23話『君の瞳に映る僕は』★
この弟は、以前はもっと遠慮がちで、その内心は常に縮こまっていなかっただろうか。
初めて弟に手を上げてしまったあの夜だって、その体はカインの剣幕に押され震えていて、カインの理不尽な拒絶にも何も言わずただ泣いていた。
そして今だって、目の前にいるカインを映すその幼き瞳もまだ兄への斟酌など消えていないはずなのに────、
目の前に立つ弟は本当に、いつもヘラヘラと、だけど、どこか気まずそうにこちらの機嫌を伺う人物なのだろうか。
「ぼくはッ、カイン兄さんが畑のことが何よりも大事なの知っている!だから、───だから今度はぼくが兄さんの畑を守ろうと思ったんだ!」
こんなにしっかりと自分の目を見てくれただろうか。
「もう兄さんに悲しい思いなんてして欲しくないから!ただそれだけなんだ!どうしてわかってくれないの!?」
こんなにも真っ直ぐに睨み合える様な肝の据わったものだっただろうか。
──一体、何が弟をここまで変えた?
「わからない……。分かるわけがないだろ!」
しかし、それでもアベルのもどかしげな叫びなど、必死の思いなどカインには届いていないようだった。
二人の間に、声の思いを遮断する見えない空気の壁でもあるんじゃないかと思うくらいに。
「オレの畑を守って、そこにお前にとってなんのメリットがあると言うのだ……?」
「メリット……?メリットなんて、」
メリットだなんて、そんな打算的なものでアベルはカインの畑を守ったわけではないのに。だが、それを言ったところでおそらくこの兄には理解できないのだろう。
だから、アベルは、
「……メリットなら、あるよ」
「なに…?」
「畑を守って、無事収穫したら……、新種の作物のお披露目、考えてくれるって約束したじゃない」
途端に、信じられないと言わんばかりにカインの表情が歪む。
「…….呆れた。何を言い出すのかと思えば、まだそんなことを言ってるのか。あんなオレの気まぐれによって口から出た戯言に過ぎんというのに…….ッ!?」
それは怒りを堪えているようで、涙を流すのを堪えているようで、何か例えようのない感情を表に出さないようにしているようでもあった。
そんな兄の様子を見て、アベルは目を伏せた。
「カイン兄さんにとっては、いつでもなかったことにできる他愛もない話でも、…….ぼくにとっては、生まれて初めての、兄さんとの大事な約束だし、それをきっかけに見失ってしまった兄さんのことをもう一度よく知れるチャンスでもあると思ったから」
「ここまで来て、お前は何を言ってやが……!?オレはその約束をなかったことにしたはずだ…!自己都合で!!なんの罪悪感もなく!」
カインに顔が様々な感情に塗られていくのがわかった。徐々に目を見開き、強く歯軋りする。
「お前はそこまでしてオレに何を求めてるんだ!?」
「ぼくはね、」
そうしてぱっと顔を上げたアベルは、無理をした苦々しい笑顔をカインに向けた。
「ただ、カイン兄さんと仲直りしたいだけなんだ」
「は……」
「お父さんやお母さんに言われたからじゃない。アワンやアズラにこれ以上ぼくたち兄弟の仲に気を遣わせたくないからでもない。また昔みたいにカイン兄さんと笑って日常を一緒に送りたい。ただのぼくのわがままだから」
アベルはありのままの自分の気持ちを伝えた。その瞼の裏に思い描いたのは、いつだって楽しい家族の団欒に加わるカインだった。
今日までその夢を幾度なく諦めようか、と葛藤する時もあった。
でも結局できなかった。
それほど弱い決心をしたわけではなかった───その夢を捨てるには、あまりにもかつての思い出が強すぎたのだ。
「さっきから聞いていればッ!」
アベルの述懐にカインは一度歯を噛み、
首を振り、銀色の髪を振り乱し、感情を爆発させる。
「オレに悲しい思いをして欲しくないから、だぁ……?オレと仲直りしたいから、だぁ…?ハッ!!そんなくだらない理由でお前はあんな他人のために命を賭けられたとでもいうのかよ!?」
心の底から思いっきて馬鹿にするようにカインは言う。口元には小さな笑みすら浮かんでいる。
しかし、そんな心無い言葉を浴びせられてもアベルは緩く首を振る。
「くだらなくないよ。それに“他人”でもない。カイン兄さんは今までもずっとぼくの家族だよ。家族が大事なものは、ぼくにとっても大事!だからぼくが命を冒してでも、それを守る事がそんなにおかしいこと、かな?」
カインを見据えるアベルの目には、確かに涙を浮かべ、今静かに零れ落ちていった。
アベルの言葉は、少しでもカインに届いたのだろうか。
「・・・・・・ッ」
その険しい表情をしたままだったその表情が、ほんの少しだけ、驚きの色に変わったのは、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。
「本当にどうしようもない大馬鹿者だよ!!お前はァ!!また昔にみたいに戻りたい?それをあっさり壊したのはオレの方なのにッ!?」
あれだけ拒絶を露わにして、こんなにも嫌悪しているのだと振舞っているというのに、その事実を叩きつけるカインにアベルはなおも向かい合っている。
きっと弟は穏やかで心根が優しい人間なのだろう──そう単純に結論できずに、カインはもやもやしたものを胸に抱えていた。
どうしてか、気に入らない。いや、釈然としない。
「壊してからも、何も悪くないお前を勝手に毛嫌いして、冷たい言葉で泣かせて……ッ、そんなひどい兄をなぜいつまでも追いかける!?」
──お前を傷つけることしかできない今のオレなんて、さっさと見限ればいいものを!
