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【完結】序芝居  作者: のぼぼん(º∀º)
【転】〜カインとアベル〜
89/160

26話『臆病者の疾走』★

「はぁっ、.......はぁっ!」



 遠く、駆けるというにはあまりに遅すぎる疾走。


 血塗れで、傷だらけ。


 力の入っていない脱力した両腕を揺らし、命尽きたかのように眼を閉ざす兄を背負いながら、少しでも前へ進むようにアベルは精一杯走った。


 意識を失った人間は想像以上に体重が掛かっている、だからアベルよりも背の高いカインを運ぶには厳しいものがある。


 無我夢中で走り続けて、どれだけ時間が経ったのかわからない。息が切れ、膝が笑い、流れる涙も汗もが顎を伝う。


挿絵(By みてみん)

  (なんで、なんでっ!こんなことにっ!)



 心の中をぐちゃぐちゃにしながら、それでも立ち止まることができずに走り続けた──背後から聞こえるあらゆる雑音をかなぐり捨てて、




    (走らなきゃ......っ!!)



 走らなければ、後ろから追ってくるわけのわからない感情に追いつかれてしまう。


 一度でも立ち止まったら、もうこれ以上進めることはできない。──そんな確信だけが今やアベルを追い立てていた。




(お父さんっ、大丈夫なのかな......っ)




 耳を澄ませるまでもなく森から聞こえてくる『声』に耳を塞ぎたくなる。


 それを明確な音にするなら、きっと劈くような悲鳴なのだろう。 苦痛と恨みが綯交ぜになった遠吠え。何が起こっているのか分からないが、きっと良くないものだ。そのくらいなら分かる。


 父の絶叫が、父を憎悪の対象と見なしたあの熊の怨嗟の怒号が、今もまだ耳にこびりついているのだから。



 

(もし...、あの熊に負けたら、お父さんは......)




 脳裏を過った物騒な想像に自ら肝を冷やし、涙を流してアベルは走る。


 ───父を見殺しにするのか。


 一瞬ドくりとそのような考えがアベルの胸を蝕むも頭を横に振り、自分の行動は間違っていないと言い聞かせる。



(何も考えるな!あの場に残っていたってぼくに何ができるというんだ!)



 

 アベルは奇跡など起こせない。なんの力も持たないただの子ども。できるのはどこまでも泥臭く、足掻き、もがき、迫る絶望から見苦しく逃げ回るのが関の山だ。

 だから、今のアベルのすべきことは少しでも早く負傷するカインを運び、家に帰って助けを呼ぶことなのだ!


 そしてこうして走っている間、背中で気絶する兄の重さ、血の匂いがずっとアベルを責め立てる。



(ごめんね、兄さん。ぼくなんて庇わなければ、兄さんはこんな大怪我なんてっ)



 もしここで無傷なのがアベルではなく、カインならその機転の高さと高い能力を活かして父と共闘ができたのだろう。


 ──今こんな無様に逃げている自分とは違って、兄ならきっともっと上手に立ち回りできた。


 だって、兄は完璧だから。

 全てにおいてカインはアベルの上をいっていた。なにをしても届かない領域があることを、それが誰よりも身近で、誰よりも愛おしい兄弟の存在であることを、アベルは幼児期の時点で悟らされてしまった。


 だから、アベルはいつだって自分を過大評価しない。故に、自分にできる範囲のことが見えている。


 自分の限界と無能さを改めて再認識する時だった──、




『初めから己の可能性を捨てる臆病者からそんな褒め言葉もらっても嬉しくない』




 突如アベルの脳裏に、そんな声が蘇る。


 アベルの足音に紛れたそれは遠く、まるで無意識の底に響いたような細い声だった。



(今のは......?)



 手足がずっしりと重たくなり、追い立てられるままに動いていた足はその足取りをゆるめ、次第に引きずるような歩みへと変わる。



(カイン、兄さん......?)



 ハッと思わず後ろに視線をやったが、カインは気絶したままだった。にも関わらず、今の声は───?




『お前の場合は機転が利かないのではく、やる気ないの間違いだろう』




 後ろで背負っているカインとは別に、違う言葉が重なる。


 そう、これは。

 あの日のカインとの会話がフラッシュバックしているのだ。




「こんな危機的状況で、やる気がない訳ないじゃないか......っ」




 アベルは思わず声を漏らす。


 その言葉の矛先は今彼が背負ってる満身創痍(まんしんそうい)なカインに対してか、あるいは過去の思い出から現れる呆れ顔のカインに対してなのか、




「でも、こんな時にぼくの《神の遊牧(ノマディス)》の力なんて、なんの役に立つって言うのさ......っ」





『神の力は未知数なのだ。それはいかに偉大な力を発揮できるかは、使い手次第。ようは、頭の使い所だ』




 まるでアベルの言葉に対応して、あの日に言われたカインの言葉が思い出として反芻される。




「使い手次第...ぼくの、頭の使い所」



 とにかく今は一刻も早く自分の背中にぐったりと寄り掛かる兄を安全なところまで運んであげたい───それだけが今のアベルがするべきこと。



「そうだよ...早く家に連れて帰らなきゃ...ぼくが、もっと、早く走れたら、───ぁ、」




 ──“もっと早く走れたら”?





