18話『熊』
二人の親子がしばらく歩けば、川のせせらぎが聞こえてくる。
背の高い草に囲まれた川は静かで、涼しい風が、気持ちよく頬をなでていく。他に水を飲みに来ている動物はいないようだった。
「う〜ん!水が冷たくて気持ちいい〜」
茂みを抜けて、辿り着いた水面に掌うぃ沈めて水を掬うと、引き締まったような冷たさがアベルの意識を覚醒させた。
一方、アダムは傍で今日狩った獲物の血抜きと肉の冷却のために、それらを川に沈める作業をしていた。
そうして二人はしばらく川辺で休憩して過ごした。
「よし!一息ついたところで、早速だがさっきアベルが狩ったウサギの解体をするとしよう」
「う、解体かぁ......別に初めて見る訳じゃないけど」
父が羊などをの動物を解体する場面は何度かチラッと目の端で垣間見ることはあっても、これからよく観察するように細部までまじまじと見るのは初めてになるだろう。
「お前には刺激が強いだろうが、これも狩りで生活していくために必要な技術なのだ、よく見ておくのだぞ?」
「はぁーい」
解体も狩猟に必要な技術の一つとされている。
愛情込めて育てた羊の解体を見せられた当初、アベルはあまりにも衝撃的過ぎて何度も夢に見てしまった程だった。悲しい幼い頃の記憶。
アダムは腰にぶら下げた石刃を取り出した。欠かさず定期的に磨かれているため、それは常にピカピカだった。
「ウサギ程度なら、これだけで充分だからな」
大丈夫かと声を掛けると、アベルがしっかりと頷く。最終確認は済んだので、アダムはウサギの解体作業を始めることにした。
「えぇ、まずだなぁ、ここの踵骨腱辺りを切り落として……と、」
説明しながらも、アダムはウサギの左右の腱に切り込みを一周入れてから足をしっかり掴み、皮を肉の表面にナイフを差し込んで剥がす準備をする。
それから内モモから刃を滑らせながら進み、股関節の辺りまで行ったら、そこからお尻あたりの皮を剥いでいく。
「いいか?ここからが大事だぞ?ここはな、精巣を潰さないようにしないと大変なことになるから、気をつけるんだぞ?」
「大変なことって?」
「これでうっかり睾丸なんかを潰してしまえば、臭いが付着してせっかくの肉は台無しになるぞ」
「うわぁ、それはなんかやだね」
「そうだ。実に勿体無いからな!それとここの腹の辺りは肉が薄いから、刃で傷つけないように慎重に進めるのがコツだ」
アダムの手慣れた技術により、そこから先は石刃と力技でぐいぐいと皮を剥いていく。
「そんで最後は、こう腰をしっかりと持って......ぐいっ!と引っ張れば、ほぉら!あっという間に脱皮となるのだ!」
「おぉ......」
見事な父の手捌きにアベルは思わず小さな感嘆の声を口から漏らす。
「......と、まあ、こんな感じだ。どうだ?理解できたか?」
「う〜ん、簡単そうに見えるけど、多分実際やってみたら難しいのかも」
「ガッハハ!まぁそこは個人の手先の器用さにもよるかもな。結局は“場数”なのだ。いっぱい経験積めば、きっと当たり前のように上手くできるようになるぞ」
「場数......。そうだよね、これから練習でたくさんの動物を殺していかなきゃ、狩りは上手になれないもんね......」
そう言葉を漏らすアベルの顔色は決して明るくはなかった。
生き物の死を司る生業に忌避感を抱くのも無理はない。
何より狩る獲物次第では狩る者の死亡率も高いことから、神の祝福より外れたものと言う悪評がアベルに根強く残るのではないかと、アダムは密かに懸念していた。
「やはり......アベルに狩りは少し早かったか?」
そう言って彼は苦笑も漏らすが、予想に反してアベルは首を左右に振った。
「ううん......、確かにぼくには色々とショックが大きいけど、でもその分大切なことも気づけたから」
「ほう?それは結構なことだ。ちなみに何に気づいたんだ?」
「──お父さんは残酷なんかじゃないって」
おや、とアダムは意外そうに目を丸くする。アベルは、父にどう伝えようかと迷いながらも話を続けた。
「ぼくね、思い知ったんだ。この世界の生き物の命はすべてに繋がっていて......、それなしにはボクらの暮らしが成り立たないことに」