カインはもはや、怒鳴り散らしていた。
その声にはもはや嫌悪感と言うより、もっと複雑な感情が混沌としていた。
何かが引っかかっている。
それが何かわからないから、もやもやした気分になるのだろう。
「いつまで意地を張ってるんだよッ!本当はお前だって心の奥ではオレのことが大嫌いなんだろう!?」
胸に突き抜けた思いを吐き出したカインの声はただ、その場の静寂に吸い込まれていくだけ。
それでも、煮え立つ感情に身を任せるようにカインは睨み付けるのをやめなかった。アベルは瞬きひとつせず、目を丸くしたまま硬直している。
やがて、
「──違うよ。兄さん」
一瞬、ほんの一瞬だけ、
「先に壊したのは、ボクの方なんだよ」
アベルの穏やかな瞳に深い負い目の影が走り抜けた。だがそんな刹那の違和感に、今のカインは決して気づくことはないのだ。
何よりアベルが次の言葉を継ぐ時には、もうすでにその翳りの浸食が見当たらないのだから尚更だ。
「でも、ようやく、少しだけ兄さんのことがわかったのかもしれない」
アベルはカインがなにを求めているのわかった気がした。それは、
「カイン兄さんは、───ぼくに嫌われたかったんだね」
「──── 」
押し黙るカイン。
普段ならば口早に言い返してくるところを、そこで沈黙を選ぶ彼の心中は計らい知れない。
否定もしないが、肯定もしない。そんな彼の態度にアベルは苦笑しつつ、
「そうだね……、嫌いになれたら、どんなに楽なんだろうね」
「それだ…….。いつだってお前はそうしてオレと向き合おうとする」
カインは突っ立ったまま俯いた。その顔には理解し難さと同時に、淡い悲痛も確かに滲んでいた。
「どうしてそこまでしてオレを…….!」
「──世界でたった一人の兄さんだから、かな」
『お前は世界でたった一人の弟だからな』
一瞬、カインの瞳の端にささやかな感情が走り、彼は唇を震わせる。
アベルの溢した言葉にシンクロして──カインの脳内に浮き上かぶ言葉。ありったけの親愛を込めた言葉。いつか聞いたそれが耳の奥で反響する。
──その言葉を最初に言ったのは誰だったか。
(オレ、か……?)
二人の心の片隅に残る、共通の小さな思い出。
夕焼けに染まった草原。
そこに座っていたアベルと、カイン。
互いに目が合って、悪ふざけして照れくさくて、互いに目を逸らした。
けれどその後互いに互いの笑みを見つけて、微笑ましく、そしてまた小さく笑みを零して───。
カインは目をキュッと瞑った。そんな過去の残像を掻き消すために。
(ええい!そんなのはもう過去のことだ!)
オレはっ、決めたんだ!!
これからずっと、ひとりでいいと──!
そうであったはずなのに、全力でこちらに訴えかけるような弟の声を聞くうちに、カインの心の中に確かにある変化が生まれてしまった。
──雪解けの季節に花々が芽吹くように、眠っていた感情が震えながら顔を出すかのように。
水底から浮上するように蘇ったその感情の変化を否定するように、カインはまた苦しげに顔を歪めた。腹の底から溢れる嗄れた低音が唇からこぼれ落ちていく。
「オレは──」
答えを告げる。
それがくる。その瞬間に──、
グルルゥ……、
「──!?」
聞こえるはずのない呻き声がして、カインは悪寒に急き立てられるままに勢いよく顔を上げた。
そして、見る。
「──ぁ、」
何の前触れもなかった。
あまりに突然のことに、カインは愕然とした。
息絶えていたはずの熊は、
いつの間にか、
───アベルの背後で佇んでいた。
「っ!!」
無意識だった。
窮地を脱していなかったことを悟った脳よりも体の方が先に動いた。
つま先が地面を蹴った感触を捉えたのは、身体が前のめりになった直後だった。歯を軋らせると、縋るように祈りながら懸命に駆けた。
「───アベルッ!!!」
「……ぇ?」
突如その切羽詰まった声に叩かれて、アベルは目を見開く。
カインの切迫した叫びと視線を追い後ろへ顔を向けようとした瞬間、
「ど け!!」
「──ッ!?」
アベルの視界が大きく揺れ、カインに肩を強く押されたのを認識する暇もなく、空中で身体が大きく吹き飛ぶ。
半分浮いた視界を少し後ろへ移せば、焦燥に顔を歪める兄が映った。
(なんで、そんな顔をするの……?)
押されれた反動でアベルの無防備な身体が息つく暇もないまま固い地面に叩き付けられる。すぐに上半身を起こしたアベルは後ろへ目をやると、
直後、
ドッ───!
赤い、赤い鮮血が飛び散った。