「本当ぼくって頭悪い!!!どうして今まで思いつかなかったの!」




 あるじゃないか。アベルのカリスマ能力── 《神の遊牧(ノマディス)》の使い道が。



「ケレン──────ー!」




 アベルは迷うことなく、能力を発動し腹の底から大声で相棒の名を呼んだ。

 いくつかの山彦(やまびこ)が反響した後、しばらくして聞こえる力強い駆ける足音。





 メェエエエエエエエエエエ!!!!




 そして、力強い鳴き声が響く。





「......ケレン。来てくれてありがとう。いきなりで申し訳ないけど、ぼくと一緒に兄さんを家まで連れて行ってくれる?」




 満身創痍なカインとひどく疲弊しているアベルを戸惑うように、山羊のケレンはつぶらな瞳で見下ろす。



「お願いっ!今は一刻も争うの!急いで!」



 


 しかし、《神の遊牧(ノマディス)》の力に従順に従ったのか、必死なアベルな姿を見てなにを察したのか、



メェー...メェエ!



 大山羊はゆっくりと屈み、二人を乗せた後、その足を、野道を沿って進み始める。

 しばらく走り続けて、すぐに自分たちの棲家が見えてきた。


 やっぱ子どものアベルの足よりも、動物のがよほど速かった。






      ◇◇◇◇◇◇◇





「着いたよ...カイン兄さん....」





 認めるに至り、手足に血が通う感覚が伝い、生き延びた事実が脳に浸透する。


 だが、湧き上がったのは生を掴み取ったことへの歓喜ではなく、




「お父さんを置き去りにして...ぼくは、生きてる......」



 みっともなく足掻いた果てで、命を掴んでしまった自分への失望だけだった。


 あれほど恐れた死を遠ざけたというのに、それがなんの感慨も今はもたらさない。


 それどころか、耐え切れないほどの罪悪感が胸の内側に噴き上がり、しばらく存在すら忘れていた恥の感情が全身を焼き尽くすかのように迫ってきた。



「まぁ...!何事なの!?」



 アベルたちの気配を感じ取ったのか、棲家から様子見に来た母と妹たちが、ボロボロ状態のアベルたちを見れば、ギョッとして駆けつけてきた。




「二人ともそんな汚れて、なにが、」





 衝動的に問い詰めようとして、エバはアベル肩に置く手に力を込めて口を開いた。


 けれどもそのときになってようやくアベルに背負われたカインの異変に気がついたエバは、問いかけを発する前に絶句した。



 生気のないカインの顔の右半分は、溢れた血液で真っ赤に染まっていた。




「カインお兄さまっ!?」

「きゃっ!?お兄ちゃんたち!?血、血が!?」




 妹たちの悲鳴に応じているのか、血だらけのカインの顎先が微かに震えるように動く。


 生々しい赤い色。錆びた鉄の味が口の中に広がった気がした。




「......これはどういうことかしら。アベル。説明して頂戴。あなた、お父さんと狩りに出かけたはずでしょう?」



 エバは眉をひそめた悲痛な顔で、勢い込んでアベルに尋ねた。




「それなのに、どうしてこんなひどい傷のカインと......?お父さんはどうしたの?」


「お父さんは.......」




 荒れた呼吸の隙間に浮かび上がる足止めするために奮闘する父の姿。そのたびにアベルの心臓が激しく痛んだ。



「お、お父さん、は......っ!」



 絶望にも似た何かがすぐそこまで這い上がってきているような気がした。


 エバへの応答でその何かを懸命に振り払おうとしても、それはアベルの思考を少しずつ蝕みながら、易々と無視できないほど質量を増していく。


 最後にはようやく掠れる息で、



「お父さんは、───死んじゃう、かもしれない」




 途端にエバが息を呑み、咄嗟に両手を口元を抑えたのが見えた。



「そんな......、どういうことですか!?」


「な、なんでぇっ!?お父さん、死んじゃうのォ!?」





 続けてアワンもアズラも表情が強張り、突然の知らされる父の凶報に金色の瞳に動揺が広がっていく。


 今この場の全員の心臓を鷲掴んで離さないのは、アダムを喪うかもしれないという途方もない恐怖だった。


 しかし、




「──説明を、続けて?アベル」



 エバだけはそんな自身に走った衝撃をすぐに装った穏やかな冷静さの下に隠し、アベルさえわかるような上辺だけの微笑みを張りつけて、




「ここまで辿り着くまでたくさん辛い思いをしたのね。落ち着いて、話してくれる?」




 すべてを包容する優しい声に、アベルは自分の頬を伝う熱い感触にやっと気付いた。



(ぼく、泣いて......っ)