矢に打たれて既に死んでいるものを解体するのと、トドメを刺す瞬間に立ち会うのではやはり全然訳が違うとアベルは痛感した。
ここ最近の狩りの特訓の日々で何度経験して、自分が何を糧にして生きているのかを目の当たりにして、心を震える瞬間。
「最初はとても悲しくて、怖くて、そんな生活の中にいるお父さんのことも残酷だって思っちゃって......」
「......そう感じるのは無理もない。お前の言ってることは何も間違っていないのさ。言い訳にはなるが、父さんはその残酷なことをしなきゃならない。生き物たちの命と引き換えなしにお前たち家族を養えないのだ」
「うん。そうだね。でも、昔にね、初めての【ご馳走の日】にお父さんの言葉が今でも覚えているんだ」
【無駄な殺生はしない。狩ったからには残さず食べる】
胃の腑を通り、人間の血となり、肉となる時、やがて狩られた生き物たちは人間の生命のために、失われた魂と共に生かされるのだと、アダムは常に子どもたちに説いできた。
「当時は意味がよく分からなかったけど、ぼくもこうしてお父さんと同じ立場になった今ならわかるよ。そして、こう思った。奪った生き物たちに敬意を示すお父さんは残酷なんかじゃないって」
「──!」
今思えば、ありがたみを込めて残さず食べることもあるまた種の共存なのだと、食事をする前に父は伝えたかったのだろう。
「なのに、繋がっている命のすべてのひとつだけを切り取って“残酷だ”なんて伝わっちゃうのは悲しいね」
──本当に残酷なのは、生き物の命の尊さに気づけずにただひたすら消費する人なのに。
最後にアベルが漏らした結論に、アダムは目を見開く。
気遣うような、慰めるような、それとも違う感情を交えたような声音に、アダム我が子の確かな成長を感じた気がして胸が熱くなった。
「これは正直驚いた。ここ数日でまた随分と考えが変わったものだな」
「気づけなかったものに気づけただけだよ」
「ガッハハ!にしてもその年でそれだけ悟れば充分だ!正直言ってな、カインはともかく、繊細なお前にはまだ狩りは早いかと少し心配じゃったが、どうやら父さんの見込み以上だったようだ!いやはや、感心感心!」
息子が辿り着いた答えは、アダムの予想を遥かに上回っていたのだ。
「大丈夫だ。アベル。この家族の中で“残酷”なやつはいないさ。お前と同じ心優しい......、命の尊さを充分に知っている前提で生きている。まだ幼いアワンとアズラは今それを知らないのは無理はない、だがきっとこれから少しずつ知っていくはずだ」
「うん......そうだね。そうだと、いいな」
「お前の狩りとしての心構えはバッチリだ。あとは技術面、それは経験さえ積めば上達する。アベルはガッツがちと足りんが、飲み込みは早い。このペースでいけば狩れる動物の種類も増えていくだろう」
「ほんと?」
「ああ。今はまだウサギやリスみたいな小動物のみだが、もう少し体力つけ鍛えれば、いつかアベルにだって草食の大型動物を狩れる日もそう遠くない話かもしれんぞ?」
「......じゃあ、ぼくが狩りもっと上達すれば、肉食動物も狩れるようになれるのかな?」
途端に、アダムは口を閉じた。
不自然な沈黙に、アベルが首を傾げると、アダムは目を逸らし煮え切らない態度で答えた。
「うむ、猛獣か......、あまりおすすめはせんな」
「そうなの?でもお父さんが昔、五年前くらいに狩ってたよね?──ぼくが一番よく覚えている【ご馳走の日】。確か“クマ”......だっけ?あれは猛獣だってお母さんが教えてくれたよ。」
熊。
それは森に棲む猛獣の中でも最大級の、容易に人を害することもできる最強最悪の獣だ。
幸いアダムたちの棲家の周辺には生息してはいないが、時に遠く離れた場所から偶然迷い込んでくる個体がいるのだ。とは言っても、今は遭遇率がそう高くはない。
熊は犬を何倍も大きくして太らせて、さらに後ろ脚で立たせたような姿らしい。──実際熊の生きた姿は、以前父が地面に描いた絵でしかアベルは知らない。
カインを始め、子どもが生まれてからはアダムでさえもほぼ熊を見なくなった。五年前の一度きりを除けば。
