19話『猛獣にご注意』★
今から五年前。
それは最悪な偶然とも言える──いつものように森で狩りをするアダムは熊に遭遇してしまった。
悲鳴をあげる隙すらも与えられなかった。
飢えた熊はアダムに襲い掛かり、飛びついて一気に押し倒したのだ。
体の大きな自分よりもずっと大きな熊で、アダムはもう駄目だと一瞬諦めそうになった。
しかし、
(ワシは、ここでくたばる訳には......っ!)
火事場の馬鹿力なのか。
それとも、妻や子どもたちを置いて死ねないという執念が彼に力を与えたのか。
咄嗟にアダムは槍を使い、熊の心臓に向かって渾身の一突きを喰らわせた。
やはり神はアダムを見離さなかったのか、その最後の足掻きが見事に熊を絶命させたようだ。
巨体な熊は悲痛な雄叫びを上げ、すぐに組み敷いていたアダムの手によって投げ飛ばされる。仰向けに倒れ込む熊の胸にはしっかりと槍が刺さっていた。
念には念を、アダムは倒れた熊に跨ってその槍を深く突き刺していた。そのため仕留められた熊は、ほとんど外傷が無かった。
「すまない・・・・・・」
今思えば、それがアダムの最後の命知らずな狩猟だったのかもしれない。
──そうでありたい。
「その時の戦勝品が、これと言う訳だ」
アダムは身に纏っている毛皮を一瞥した。その毛皮こそが五年前に父が槍一本で倒した時の熊から剥ぎ取った物。
「あの時ばかりはさすがのワシも死を覚悟したものだ」
「へぇ〜〜!そうなんだぁ!すごいなぁ!やっぱりお父さんは強いんだね!」
「お父さん死ぬかと思ったのに、そんな軽いノリの一言で片付けちゃうお前がすごいぞ・・・・・・」
これはいくら目の当たりにしても自分には出来ない狩り方だとアベルは舌を巻いたと同時に、幸運が味方したとはいえ、熊を一発で仕留めた父の強さに憧れを抱く。
「だからいいか、間違っても単独では肉食動物にだけは手をだすなよ。あやつらは危険過ぎる。百戦錬磨な父さんでも苦戦することがあるほどにな」
ろくな犬歯も持たない人類が、凶悪な肉食獣と張り合って肉を食するには、丈夫な道具と、高度な連携と、そして精密な策謀が必須だ。
弱々しく且つ体も小さな人類にとって、猛獣と戦って生き延びる事は容易ではない。
アダムの視線が、アベルに投げられる。
「特にクマを見ても、絶対に狩ろうとしちゃだめだ。少しでも見かけたらすぐに逃げろ。あれは、並の人間がどうこうできるものじゃあないんだ。いいな?」
「うん、わかったよ。お父さん」
アベルが、表情を硬くして首を縦に振った。これだけ父から熊の危険性を警告されては、楽天的なアベルでも迂闊に好奇心で肉食動物に手を出すのはやめようと決心するのだった。
「よしよし!それだけを強く意識していれば、後は技術をマスターすれば、今後の狩りを安心してお前たちに任せておける」
「“お前たち”......?」
「そうだ。お前と、カインにな」
「カイン兄さん......?でもカイン兄さん狩りは遠慮するって......」
「ガッハハ!あやつは言葉不足だからな。あくまでワシから狩りを教わるのを遠慮しているだけぞ。ああ見えてカインは今のお前よりも断然狩りのスキルが高いぞ?」
「えぇえ!?カイン兄さんが!?」
「カインは農耕を生業としておるからな。獣害対策で、冬以外は年中畑を荒らしに来る動物を狩っている。場数では間違いなくワシの次に多いぞ。まさに今なんて、あやつも大忙しいだと思うぞ」
基本動物とは暖かくなれば活動的になるし、寒ければ一部の種類を除いて、冬眠もしたりする。
そして、長らく眠っていると春には空腹も覚えるらしく、温かくなり始めたころが最も畑への襲撃頻度も多くなるのだ。
よって、狩りの繁忙期も、まさに温かくなり始めたこの春なのだ。
「そうなんだ〜カイン兄さんもう既に狩りを習得できたなんて!」
「カインはああ見えて畑しか脳がない奴じゃないからな。狩りだけではないぞ?川で潜って魚を突き、高い木に登っては木の実を集め、崖を登って薬草を集めたり、本当あやつは黙々とワシら家族のためによくやってくれておる。お前の兄は昔から要領がいいからな」
「すごいなぁ......それと比べてぼくなんて、」
言葉尻が小さくなりアベルは目を伏せた。何やら雲行きが怪しい彼を宥めるように、アダムはその大きな手をやんわりと頭に乗せる。
「これこれ!そうすぐに卑屈になるでない!そもそもカインとアベルは違う人間なのだ。いちいち比べるでないぞ?」
「で、でも、ぼく・・・・・・」
「お前も充分に頑張っている。父さんはちゃんとわかっている。だからアベルは焦らずに自分のペースでやればいい」
アダムはニコニコしながら、そのままアベルの髪をワシャワシャと撫でた。
小さい頃からあまり変わらない直毛だが毛先にクセのある、自分よりだいぶ柔らかい髪質は母似であろう。アベルは幼い頃からこうして頭を撫でられるのが好きだった。
カインの方は恥ずかしがる事が多かったが、アベルはむしろ自分から撫でて欲しいと言って来ていたなあと少しだけアダムはしみじみと昔を懐かしんだ。
「さぁて、父さんはもうしばらく野暮用があるから、ここで一旦解散だ。アベルは今日狩った獲物を母さんに届けておくれ。帰り道はわかるな?」
「うん、分かるけど......、お父さんは帰らないの?野暮用って?」
今日狩った獲物が詰まった籠を背負った。重そうに見えるが、無理のある重量ではないのだろう。