 

 涙が次々と零れ落ちた。封じ込めたつもりで、しかし欠片も消すことのできずにいた激情の雫。

 それは悲しみであるとか、後悔であるとか、失われるかもしれない命への懇願だ。



 


「ぼく...っ、ぼくが...!足手まといだからぁ...っ!!ぼくがっ、……なにもできなく、て。ひっく、いつも狩りをする森に急に熊が……熊が、出たんだ。...ぅく、それで、兄さんがぼくを庇って、...それで大怪我をしちゃってて!!お父さんがぁ!!!ぼくたちを逃がそうとして……でも.......、お父さんもすごい怪我をしてるのに、それでも熊の足止めして……それでぼくは、けっきょく……」



 言葉は堰を切ったように口をついて出てくるのに、肝心の内容がまとまらない。アベル自身、今自分がなにを言いたいのかがよく判っていなかった。嗚咽まじりの言葉は呂律が回らず、会話の前後もうまく噛み合わない。


 言い訳でしかない内容が止まらず、途中でそれが庇ってくれた兄と逃がしてくれた父を穢しているような気がして、最後はたまらずアベルは口を閉ざした。




「...そう、わかったわ。よく、話してくれたわね。あなたもたくさん恐ろしい目に遭ったんのでしょう」

 



 今までの不安な思いを一気に放出したことにより、気の高ぶってしまって泣きじゃくるアベルを慰めるようエバはその背中を撫でた。そしてひどく真剣な表情で、こちらを見つめる涙で腫れた目に向けて問いかけた。





「───お父さん、最後に何か言ってた?」


「・・・ひっぅ、ぼくたちが先に家へ逃げて、っ、母さんに助けを───」




 父は母に助けを求めろ、と言った。

 アベルは父の「助けを求めろ」は、てっきり熊退治の「増援」だと勝手に思い込んだ。


 だが、冷静になって、こうして言葉の形にして口にしてみると、か弱い女と子どもである───本来守るべき存在───母や妹たちに「熊退治」の援護をなんて求めるなんて違和感でしかないし、いくらなんでも無茶ありすぎる。


 なら、あの時父が言った、「母さんがきっとなんとかしてくれる」という言葉は───、




 (あくまでカイン兄さんの治療と、ぼくたちの安全の確保で......)



 最初から父は自分が助けられることを想定していないし、大事な家族が危険を冒してまで自分を助けに来ることなんて望んでいない。



「お父さんが...、ここに逃げ切れたら、お母さんがなんとかしてくれるって......」



「────そう」




 アベルの言葉から、エバもアベルと同じく、いや、もしかしたらそれ以上に悟ったものがあったかもしれない。


 それでも、俯きかけた自分の顔をどうにか上に向け、アベルから視線をそらさないエバは強かだった。



「──そう、だったの」



 悲しみと無力さに打ちひしがれるアベルのような人間は、すぐに自分の意思を甘やかして下を向く。だがエバはそれだけは自分に許さないようだった。


 



「わかったわ。──あとはお母さんに任せてちょうだい」




 最愛の人に求められた「妻として、そして母として」の役割を最後まできちんと果たそう──そんな芯の強さがエバにはあった。


 そうやって、自分を取り巻く理不尽な状況を、そこに生じる自分の弱い心の嘆きと懸命に戦っているエバの姿はとても心強く美しく、──そしてそれがますます、どうしようもなくアベルの無力感を助長するようで悲しかった。




「詳しい事情はあとからじっくり聞くとして、とにかく今はカインの治療が優先ね。アワン、アズラ。支度をお願い」


「はい!」「う、うん!」



 強く返事して、妹たちはそそくさと屋内に駆け込んだ。



「アベルもよ。あなただって全身の擦り傷がひどいのだから、とりあえず家の中にいらっしゃい」




 しかし、背後から着いてくる足音がしない。エバは出入り口のところで足を止めて振り返った。




「......アベル?」


「お、お母さん...お父さんは、」


「気持ちは分かるわ。でも、今はお父さんのことよりもあなたたちのことよ」




 確かに父のことを言及したところで、事態が好転するはずもない。だってもうこの家族の中に、アダムを助けに行ける人なんてもう存在しないのだから。

 女は危険がたくさん蔓延る外へは行けない。カインが寝込んでいる今となっては、アダムを助けに行ける男なんて──、




 (あ・・・いるじゃないか・・・)




 ──ここに。

 アダムを助けに行ける“男”が。



「さあ。アベル。中へお入り」




 アベルは今だ兄の血で染められた自分の服を掴み、立ち尽くしていた。

 



「・・・・・・ぼく、行くよ」


「なんですって......?」




 が、エバが不思議そうに首を傾げて見せると、アベルは顔をあげて母の顔を覗き込んできた。そしてやけに真剣な目で言う。




「ぼくが!!お父さんを助けに行く!」

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