「クマ......?ああ。そうか、もう五年前......か」
一度だけ目を伏せたのは、熊を狩ったあの出来事を思い出していたからだ。
目を上げて、アダムはアベルと相対する。その顔に浮かぶのは、憂慮。
「アベルが五才の時だな。いやぁ、正直その年は本当に波瀾万丈で、わしにとってはできれば思い出したくないくらいに、いろんな事があり過ぎてな」
「特にアベルよ。お前にとっても忘れたい時期でもあるはずなのに、よく思い出したな」
「 ぁ 」
──しまった。
アベルは自身の心の琴線を触れる隙を与えたことを後悔した。
「う……、まぁ、それだけクマのお肉の記憶が強烈だったっ、ってところだ、ね」
まともに父の顔を見ることが出来ずに、アベルはしどろもどろになりながら答える。
アベルが浮かぶ五年前の”あの出来事“が再び頭にちらついて、どうしても父の顔が見れない。
あちこちに落ち着きなく視線をさ迷わせていると、ハッと気づいたように苦笑したアダムがアベルに頭に手を乗せた。
「・・・・・・すまん。今のは父さんが無神経だった。謝る」
軽く父の謝罪に軽く頷いてから、アベルは何事もなかったように話の続きを再開した。
「でもあの時ぼく.......結局クマの実物見たことないんだよね」
「そりゃお前が目にする頃にはもう【ご馳走の日】の食卓の飯になってたさ。ただでさえ当時初めての羊の解体で参っていたお前に、それ以上のトラウマでも埋め込んじゃ、わしが母さんに怒られるからの。とまぁ確かに熊は凶暴な見た目に反して、肉は案外美味だからの」
今でこそあまり食用の対象として狩らなくなったが、楽園追放されエバと地上に辿り着いた頃はよく熊と闘って、その肉を得たものだ。
特に今は熊肉の美味しい二番目の季節だ。
冬眠から醒め、痩せ細った熊は暴飲暴食を行う。その為、むっちりと肉付きが良くなり、脂が乗っていて美味とされている。
ちなみに一番美味しいのは冬眠前の秋だ。この時期は自然も大いなる実りの時季を迎えているので、熊の肉付きは更に良くなるとアダムのこれまでの経験が教えてくれる。
「──もうクマ狩りはしないの?」
「しない。絶対」
食い気味なほどの即答だった。
思わず面を食らったアベルは、目を閉ざしたアダムの苦渋の滲む表情に気づく。
「そんな何回もクマ狩りしては命いくつあっても足りないからな」
熊狩りは非常に危険なので、よほどなことがない限りはもうしないとアダムは決めている。
確かに初期の地上にはまだ多くの猛獣は徘徊していたため、自衛第一で、時には食用として、アダムとエバに危害を加える獣たちを狩ることで生活を守った。
そうして倒した動物たちの素材を利用して生活をさらに充実させていく。それが当時の狩りの役目だった。
だが、それも子どもたちが生まれてからは命知らずな狩りをやめた。家族を養うものとして唯一無二であるアダムに万一のことがあってはならないからだ。
基本的に狩りは安全が第一で、食用の肉の質や生活用品としての実用性を気にすることは後回しとなる。
鹿や猪などの大物に入る部類の獣を狩る方法は、アダムによって様々な試行錯誤を経て安全な方法が編み出されていた。
だが、熊だけは何世紀と経っても、命の危険に曝されるので無闇に撃ち取りに行くべきではない、という確信めいた結論が出ているのだ。
自分達の生活の基本は、過酷な環境の中で出来るだけ長く生き延びること。故に、命を懸けて狩猟を行うことはありえない事だとされている。
「そ、そうなんだ......。クマってそこまで怖い動物だとは思わなかった...」
「ああ。そうだぞ。熊はアベルの想像する以上に、とっっても厄介なんだぞ」
「じゃあ五年前に、どうしてクマを狩ってきたの......?」
「ああ.......あれな。まぁ運が悪かったと言うか、なんと言うか.......」
やはり思い出したくない記憶なのか、アダムは一瞬目が泳いだ。
できれば話したくない。そんな父の葛藤が見られた。
しかし、アベルはそれに対する忖度よりも、好奇心の方が勝ったのだ。
じっとこちらを見つめるアベルを見て、アダムはすぐに観念して話をし始めた。




