17話『弱肉強食』★
それからほぼ毎日、アダムとアベルは親子で狩りの日々を送った。
実践に至るまではひと月はかかると当初は見込んでいたが、アダムの予想以上にアベルの飲み込みが早かった。
アベルが最低限な狩りのスキルを身についた頃には、アダムはある日アベルを連れて日頃狩りする森へやってきた。
「ようやく実践をする日がやってきたな!アベルよ。準備はいいか?」
「うん!武器は全部揃ってるよ。お父さん」
砕いて削り出した鋭利な石を括り付けた石斧。
石を長い木の棒の先に縛りつけた槍。
分厚い毛皮で持ち手を包んだ黒曜石の石刃。
そして、木でできた丈夫な弓。
「よろしい!では、いざ行かん!」
森のなかに入ると、草原よりも何倍も濃い緑の香りに胸が躍った。
匂いだけでなく、背の高い樹木に太陽の光が遮られて森は薄暗くて、まるで別世界だ。これから生まれて初めての狩りだと、嫌でも理解させてくれる。
土や草だけでなく、太い樹木を踏みしめながら、父のアダムを先頭に森のなかを練り歩いた。
「では、奥へ行こうか。ここからは気を抜くでないだぞ?アベル」
「はい!」
森の中に入ってからアダムの雰囲気がガラリと変わる。狩人らしい厳格な雰囲気を纏い、全周の獲物を逃さず捉えながら歩いていた。
目的地は、家屋から東に歩いてしばらくしたところにある森、その西側だ。
森の奥に進むに連れて、アベルの弓を握る手に力が入る。
獲物をこの手で仕留める妄想に駆られ、初めての狩りに緊張感と高揚感を抑えきれず、アベルはせわしなくて森のなかを見渡し、手に握った弓を小刻みに踊らせる。
「いいか、アベル」
「はい、お父さん!」
練り歩きながら、アダムはここ数日でも教えた話を繰り返す。
「狙い目はネズミ、リスだ。こいつらは力が弱くて素手でも捕まえられる。それにウサギやキツネ、タヌキだな、こいつらは弓矢で──」
そこでアダムは言葉を切って、素早く左手を上げた。これは止まれの合図だ。
「さあ、アベル。お前の待ちに待った時が来たぞ。今日の狙いはあの子だ」
アダムの視線の先を負うと、一匹のウサギが野草を食べていた。大きくて丸い。とてもやわらかそうだ。
いつもは母が美味しく調理された姿でしか見たことの無い動物が動いているのは、少し不思議な感じだった。
アベルはごくりと息を呑んで、父から弓矢を受け取ると息を殺して構えた。
「深呼吸して、落ち着いて。大丈夫だ。今日までたくさん練習したんだ。自信を持ってその矢を打つんだ」
「はい!」
矢じりを弓の弦にかけ、静かに引く。
狙いを定めて三秒──これから私欲で奪い取る命と向き合う時間。
(大丈夫......大丈夫)
ここ数日ずっと生き物を狩る瞬間をこの目に焼きついてきた。
(もう、怖くない)
アベルが迷いなく右手の指を緩めると、
シュパッ!!
弦を放す音と共に、矢は一瞬でウサギの横っ腹へと吸い込まれ、目の前でバッタリとウサギが倒れた。
だが、ようやらウサギはまだ生きている様子。
「お見事!」
「当たった...!?うそ.......、」
まさか命中するとは思わなかったのか、アベルは驚きを隠せない。
そんなアベルを傍に、アダムは素早く獲物のウサギに駆けつけた。
「ほう......、こうしてみると相当大物だな!」
アダムは倒れ込んだウサギの両足を逆さ吊りに片手で掴み、まじまじと観察した。
アダムたちの棲家の周辺部では春となり、草花が芽吹き咽せかえる程。その自然の息吹きを享受し、森の中に生きる動物達も丸々と肥え始めている。
特にこのウサギは飢えから解放されて食べたのだろう。少々肥え過ぎとも言える。 故に動きが鈍り、まだアベルのような素人レベルな弓の腕にさえも狩られることとなったのだろう。
「や、やったぁ〜」
途端にアベルは力が抜けるように地面にへたり込んだ。そこですかさずアダムが叱咤する。
「コラ!狩りが成功しても最後まで油断するでない!この区域は猛獣がそう多くは出没しないとはいえ、ターゲットだけでなく周辺にも気を配る習慣を身につけろ」
「ごめんなさいっ!」
狩りには獲物の抵抗のみならず、弱った動物を横取りしに来る猛獣達という脅威も付随するのだ。気を緩める隙なんて常にあってはならない。
とはいっても、そういった生物はほとんど夜行性なので昼間に襲われることはあまりないはずなのだが、世の中には例外というのはいくらでもあるから警戒するに越したことはない。
「何度も言うが、無事に家に帰るまでが狩りなんだぞ!」
「はい!お父さん!」
「うむ!いい返事だ!では次の作業に入る!獲物は狩ってからが大変だぞ!今のアベルにとってはここからは本番だ」
「が、がんばる!」
運良く獲物を狩れたアベルは、アダムの指導を受けながらもその場で血抜きを行うことにした。
狩りの教えの一つ。
肉の鮮度を保つためには、獲物が死んだ後はできるだけ早くと血抜きをしっかりと施す必要がある。
でなければ細菌が筋肉に入り込み増殖し、それが栄養豊富な血液を伝って腐敗が進んでしまうからだ。
たった一発で仕留められたのは幸運だったが、自分たちの棲家まではだいぶ距離がある。
本来であれば流水に長時間つけて肉は痛むのを防ぎたいが、すぐ近くに水辺があるとは感じられないため、アベルたちはその場で獲物の処理の準備を始めることにした。
「よし、では血抜き一人でできるな?」
「た、たぶん......」
アダムから渡されたウサギは首元に矢を受けていて、半矢とはいえまだまだ元気な様子で前足をがりがり引っ掻いて逃げようとする。
逃さまいと両足を掴む手にギュッと力を込めれば、掌を通じてドックドックと血液が流れる感触が伝わってくる。
生きている、とアベルは改めて思った。
そうして逆さ吊りに掴んでいると、血が少し下に溜まっていくせいか、少し首からの出血が増えてきた。
「自信を持て。アベル。これまで父さんがやったようにすれば大丈夫だ」
「......はい!」
まだ心臓が動きを止めないうちに、アベルはウサギの首元の頸動脈に石刃を入れる。すると脈打つのと同じ勢いで大量の血が流れ出していく。
ビジャビジャ......!
