 それでも、



(もうあとには、引けない)




 その内なる覚悟は揺るがないままだった。

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