16話『狩りの始まり』
キリキリと引き絞られる弦。
気配を消し去り風下の草陰に身を潛める狩人。
その弓よりヒュンッ!!とばかりに放たれる矢は、地を餌を求め現れた鹿に目掛け、迫り突き立った。
悲鳴を上げる間もなく転倒した鹿。
それに容赦なく続けて放たれる矢が三本。
一つ目の矢は脇腹へ。
次の矢は腕を掠めて地に刺さる。
そして最後の矢は、見事に鹿の首へと深々と吸い込まれた。
必死にバタつかせる手足は徐々に力を失い、やがて鹿はついに力尽きて深く矢が刺さった姿で動かなくなっていた。
引き絞った右手に保持した予備矢を次々に放った狩人の技である。
矢を放ち終えた狩人は、放ち終えると直ちに立ち上がり鹿へと迫り、腰帯に下げた削られた鋭い石刃を引き抜き、すでに虫の息になっていた鹿にトドメを刺した。
「今日の成果は、なかなかのモノだったな」
長身の鍛えられた肉体を持つ狩人──アダムは、満足気に呟く。
服の上からも分かる筋肉が発達した、無精髭を生やした男だ。
筋骨隆々ではあるが、動きに淀みは無く力自慢に有りがちな愚鈍さはない。落ち着いた雰囲気が貫禄を印象付ける。
「う、うわぁ......痛そう......」
「痛くしないと捕まえられないからな」
「でも......なんだかかわいそうだよ」
「確かにかわいそうだ。だが、アベル。お前たちが生活に困らず、飢え死にしなくて済んだのはこやつらのおかげなんだぞ?」
「......でも、こんなの、思ってたのと違う」
正論に口を噤むも、目の前で絶命した鹿を見下ろすとやるせない気持ちになる。
食べるための殺しと、練習と称して試すための殺しとでは気分が違いすぎるのだ。
アベルは少しだけ、父の狩猟についてきたことを後悔するのだった。
始まりは、思い出したかのように息子たちに告げたアダムの言葉だった。
「今度狩りに来てみないか?」
ある日いつもの狩猟を終えてから家の中に入ると、アダムが銃の手入れをしていた。
全身を覆う毛皮の衣類に革の長い靴と手袋に、手製の弓と竹を編んで作った矢筒を背負った父がアベルの目にはいつ見ても立派で憧れだった。
アベルと同じくらいの背丈のあるそれは「弓矢」というらしい。
昔一度触ろうとしたらかなり怒られたので、それ以来アベルは無闇に近づかないようにしている。
「お前たちもいい歳だ。そろそろ狩りというものを身につけた方が、今の家族の生活がより安定すると思うぞ」
雪解け水が川の氾濫を起こした後の大地に麦や豆、野菜の種をまいて実がなったら採取したり、山羊や羊の乳を絞ったりなどの原始的な農耕や牧畜は行われているが、あくまで食料獲得のメインの方法はまだまだ「狩猟」と「採集」である。
女たちが森で集める木の実や茸には限りがあるが、男たちの狩りが上手くいって、特別大猟だったときや、食糧難の時にはご馳走の日にしてお腹いっぱいになれる。
狩猟さえできれば、カインとアベルが担う農耕や牧畜はやがて冬を越すために行う副業のようなものに変わるが、これまで生きた長い歴史の中でも餓死とは割と遠い生活になれるだろう。
「どうだ?カイン。一から父さんから教わるのも一つの良い経験ではあると思うぞ」
アダムの提案にカインが眉間に皺を寄せた。あぐらを搔いて座った膝に肘を付け、そのまま額に手を当てる。
崩れ落ちそうな体を腕で支えて深いため息を吐いたカインの様子に、アベルが首を傾げた。
やがて、
「オレは、遠慮する」
そう即座にぶっきらぼうに吐き捨てて、カインはそそくさと出て行った。
「あ......カインお兄さま、お待ちください!」
そのあとを追うように、アワンも一礼してから出て行った。