どくどくと脈打つほどに血は流れ、地面を赤く染めていく。アベルはそこから目を背けたいのを懸命に堪えた。
ぐったりと、おとなしくなったところをフサフサな毛並みの下腹部から石刃でグサっと差し込み、喉の辺りまで恐る恐るぐぐっとゆっくり切り上げる。
(う......っ、うわぁ......)
まだ生きている真っ白なウサギの腹からは、真っ赤な内臓が露わになる。
狩りを始めたばかりの頃、アベルはこの光景に吐き気さえ覚えたが、何度も繰り返すうちにようやく少しだけ慣れてきた。こうして続けていくうちにいつかそれが当たり前の行為となるだろう。
「決して目を背けるでないぞ。アベルよ。わしら家族みんなの糧となるために奪う命にしっかりと向き合うのだ」
「うん......それは理解できるけど」
その先を言うのは憚る。
アベルがやるせなそうに眉を下げると、アダムはその思考を見透かしたようにと、強い言葉を向けた。
「狩ったからには食う。それこそ奪った命への最高の供養なのだ」
「うん......わかったよ。お父さん」
アベルは気を引き締めて、さらに手に持つナイフをさらに上へ切り上げた。
ウサギはビクビクーっと震え、手足をびくっとさせてからついに動かなくなった──尊い命をこの手で摘み取ったのだと実感した。
(このウサギは、死ぬ時に何を考えていたんだろう......)
命が尽きる瞬間の表情や体の動きが、忘れられない。
その後臓器を取り出し、足を脱骨させ、さらにウサギの腹を開いた。
肛門までしっかりと切って、中央にある動脈部分にも切り込み入れることで更なる血を出させる。
「お父さん。取り出した臓器はどうするの?」
「土へ埋めてやれ。狐やら鳶がすぐ食べてくれる」
「そうなの?」
「そうさ。餌を求める奴らはきっと血の匂いを嗅ぎつけてその土を掘り起こすはずだ」
「わかったよ」
作業を進めるたびに、アベルの手は血で真っ赤に染まっていくのだった。
そうしてアベルが血抜き作業終えた頃には、アダムが「残酷だよのう〜」と笑ってはぐらかしていた。
緊迫した雰囲気を少しでも和らげようと気を遣ってくれたのかもしれない。
母はともかく、なんの狩りの経験のない妹たちが今の場面を見たら、もしかするとアベルのことを”ウサギを平気で殺す残酷な人間”に映ったのかもしれない。
──だが、それはアベルだって同じかもしれない。
狩りを始める前のアベルも、初めはなんの躊躇いもなく動物たちを屠る父の姿に「残酷」なんて言葉が脳内に埋め尽くされていた。
しかし、今狩りを成功した時にこそ思う。
こうして大自然との繋がり、命とのやりとりを自分の生活の中に取り込んだ父は──アベルたちが感じる恐ろしさや悲しさなんてとっくの昔に経験して──それさえも通り越してもっと洗練された別のところに辿り着いている気がした。
(狩りをする時のお父さんって、慣れているように見えてそうじゃない、ような)
アベルはそっとアダムを見た。
(なんていうか......どこかやるせない感じの......)
以前アベルは父に聞いてみたことがある。動物を狩るのがつらくないのかと。
その問いに対して父は答えなかった。
その代わりに「それがわしの、人間の罪だからさ」と一言だけ返ってきた。
世の中は弱肉強食。
どんな生き物でも、他の生き物の命なしでは生きていけない。それは自分たち人間も例外ではない。
だが世界はそんな仕組みになってしまったのも自分のせいだと、父は常に言っていた。
(なんでかは分からない)
理由を聞いても父は沈黙を貫くことを徹していた。ただとても複雑で、悲しい表情を見せるだけ。その顔を見てアベルも黙り込むほかはなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
それからしばらくして、アダムとアベルの親子らは素手でネズミとリスを、弓矢でウサギや狸、キツネを仕留めていった。
とはいっても、狩りが未熟なアベルはまだ見ているだけのが多く、あとはほぼ獲物の荷物持ち。動物の毛皮で作った袋に獲物を詰めて背中に担ぐのだ。
アベルが体力尽きた頃には、背中の袋がそれなりに重くなってきた頃だ。
「よし!結構獲ったな、どこかで休憩するか?」
アダムの問いに、アベルはコクコクと頷いた。
「ガッハッハ!だいぶ連れ回してしまったから疲れただろう。確かこの近くに川があったはずだ。そこへ行こう」
息子もそろそろ体力に限界が迫っていることに笑いを零すと、二人して近くの川を目指した。