アベルは少し身じろぎして籠の位置を調整すると落ち着いた顔でふわりと父にそう聞いた。
「ああ......父さんはこの後もっと森の奥深くへ行くんだ。それでワシらの棲家方面の周辺に罠をいくつか仕掛けておこうと思ってな」
「罠......?」
「この辺りの区域は確かに猛獣は少ないが、稀に森の奥にある危険区域から紛れ込むこともあると教えただろう?万一のこともある、防止対策のために罠を張っておくのだ。いつ猛獣がワシらの棲家を襲うかおちおち眠れんのは困るだろう」
「そ、そっか。お父さん狩りでたまにすごく遅くなるのってそういう事情だったんだね、おつかれさま」
「ガッハッハッハ!家族が安寧に過ごせるなら安いモンぞ!だからこれから父さんは危険なところへ向かう。だからアベルはここからひとりで帰るんだ。いいな?」
これから向かう奥深い森には肉食獣だって現れるのだ。
春になったとはいえ、冬眠明けや冬の飢えが癒えて無い獣は多いだろう。安全な狩りなど有り得ないのだから。
まだ子どもであるアベルは、猛獣が彷徨く危険区域に連れていくには足手まといで、かといって貴重な戦力である親を帰り道に付き添わせるほど幼くもない。
だから、一度ここで解散なのだ。
そこで、アベルは無理を承知で小さく、控えめに希望を口にした。
「ねぇ、お父さん。ボクもついて行っちゃ......だめ?」
「ああ、ダメだ」
つい先ほどまでの気安いやり取りが嘘のように、重たい声音がアベルを牽制する。
「くれぐれもちゃんと真っ直ぐに家へ帰れよ?無事にな」
有無を言わさぬよう強い口調で、真摯な瞳でそう凄まれては、アベルも首を縦に振るしかない。
「約束、守らなきゃ駄目だからな」
そうもう一度しっかり念を押すと、アダムは手を振って軽やかに森の木々の中に消えていった。
「いつかぼくも連れて行ってくれるかなぁ......」
もっと狩りのスキルを上達させなきゃ、そう内心で決意して、アベルも父の言いつけ通り家へ帰ろうと踵を返した。
◇◇◇◇◇◇◇
危険な猛獣が潜む南の森は薄暗く、木の幹も捻れたようなものが多い。
自分たちの棲家の草原周りの木に似ているが、湿気はそれほどでもなく、草もシダ植物は少ないようだ。
(いつ来てもここの森は不気味なところだな)
木の枝から垂れ下がる蔓は黒く、枯れたのか腐ったのか、だらりとして生気がない。
途中で地面の状態などを見る。
見る者が見れば、地面には様々な情報が刻まれているものだ。
生き物が通った痕跡や糞、獲物が好みそうな植物の有無など様々。それらを確認しながら進む。
ここの森周辺はまだまだ解明されていない生き物が多い。
草食動物はまったく見当たらないが、ちゃんと生き物はいるようで、草を鳴らしてなにか小さなものが駆けていくが、姿をとらえることはできない。
カエルが低い声で鳴くような音が頭上から聞こえてきて、アダムが近づくと羽ばたきしてどこかへ逃げていくのは鳥なのだろうか?
正体がわからぬからこそ不気味に感じるものだ。
(こんな不気味でまだよくわからん場所にアベルをまだ連れて来れないからな)
いつかここに生息する動物すべて解明できた日がこれば、この場所も少しは慣れ親しめるといいが。
(そういえば、アベルは無事に家についたのだろうか)
アダムは内心次男を心配しながらも更に森を進み、山手へ向かって斜面を上がる。
「ん?」
暫し進むうちにアダムは足を止めた。踏み出した足の下の地面の様子が変なのだ。
どこか柔らかくて、凹みがあるようだ。
アダムは足もとに視線を落とした。
特に変わった様子はない。踏み倒した地面から生える草がちょっとまばらになっているくらいだ。
今度は屈んで地面に頭を近づけてよく観察してみた。
(これは…...猪か?)
動物が餌を漁った痕跡。まだ新しい。
そう判断したアダムは、獲物が付けた跡を確認しそれを辿る。
(どうやらあちらの方向からだな)
目星を付けて移動を始める。
時々、地面の状態を確認。
風向きの確認も怠らない。
痕跡を辿りならが移動を続けるうちに、アダムの背中に悪寒が走る。
(待て待て待て、おいおいおい......言ったそばからなんてシャレにならんぞ)
樹皮に大きく残された爪痕。
肉食獣の排泄物の特徴である毛の含まれた糞。
極め付けは木の実を食べるために、木の枝を折った大きな鳥の巣穴のようなもの───
(間違いない。あれは熊棚......!)
嫌な予感ほどよく当たる。危険が近くにあることを悟ってアダムは一気に顔つきを険しくした。
よりにもよって今日だということに内心舌打ちを放ち、彼は急いで辺りを見回す。
まだこの辺にいる可能性も高いが、どっかの区域に移動した可能性も否めない。
そしてすぐに次の手がかりを発見した。
(......あった!足跡!)
冷や汗が止まらない。
地面に大きくこびりついた足跡。
それが続く先は──。
「......!クソッッ!!!!」
気がつけば既に猛スピードでアダムは来た道を引き返していた。
(すれ違いかッ!?だとしたらやばい!!!)
頭の中で警鐘が鳴り続ける。
最悪な事態が意地悪するかのように何度もアダムの脳内に掠める。
(嗚呼!神よ!)
──どうか何事もないように!
森の中で全速力で走りながら、アダムは強くきゅっと唇を噛んだ。
(頼む!!間に合ってくれ!)