その場に残ったのは見事に撃沈するアダムと、どこか気まずいアベルだった。
「ど、どうだ?アベルも十才になったんだ、今度父さんの狩りについてきてみるか?」
出て行ったカインを悲しそうに見送ったあと、今度はどこか縋るようにアダムはアベルに聞いた。若干涙目なのがより一層哀れに見える。
こういうときどっちが大人なのか、わからなくなるくらい父のアダムは情けない顔をする。
「う、うん!ぼくは行ってみたいな!」
「おし!そうこなくっちゃな!!」
アベルの返答に、アダムはすぐにニカっと満面の笑みを浮かべた。相変わらず切り替えが早い。
「狩りかぁ〜、ついにぼくもあの森の中へ入れるんだね」
「そうだな、基本森は危ない場所だから立ち入り禁止にしているが、今回は父さんも同伴することだし、特別に許可してやろう」
今まで家の近辺しか知らないのでちょっとした冒険気分だったんだろう、アベルは少しワクワクした気持ちだった。
「あらあら、アベルも狩りを始めるの?頑張ってね」
ちょうど屋内に入ってきた母のエバも話の流れを察してか、笑顔でアベルの背中を軽く叩き「アベルもここまで大きくなったのね」と激励してくれる。
「むぅ〜アベルお兄ちゃんいいなぁ。アズラも一緒に混ざりたい〜!」
その間から、アズラが羨ましそうな顔でアベルを見上げる。まだまだ五才で、女のアズラには別の仕事がある。
「ふふ、ダメよ、アズラ。狩りは男の仕事なんだから。アズラは家でお母さんのお手伝いをお願いね」
男は外で危険な作業をこなし、女は安全な家でこどもと生活を守る。それがこの時代での当たり前だった。
「え?アズラはまだ五才なのに、家の手伝いとか大丈夫なの?危なくない?」
「ちょっと!アベルお兄ちゃん!?“まだ”じゃなくて、アズラは“もう”五才なんだよ!?この間の採集だって、アズラが一番いっぱい木の実を集めたんだからね!いつまでも何もできない赤ちゃんじゃないからね!」
「うふふ、アベル。アズラの赤ん坊の頃から知っているあなただからこの子に過保護になるのはわかるけれど、あなたの思ってるよりもアズラは自立しているのよ?」
人類といえどもほぼ野生の生き物なので、幼児期は比較的早熟だ。
草食獣のほとんどが生まれてすぐに立ち上がらねば生きていけないように、ここでは、ヒトといえども早々に最低限の自立を果たさねば、生き延びては行けないのである。
弱い個体は淘汰される。厳しいが、そうやってより生存能力の高い遺伝子が凝縮されて行くのだ。
「そっか.....アズラはえらいね」
「ええ。男のあなたは外にいること多いから家にいるアズラをあまり目にすることないけど、アズラはね、毎日アワンと一緒によくお母さんの仕事たくさん手伝ってくれて助かるのよ」
「で、でもさ......いくら自立してても、さすがに弓矢は危険だから......」
眉尻を下げ、困ったように言うアベルに加勢するのはアダムだった。
「そうだな。男の仕事を女のアズラには無理ぞ!というかさせられないからの」
「そんな〜アズラだって弓を引いてみたいのに......」
「こればかりは譲れないな。男は狩り、女は森で採集って決まっているのだ。アズラはいい子にして母さんとお留守番だな!ガハハハ!」
アズラは軽く頬を膨らませると、足の指で地面をこづいた。
そんなアズラの頭をアダムはやさしく撫で撫でして言い聞かせるように語る。
「ちぇっ」
「ごめんね。アズラ。そんな顔しないで、ほら。せっかくのかわいいお顔が台無しだよ?」
アベルも一緒に頭を撫でるとアズラは、ぱっと笑顔になる。この急なご機嫌直しは間違いなく「かわいいお顔」という言葉のおかげだろう。
アズラのわかりやすい反応に対してアダムは少し物言いたげに、拗ねるようにぼやいた。
「なんだ......随分とわしへの待遇の差が違くないか?」
「えへへ♪じゃあおいしい木の実とキノコ、アズラいっぱい採ってくるから、アベルお兄ちゃん楽しみにしていてね♪」
「アズラ!?お父さんの分は!?」
悲痛な父の訴え目の端に、アベルは母と末の妹に見送られ意気揚々と狩りに出掛けた。
◇◇◇◇◇◇◇
その数日後──つまりは今日、アダムに連れて行ってもらった狩りは想像を絶するものだった。
獲物である鹿を追いかけ回す荒々しい足跡。
あの弓矢からドォン!という大きな音が心を震わせる。
それに血を流してぐったりと倒れている鹿が小さく痙攣している姿を見て背筋が凍った。
「とまぁ、ざっとこんなもんだ。だけど気をつけなきゃならないのは牡鹿だ。牡鹿が角をかざして突進してきたら、弓を引いているヒマなんてないからな。そんときゃあ槍で応戦だ」
「う、うん......」
父が説明する間でも、アベルは鹿の屍体から目を逸らし続けた。
今までも父が狩ってきた獲物を見たことがあるし、父が羊たちを解体する時の血も今ならようやく慣れっこだった。
でもそれは死んで動かなくなった姿しか見てなかったからであって、目の前で殺意を持って屠り、息絶える瞬間を目撃してしまった今は話しが違う。
初めて狩りという仕事がどんなものかを知ったアベルはとにかくいまだかつてない衝撃だった。
「......」
「む?アベル?黙り込んでどうしたのだ?」
「…...鹿さん、死んじゃった…...」
「ああ、そうだな」
「この鹿さんも、今日のみんなのご飯になるの?」
食卓に出される動物の肉を今までは何とも思わなかったのに、こうして直接生き物の死を目の当たりにすれば、複雑な気持ちに駆られる。
鹿にも自分と同じように家族がいたかもしれないと思うと、アベルはとても悲しい気持ちになった。
「父さんのこと、酷いやつと思うかい?」
「......う、ん」
アベルがこくりと頷くと、アダムが手招きしたので近づけば、優しく頭を撫でられた。
「そう思うのもアベルの優しさだ。間違ってはいない。その気持ちをいつまでも大切にしなさい」
だが覚えておいてほしいこともある、とアダムは前置きをしてから続けた。
「この世界の生き物はみんな何かを食べて生きていると思うか?生きるためには食べ物がいる、父さんもアベルも家族みんな生きるために食べる…...これはわかるかい?」
「......はい」
「みんな生きるために何かの尊い命をいただく、弱肉強食の世界でこの鹿の命をいただくということは生きるということだ」
「生きる…...」
「アベルの飼っている羊とて貴重な生活源なのだぞ?いつかは父さんを引き継いで、遊牧民となるお前が自身の手で殺すことになるんだぞ」
「ボクに、できるかな......」
「それが羊飼いの仕事でもあるのだ。それだけではないぞ。動物の血を流すのは、いつか神に近づくためにも必要な儀式だ」
「儀式?」
「いつかお前たちにも課せられるものだ。前にもお前たちに説いたはずだ。その時に必要なのだ──血の犠牲を」
アベルは“血の犠牲“といういかにも不穏な言葉に一瞬ひどく驚いたが、過去に父からの教えの片鱗を思い出し、そう言うことかと渋々納得した。
「そう、だから命は無駄にしてはいけない、食べ物を粗末に扱ってはいけないんだ。食べる時に常にをいただくことに感謝の気持ちを込めて残さずに食べるのだぞ」
「ありがとうってこと?」
「ああ。そうさ」
神妙な顔つきで話に耳を傾けるアベルに頷くと、アダムは諭すように笑いかけた。
「今日お前を連れてきたのは、そのことを学んでほしいと思ったからだ」
鹿を可哀想と思う憐れみの気持ちと、鹿のおかげで生きることができることへの感謝の気持ちとが心を支配する。
十才にもなれば善悪の判断もそれなりに容易になる。
生きるために仕方がないとしてもそう簡単に割り切れるものでもないし、罪悪感はすぐには消えそうにない。
父の本分は狩りという名の「獣の命をいただくもの」だった。今日も生きるために何かの命を頂戴して、アベルたち人間は生かされている。
命とは何なのか。
生きるとはどういうことなのかをアベルは改めて考えさせられた。
「よし!今日はここまでだ」
そう言いながら、アダムは慣れた手つきで地面に横たわる鹿を縛り、担ぎ上げた。
「え?今度はボクが狩りをする番じゃないの?」
「実践はもう少しなってからだ。当分はあくまで見学だ」
「当分......、」
確かにいきなり本番だと考えるのはあまりにも楽天的だが、当分見学だとはさすがに予想もつかなかった。
少し納得のいかないアベルを見て、アダムは真剣に言った。
「今のアベルの認識ではわしら人間が動物を狩る前提としているが、その逆だってあり得ることを忘れてはならんぞ?」
「......あ、確かにそうだね」
現時点での人類の狩りは、比較的大型で動きの鈍い草食獣を狩るスタイルが主流である。
草食獣といえども、概ね体は大きく力も強い上に、己の身を守る術を持ち合わせているためバカにできない危険な相手だ。
かといって、危険度の低い生き物はそれなりに逃避術を持っており、狩るには難易度が高い。
今のところ、棍棒と石のが武器の全てと言っても過言ではなく、基本近接戦であることがほとんど。飛び道具といえば投げ石か、あるいは今アダムが手にしている弓矢が関の山。
楽園追放されたばかりの頃のアダムも、はじめこそ命がけで、満身創痍となっていたものだ。
「狩りはお前が想像するよりも遥かに危険なことなんだぞ。そんなすぐにできるほど甘くはない。むしろ命懸けと言ってもいいんだ」
当然人間が獣に襲われる事もある。
棲家では周りに石や木の枝を積み上げてそれなりの防壁を築いているが、一歩外に出てしまえば人間なんて、か弱い上に皮が薄くて食べやすい、猛獣にとっては絶好の獲物だ。
したがって、悲しい事ではあるが、「死」は人間の生活に非常に身近であった。
「でも、ボク早く動物を狩るの慣れたいし、牧畜だけじゃない形で早く家族に貢献したいんだ...」
「ガハハハ!さては焦ってるのか?アベル。心配せずとも父さんがきっちり狩りを教えよう!お前の心掛けは立派だが、だからこそまずは基本から学ぶ。つまり最初は狩りの知識をしっかり知ることはとても大事だ」
アダムは焦燥感に駆られるアベルを宥めるようにくしゃりと頭を撫でて、口を開いた。
「知識があるだけで、命拾いすることだってあるのだぞ?少しずつでいいのだ。最初は数日かけて基本的知識を教えよう。基礎が頭に叩き込んだら実践とする。その時はそうだな......、まずは小動物の狩りをさせることを約束するぞ!」
「本当?」
「本当だとも!だから明日からはアベルの仕事の空いてる時間に狩りの練習だぞ!言っておくが父さんはスパルタだからな?覚悟しておくように!」
「うん!ぼく、がんばる!大人になったら家族の生活に役立てるように、早くお父さんみたいに狩りを上手にできるようにしたい!」
「ガハハハ!本当にアベルはやさしい子だな!こんなに素直だと父さんも教え甲斐があるぞ?」
和かに笑ったアダムは踵を返して、足音を通路に響かせて来た道を引き返していた。
「というわけで、今日のところは帰ろう。日も暗くなった来たしな」
「うん!」
アベルは何度も頷いた。




